高倉健さん 五十年以上続けた善光寺節分詣で その1 | 幸せ信州

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  もうすぐ節分。高倉健さんは長野の善光寺節分会詣でを亡くなる年まで、五十年以上続けたということです。
 このエピソードを、健さんの養女で高倉プロモーション代表の小田貴月さんは、『高倉健、最後の季節(とき)。』(文芸春秋刊)で、次のように綴っています。


 二月二日、節分前日。高倉は例年通り、長野の善光寺にお詣りに向かいました。
「僕が初めて善光寺に行ったのは、デビューして四年目だったかな(一九五九・昭和三十四年)。二月の節分会(せつぶんえ)の豆まき。(東映の)宣伝部から「健ちゃん、行ってくれないか」 って声かけてもらったのがきっかけ。プロ野球の選手とか、相撲取りとかに混じってね。そのころ(主演)映画に出て一本二万円。善光寺さんで、袴姿になって豆まきして、ギャラが五万円。それに、豆まきした晩は、温泉宿に泊まれるんだから。次の年は、自分から 『行かせて下さい』って頼んで、二年続けさせてもらったんだよ。そのあと、もうその仕事はないんだから、普通は行かなくなるだろ。それが、違ってね。なんか、二月の節分は、善光寺さんに行かないと気持ちが悪いって思うようになって……。
『海へ See YOu』のときなんか、海外でロケしてたんだけど、この日だけはって日本に戻ってきて(善光寺に)お詣りしてね。『単騎(千里を走る。)』のときは、最初から、節分はスケジュールをNGにしてもらったし、よく続けられたとおもうよ。
 あそこへは、○○0お願いしますじゃなくて、一年間、おかげさまで無事にいきられました。ありがとうございましたって。お礼をしに行ってるんだなって思う」
 海外の撮影でどうしても都合がつけられなかった数回を除いて、長野の善光寺詣では、亡くなる年まで五十年以上続けることができたのです。
    出典:『高倉健、最後の季節。』26ページ 小田貴月著 2019年 文芸春秋刊

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 2014年11月10日にこの世を去った映画俳優の高倉健さん。小田貴月さんは、「僕のこと、書き残してね。僕のこと一番知ってるの、貴だから」と生前の高倉さんから言われ、誰にも見せていなかった映画俳優の素顔を綴り『高倉健、その愛。』を上梓したという。

 

 

 

 



■━【 節 分 】━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■
 節分(せつぶん、せちぶん)は、雑節の一つで、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことも意味している。江戸時代以降は特に立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。
                     『ウィキペディア(Wikipedia)』より