先日、自公、維新、民主の各党の安保法制について比較を行ったところ、非常に多くのご意見を頂きました。改めてありがとうございました。その中には当然、あえて別論にした憲法論についての見解を知りたいというご意見もいくつか頂きました。政治家であり、かつ法律家であるからこそ、今回の安保法制を考える上では不可欠なこの論点、自分なりの見解をまとめてみることにしました。


まず、一般に何らかの立法を行うときには、必要性と許容性の双方の見地から考えることが重要です。

まず、なぜその立法を行う必要があるのか(必要性)という実質を論証しなければなりません。でもこれだけでは不十分。その必要性に応じて行う立法が憲法上、またはその他の法律上認められうること(許容性)も同時に備えていなければなりません。今回の安保法制に関しては、憲法解釈の変更を伴うものであるがゆえに、慎重にこの点を検討することが必要となります。


≪必要性の有無≫

そこでまず、今回の立法の必要性について述べたいと思います。

当方が衆議院に在籍している間、後半の1年間は安全保障委員会に所属をしていた関係で、独自に様々な勉強をさせて頂きました。もちろんそれを全て改めて書き記しても良いのですが、この点については参考になる記事が既に多数ありますので、その中からいくつかご紹介させて頂きます。
(一応、いわゆる「国粋主義者」と言われたり、「極右」と言われるような方のものではなく、どちらかというと「国際派」であったり、「現実主義者」と評されるものをご紹介させて頂きました。誰もいわゆる「戦争をしたい人」ではないと思います。)

「『中国』の名を口にしなかった安倍首相の謎 ~ なぜか説明されない安全保障関連法案の本当の目的」 
「集団的自衛権」行使容認は日本の「安全」のため ~ 戦争準備に入った中国を牽制する唯一の道 
かつてのソ連とは次元が全く異なる中国の脅威 ~ 集団的自衛権の行使ができなければ日本は守れない 

簡単にまとめると、集団的自衛権は、中国の膨張・拡大主義を抑えるための抑止力として不可欠なんだということです。(なお、現実的な国際派のジャーナリストで集団的自衛権などなくても中国を抑止できると言っている文献を、当方、寡聞のため知りません。)

この点、恐らく、皆様の中には、「歴史修正主義」の安倍政権は戦争をしたいから集団的自衛権を容認すべきだと言っているに違いない、と思ってきた方も少なくないと思います。安倍政権を倒せば集団的自衛権の議論なんか止められる、そう勘違いされている方もいるかもしれません。

しかし、それは全く違います。

時はさかのぼって、民主党政権下。
鳩山由紀夫首相の時代に選任された委員によって開催された「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」が、菅直人首相(当時)に、防衛に関して、とある報告書を提出したときのことを思い出して頂きたいのです。

そのとき提出された報告書がこれ(新たな時代における日本の安全保障と防衛力の将来構想 ―「平和創造国家」を目指して― )です。

この報告書では、驚くなかれ、今までの政府解釈を変更して、集団的自衛権の行使ができる環境を整備すべきと既に結論付けられているのです。

※ この報告書ををもう少し詳しく説明すると以下のとおりとなります。
まず、「憲法解釈上、集団的自衛権は行使できないものとして、その安全保障政策、防衛政策を立案、実施してきた。ただし、こうした政策は、日本自身の選択によって変えることができる」として、集団的自衛権を行使しないことが不変のものではないことをあえて前提として明記しました。
そのうえで、「日米安保体制をより一層円滑に機能させていくために改善すべき点には、自衛権行使に関する従来の政府の憲法解釈との関わりがある問題も含まれる」と指摘し、「日米同盟にとって深刻な打撃となるような事態を発生させないため、政府が責任をもって正面から取り組むことが大切である。日本として何をなすべきかを考える、そういう政府の政治的意思が重要であり、自衛権に関する解釈の再検討はその上でなされるべきものである」と結論付けられています。
つまり、自衛権の行使に関して、日本として何をなすべきかを政府の意思として決定した上で、従来の政府解釈の再検討を行うべき、すなわち、必要に応じて政府解釈の変更によって集団的自衛権を認めるべきだとされているのです。


