令和3年(2021年)2月22日 第393回
原宏一「佳代のキッチン」 ・・・前回、第三話・板前カレーの続き
ライブ拾徳のカウンターのおじさんは、宇佐美勝彦の事を知っていた、→かっちゃんは喧嘩早いから、よく、客を相手の料理屋が務まってるよ、と言う。 それなのに、二代目社長からあれだけの怒声を浴びても、じっと堪えていた。 島根・松江に行くまでにもう一度二人に会ってキチンと話してみようと、連絡を入れると、勝彦さんのお母さんが出て、→麻奈美さんが倒れてしまって・・・と言う。 妊娠3ヶ月で過労・心労が続いていたのが原因だと訊かされたら、咄嗟に、→手伝わさせて下さい、と申し入れていた。 着物は始めてでご主人のお母さんに手伝って貰って何とか着付けを整えた。 あの二代目社長は藤巻と名乗って予約も無しに現れた。 連れの三人は会社の部下らしい。 社長の横柄な態度に低姿勢で接している。 玄関の花瓶の花が萎れている、とさっそくのクレームだった、麻奈美さんの事があって気が廻らなかった、こちらの油断だが、そんなに偉そうに言わなくても・・・と、佳代は内心毒づいた。 料理が出される度に小言が続き、他のお客も呆れたように藤巻社長の横顔をチラ見していた。 そして、→最後にカレーをもらおう、と横柄に言う。 佳代は、→今日の献立にはカレーはありません、と断わったが、→時間がかかってもエエ、と引き下がらない。 →佳代さん、イイです、僕が作ります、と冷蔵庫からひき肉や野菜を取り出して用意を始めたが、→私は機械挽きしたミンチは使いません、ブロックのバラ肉を叩いてミンチ状にして使うのがコツと言い、(弟子の)タカ君に、店の傍に駐車しているキッチンカーから予備のブロック肉を持って来させた。 アトは流石に料理人、二人でテキパキと作り始め、佳代のカレーと同じモノが出来上がった。 →藤巻社長、実は、これはこの佳代さんのカレーです、これまで嘘をついておりました、申し訳ありません、ですから、もうカレーは出せません、「宇佐美」は私の店ですさかい、これからは私が考えた料理しか出せません、私の料理が食べたいお客様にだけ通って貰います、私は勘違いしておりました、佳代さんのお陰でやっと気がつきました、今日のお代は頂きませんので、デザートを召し上がったらお開きにして下さい、と押し殺した声で断固と言い放ったのだった。 藤巻社長は顔色を変えながらも、→よう言うた、と捨て台詞で引き上げて行った。 しかし、どこからどうなったのか、一夜にしてカレー事件が知れ渡ったみたいで、京料理老舗店の元・二番板が気合を入れた店をやっている、って一気に噂となったらしく、朝から電話が鳴り響き、あっと言う間に二週間先まで予約、三日後には一か月先まで予約で一杯になった。 お陰で佳代は麻奈美さんが退院してくるまで二週間追加で接客に追われた。 ・・・今、松江に向かう途中、岡山のドライブイン駐車場で、京都伏見の大吟醸酒を美味しく吞みながら弟・和馬にその顛末を聞かせていた。
第四話 コシナガ
松江で雨の中、濡れた儘、トロ箱を4つ積んだリヤカーを引いているおばあちゃんに佳代は声を掛けた。 →乗って行きませんか? →こんな雨、すぐ止む、と言いながら、→宍道湖の蜆はどうかね、コシナガもイイのがある、とトロ箱を開けた。 佳代のキッチンと書かれていたから移動レストランと間違った様だ。 商売の内容を説明しながら、→折角だから、賄い用にもらいますが、コシナガとは何ですか? →本マグロの子供で、関東ではメジだったかな、と言う返事だった。 刺身を作ってくれると言うので厨房車に招き入れると、→いや、何でも揃うちょうな、と感心する。 →一緒にこの刺身でお昼ご飯、如何ですか? →イヤ、魚は売れ残りを食べ過ぎたから、もう食べん、 →それなら昨日のミートボールのトマト煮で食べましょう、 →ハイカラやな、じゃ、よばれよう、・・・食べながら、→連れ合いは40年前に亡くした、息子は捨てた、とキツ目の言葉だった。 このおばあちゃんに紹介してもらった、湧之水温泉の「旅荘 水名亭」の仲居頭・家坂さんが裏庭の井戸まで案内してくれた、毎日、好きな分だけ汲んで下さい、→温泉街には仲居さんだらけなので、きっと商売になる、とおばあちゃんが言ってたので、家坂さんにも商売の中身と場所を打ち明けた。 →それは助かるわね、仲居仲間にも広めておくわ、と優しかった。
