私は以前いた職場で、ある先輩のことをどうしても許すことができなかった。
 それは彼にはADHD的な特性があったからだ。彼は仕事ができなかった。心療内科に行けば、きっとその診断が下されただろう。
 一方で、私自身はADHDの診断が下された。しかし、そのころはまだ、私はADHDという概念すら知らず、自分のその特性を認めていなかった。私は薄々——つまり無意識の領域では——そのことに気づいてたのだが。私は人一倍努力し、必死で健常者の水準に至ろうとした。「私は健常者だ」というのが、私の私に対する認識だったからだ。私はADHD的ではいけなかった。それは私には、決して許されないことだった。
 私はその先輩がミスをするたびに、激しく叱責した。職場の裏に呼び出して怒鳴りつけたりもした。その人は歳上だったし、立場の違いもあったが、関係がなかった。その怒りの衝動に、私は抗うことができなかった。一方で私自身がミスを犯したときは、私は私自身を激しく憎悪し、自ら再発防止策を立てた。
 そのころ、私は発達障害に関する本を読み始めていた。ほとんど気まぐれでだった。
 そこに書かれたADHDの症状は、まるで私の自己紹介が書かれているようだった。そしてそれは、例の先輩の自己紹介でもあった。私は自分がADHDなのだろうと思い始めた。無意識の領域ではなく、意識の領域で。しかし、それは依然として、私には許されないことだった。たとえ私がADHDであろうと、その特性は許されない。私は健常者でなくてはならなかったのだ。
 その一方で私は、ユング心理学に関する本も読んでいた。私は、抑圧や投影、シャドウという概念を知った。
 「私は、自分のADHD的な特性を認めていない。つまり抑圧をしている。それを例の先輩のなかに見ている。だから私は、その先輩を激しく攻撃するのだろう」と思った。つまり、理屈の上での理解をした。
 私は自分のADHD的な特性を認めることにした。自己受容だ。私はADHD的なのだ。私は健常者ではないのだ……と。それはある種の諦めだった。
 その日を境に、私は例の先輩に対して叱責しなくなった。先輩に対する怒りと憎しみの感情が消えてなくなった。私のなかのADHD的な特性に対するそれらも。そして、その先輩に対して、心の底から申し訳なく思った。それは私の罪だと感じた。

 その後、その職場に初老の女性がパート社員として入ってきた。彼女には、ASD的な特性があるように見えた。
 私にもASD的な特性があった。しかし、そのころには、その特性がなくなっていた。それは努力の結果、ほぼ克服されていた。
 しかし私は、彼女に対して激しく叱責した。彼女に対して、怒りと憎しみの感情を覚えた。私は、かつての自分——つまり、ASD的だったころの自分——を、彼女のなかに見ているのだろう、と思った。私はかつての自分を許すことができていないのだ、と。
 私は、かつてのASD的だったころの自分を許すことにした。それから私は、彼女に対して叱責することも、憎悪の感情を向けることもなくなった。



 私には、身体的なコンプレックスがいくつかある。
 私はそれらを意識の外に追いやっていた。厳密に言えば、それらに対する私の思考・感情、つまり想念を。つまり、私にはまだ抑圧があった。
 一方で私は、他者の身体的なコンプレックス (だと思われる) に対する私の想念も抑圧していた。私のなかの超自我——内在化された規範——が、その想念を許さなかったからだ。その想念とは、私にとって (あるいは一般的に) 悪だった。
 そのことから、私には、投影と外化が発生した。投影とは、「自分の、自分に対する想念を、他者の、自分に対する想念だと錯覚すること」。外化とは、「自分の、他者に対する想念を、他者の、自分に対する想念だと錯覚すること」。つまり、私は、二重のフィルター越しに、世界と他者を見、それらを解釈していた。
 私は防衛機制に関する勉強から、私にはまだ抑圧があり、投影と外化があるのでは?と考えた。
 そして私は、私のなかの抑圧を解いた。つまり、自分の自分に対する想念と、自分の他者に対する想念を、自分自身の想念なのだ、とハッキリと意識化した。それは、強い苦痛を伴うことだった。私は自分のなかの超自我の命令に背き、悪を受け入れた。
 そして私のなかの、自分と他者に対する、コンプレックスに関しての抑圧はなくなり、投影と外化もまた消え去った。私と世界のあいだにあった、二重のフィルターは姿を消した。
 そのとき私は、自分の感じることのできる想念は自分のそれだけなのだ、とハッキリと自覚した。他者の想念だと思っていたのは、自分の想念だったのだと。頭での理解はあったが、心での理解がなかった。
 他者の想念は推し量ることはできる。あるいはそれを認識することもできるのかもしれない。しかし、私が「感じる」ことのできる想念は、私のそれだけなのだ。たとえ、私と他者の想念が合致していたとしても。



 鍵は、頭——つまり理屈だけの理解——だけではなく、心——つまり感情を伴った——理解をすること。イメージの力を利用する。イメージのなかに、自分自身を投げ入れる。