民主党政権下で選任された委員によって開催された会議体ですら、集団的自衛権の行使に踏み切るように答申しているのです。菅直人氏からバトンを受け継いだ野田佳彦前総理大臣が集団的自衛権の肯定論者であることは前回の記事の中でご紹介しましたが、これは、ある意味必然です。

民主党に投票すれば集団的自衛権を止められると思っていらっしゃる方、残念でした。

このように、政権政党のいかんにかかわらず、安全保障の専門家に議論をさせれば集団的自衛権が必要と結論付けられる。これが集団的自衛権行使の必要性があることの最大の論拠に他なりません。


≪許容性の有無≫

冒頭に述べたとおり、必要性があるからといって、この許容性がなければ新たな立法ができないことは言うまでもありません。この許容性をどう考えるか、本件の安保法制に関しては合憲性の問題をどう説明するかが議論されています。

この点、法律家の方々が、違憲の疑いのある立法など許されないという立場を示していることは理解します。公務員が「憲法尊重擁護義務」を負っているのは憲法上明らか(憲法第99条)ですし、「立憲主義」が近代国家にとって極めて重要だということは誰でも知っていることですから。だから、必要であれば憲法改正を行うべきだ、というのはその通りです。筋を言うなら、僕もそうすべきだと思います。

しかしながら、自分は、法律家としても、憲法改正されない限りはダメだ、と単純に結論付けるべき問題ではないと考えています。

特に国家の安全保障という問題に関して、高度な立法性の必要性がある中で、かつ憲法第9条の改正を行うことが現実的に考えて容易でない場合に、座して悲劇的な事態の発生を待つのか、それとも合理的な方法によって憲法解釈を変更するのか、何れを選ぶかと言われたら、自分は後者を選択します。

繰り返しになりますが、もちろん文面上明らかに違憲だという立法をすることはあってはなりません。しかしながら、立法を行うべきという安全保障上の高度の必要性があるとき(ここが大事です。)に、明らかに憲法違反にはならないよう、論理的に合理的な説明を付けられるのであれば、その範囲で立法を行うことは決しておかしなことではありません。(もしかしたら、ここの価値観の相違こそが埋めがたい差異なのかもしれません。)

この点、集団的自衛権の容認に関しては、憲法違反にならないような筋道や論理なんかありえない、と考えている方も少なくないかもしれません。憲法学者の多くはそういう解釈を行っています。

しかしながら、一部の有力な学者はそんな解釈に与していません。

まず、京都大学の大石眞教授は、自らの著書の中で、集団的自衛権に関して、憲法改正という手続きを踏むことが「最も賢明なやり方だと考えられる」が、「憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」として、解釈変更によって集団的自衛権を容認する余地を認めています。

また、同じく京都大学の曽我部真裕教授は、集団的自衛権を全面的に認めることはできなくとも、それがあくまで自国の利益のために行使する範囲内であれば(集団的自衛権を自衛のために行使するのであれば)集団的自衛権が認められると結論付けています。

※ なお、これらの見解を述べられている大石教授も曽我部教授も、過去の研究等を見ても、いわゆる「日本会議」に所属するような「偏った」思想の持ち主ではなく、通常はどちらかといえばリベラルな見解をお持ちの方に見受けられます。なお、特に曽我部教授は、当方の司法修習所での同期かつ同クラスでしたので、人間的にも非常にバランスのとれた方であることは個人的にも良く理解しているつもりです。

※ ちなみに、ワイドショー的な観点でいえば、普段は政府よりの見解を示す気がする東大系の教授が今回は違憲論をぶちまけ、他方で、歴史的に自主独立の気風を示す京大系の教授が反対に合憲の余地を論じるというのは、憲法学の面白さの一つであるようにも思いますが、それは別論としておいておきます。