その日は家坂さんの豚汁だけだったが、その評判が良かったのか、さっそく、次の日から注文が入った。 家坂さんから言われて、早番の人は朝一番に注文して4時に引き取り、遅番の人は4時までに注文して夜11時に引き取る、という佳代のキッチン初の二部制だった。 佳代の体力的にはキツイがその土地に併せた商売にしなきゃならない。 早速、早番6人、遅番10人ものお客様が車で立ち寄ってくれた。 3時過ぎには、宍道湖湖畔に住んでいるおばあちゃんもやって来た。 70才を超えているのに、その健脚振りには感嘆する。 →明日から隣で魚を売ってもイイかね、 →どうぞ、大歓迎です、毎日、昼過ぎにいらして下さい、家坂さんを紹介してくれたお礼にお昼をご馳走します、一緒に食べましょう。 ・・・この老若コンビが仲居さん達の評判を呼んだ、ばあちゃんの活きのイイ魚が買えて、其の場で料理を注文できる、と特に遅番の仲居さんに大人気となった。 →ミートボールが旨い!とばあちゃんが吹き込むモンだから、その注文も増えたし、ムニエルやカルパッチョ等々の目先の変わった料理にも仕立ててくれる、と注文が拡がっていった。 二週間も経った頃、和馬が、→今、松江支局にいる、と電話があり、元コミューンを目指していた農園っぽいのが6つあるから、一緒にポニー&クライドを探そう、と言うので、翌日休んで回って歩いた。 一件目の農園でコミューンと言った途端に、→だら糞が!(バカ野郎の意)と汚い方言が飛んで黙り込まれてしまった。 →そういえば、理想郷が破れて結構な揉め事が多発した、と何かの本に書いてあったな、と和馬が思い出した。 次からはイキナリ両親探しのチラシを出して聞き込みした、空振りばかりだったが最後6番目の農場でヒットした。 農場主は、→昔、親父がこういう長髪の奴らとよく喧嘩していたなァ、常識に収まらない事が多かった様で、悲惨な目に遭ったのは女性だな、コミューンは誰とでもセックスする、という評判があって、コミューンが壊れた時、男は逃げて、女は寮のある湧之水温泉の仲居になった人が多かったらしい。 所謂、駆け込み寺だな、中には子供を抱えた女の人もいたようだ。 →何か、いやんなるなァ、とショックを隠せない和馬だった。
翌日からばあちゃんが姿を見せない、家坂さんに告げると、アパートを知ってるから一緒に行きましょう、と先導してくれた。 アパートの大家さんに訊くと、→腰を痛めて市民病院に入院しましたよ、このところ、魚の仕入れが増えて無理が重なったみたい、と吃驚だった。 病院で、→心配しましたよ、 →もうじき退院やからなんも心配いらん、とばあちゃんは怒ったような顔だった。 帰途、家坂さんから事情を訊き出した。 桜井スミ、がフルネームだった。 驚く事に、水名亭の社長が息子さんと言う、そこの仲居頭が家坂さんならば、これ迄の出来事が一瞬にして一本の線で繫がった。 40年前、腕っこき漁師の奥さんだったが、大時化に呑まれて夫を奪われた、一人息子と生きて行く為に、苦労して仲買人の資格を取得し、セリ落とした魚の行商を始めた。 そして旅館の調理場に入り込み、亡き夫から鍛えられた確かな目利きと、先を呼んだ度胸のセリ落としで、たちまち調理場の信頼を得て、涌之水温泉の温泉ホテルの殆どに販路を広げ、高度成長の波にも乗って瞬く間にひと財産を築いた、更に、土地を買ってこじんまりとした瀟洒な日本旅館・水名亭を建ててオープンさせたのだった。 料理が美味しい宿、と評判を取り、ヤリ手女将として名を馳せた。 そして10年前、還暦を迎えたのを機に、東京のシテイホテルで修業中だった息子・正志を呼び戻し代表権を譲って楽隠居生活に入った。 しかし、その二年後、典型的な畳敷きの和室を、フトンの上げ下げの要らない、掃除の簡単なベッドルームに改装すると息子が言い出して大喧嘩となったが、既に代表権は向こうだし、息子社長は強引に進めて新装・水名亭をオープンさせた日に、スミさんは全財産を放り出して桜井家を飛び出し、あのアパートで魚の行商を始めたの、と凄まじい話だった。