以上のとおりですので、集団的自衛権も憲法解釈によって合憲であると解釈し得る余地があることまでは理解頂けたでしょうか。

後は、どういう規定をすればより憲法に適合すると言えるか、になって参ります。

ここで、ようやく≪自公案≫と≪維新の党案≫の比較に移ります。

まず≪自公案≫ですが、前回ご紹介したとおり、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」にのみ集団的自衛権を行使できるとしており、その意味で、先ほどの曽我部教授の立場から、「自国の利益のために行使する範囲内」として合憲としうる余地はあると解されます。

しかしながら、曽我部教授も指摘されているとおり、≪自公案≫に関しては、内閣の優位という憲法の構造的な問題や判断を誤った場合の検証という形での事後統制が不十分であること等を踏まえて、なお違憲の疑いがあるとされています。

これに対して、≪維新の党案≫ですが、「我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」にのみ集団的自衛権を行使できるとしており、≪自公案≫に比べてより直接的な場合に絞っていることから「自国の利益のために行使する範囲内」にあるとより言いやすく、そのためより合憲だという結論に結び付けやすいと思われます。
(ただし国会での答弁ではこの点を上手く説明できなかったことが残念です。)

しかしながら、この点曽我部教授から直接見解を伺っているわけではありませんが、≪維新の党案≫においても、やはり先ほどの曽我部教授の指摘からすると、国会での統制が不十分だとして、やはり違憲の疑いは免れないのではないかと思います。

※ なお、橋下徹市長が、Twitterで「国会議員を最前線に送りこめ」という趣旨のことを指摘しているのは、まさにこの点に関しての適切な意見だと思います。
内閣の優位という憲法の構造的な問題や、判断を誤った場合の検証という形での事後統制が不十分であるという曽我部教授の指摘に対して、そもそも国会議員が自らの命を懸けて判断するのであれば、いくら憲法上内閣の優位があろうとも国会議員は本気で集団的自衛権の行使の是非を判断するだろうし、今後自らの命を失いたくないからこそ、判断を誤った場合の検証を全力で行うことになるだろうと思われます。その意味で国会における統制が実質的なものへと変質することになるわけです。
「国会議員を最前線に送り込む」ことの現象的な面に捉われると荒唐無稽という判断をすることになるのでしょうが、そこでの真意を見抜けなければ、そもそも橋下市長と対等に議論する前提を欠くのではないかと思います。余計なお世話ですが。


以上の通りですので、より自国の防衛に焦点を絞っていることを重視してあえて比較をするならば、やや≪維新の党案≫が有利だと思います。しかし、何れにしても国会における十分な統制という意味で違憲の疑いを完全に払しょくできているわけではないという意味では、両者に絶対的な差異があるわけではないと理解しています。


ということで、ようやく自分なりの最終的な結論となりますが、確かに憲法適合性の点では、やや≪維新の党案≫が有利ですが、前回の記事でご紹介した国際法との兼ね合いを考えると、日本は国際法に反して他国に先制攻撃をする可能性があるという結論を招きかねない、その意味で「平和国家」としてのブランドを捨て去りかねない≪維新の党案≫はなお採用しづらいところです。

その意味で、別に憲法的に真っ白で清廉潔白というつもりは毛頭ありませんが、現実的な「解」としては≪自公案≫が最も優れていると結論づけたいと思います。


最後に、≪民主党案≫に関して一言述べたいと思います。

前回述べたとおり、残念ながら≪民主党案≫というものはありません。自分ならどうするという見解もなく、また、自ら開催した安保懇において出された解釈変更により集団的自衛権を認めるべきという結論に対してどう向かい合うのかについて、いまだにたなざらしの状況の中で、単に安倍政権批判を行い続けるというのは、正直あまりにも無責任ですし、目先の選挙で闘えればいいという程度の覚悟しかないと言わざるをえません。

そういう意味では、やはり残念の一言に尽きます。

その点、ここ数日民主党内で対案を出そうという動きが出てきていることは、その意味で心強いことです。党内で様々な反対意見が出てくるかもしれませんが、ぜひ頑張って貫いて頂きたいと思います。



前衆議院議員 三谷英弘