此の儘じゃスミさんが可哀想、と思った佳代は正志社長を訪ねた、しかし、腰を痛めた事も入院していた事も全部知っていた、→大事な母ですからね、知らない振りをしています、とにこやかである。 →意地っ張りな母ですからね、僕のやり方を認めて貰えるまでは黙って見守っていきます、と、昨今のホテル業界は崖っぷち、だから、一点に特化した「地魚と地野菜を湧き水で調理した美味しい料理旅館」に大改装した考え方を語ってくれたのだった。 ベッドで浮いた掃除コストを料理に回す、お陰で順調に進んでいます、と安堵顔だった。 →あの頑固な母が佳代さんと並んで営業している姿を見て驚きました、如何に佳代さんを信用しているか一目瞭然でした、佳代さんから今の話を母に伝えてくれないでしょうか、そして、くれぐれも母の事を宜しくお願い致します、と深々と頭を下げられたのだった。 そして、→母は魚が大好きなんです、でも、父が亡くなって行商を始めた時に魚絶ちしたんです、と打ち明けられた。
スミばあちゃんが退院した翌日、家坂さんにも、正志社長にも告げずに一人でアパートを訪ねた。 ミートボールのトマト煮とコシナガの刺身を並べてお昼ご飯を食べながら、すると、→親を捜しちょるそうやな、と切り出された。 家坂さんに預けたチラシを見せられたらしい。 今だ、桜井親子の話をするには今しかない! 佳代は必死に語り出した、→正志さんはお母さんの思いをしっかり受け継いでいます、如何に母親の事を気にかけているか、と渾身の思いで伝えた。 聞き終えたスミさんは、→正志を突き放さんといかん、新しい事をやるんやったら反対するモンが必要やし、新しい水名亭を始めるからにはわしがおったらあかん、従業員に示しがつかん、そう思うたがや、わかるがや? と言って、→どれ、いただくか、とコシナガの刺身を口に入れて美味しそうに、→ああ、これがコシナガや、と40年振りの味を呟いた。 そして、コミューンとやらがダメになったから雇うてほしい、何でもします、とこの若い二人がやって来た、けど、逃げるよな事をするな、初志貫徹やがな、と餞別を持たせて追い返した、女性の方は妊娠していたな、とその時の事を思い出してくれた。 後にその二人から礼状が届いた、こどもも無事生まれ、もう一度全てをやり直します、と浅草の隣町の押上の住所が書かれていた。 佳代は確信した、この二人は間違いなく両親だ、佳代が育った下町は押上だった。 東京に戻らねばならない。
佳代のキッチンは家坂さんに引き継いで貰った。 スミばあちゃんも横で魚を売りたい、と言うので、すっかり母親と打ち解けた正志社長がホテルの送迎用の中古バスをキッチンカーに改造してくれた。 涌之水温泉の皆にもいい事だ、と決断してくれたのである。 もう、リヤカーは無理だから家坂さんの車で二人で仕入れに向かう、とトントン拍子に話が進んだ。 改造車が出来上がるまで家坂さんは見習い調理屋として、佳代の仕事を手伝ってくれた。 そして納車される日に佳代は東京へ向かう。 出来上がった厨房車は大きくて、昌子のキッチン、の文字が鮮やかだった。 →佳代のキッチン松江支店ですから、今後とも宜しくお願い致します、と家坂さんから丁重な挨拶を頂いて、更に、スミばあさんから、→松葉ガニのええのが入っちょる、持ってくとええ、と餞別に頂いた。 両親も佳代もスミばあさんから餞別を貰った事になる。
今夕は、共に二月生まれの夫婦の誕生祝で焼肉Sを予約した。 アトもう一回は、娘からのお祝いがあるので回転ずしに行くらしい。 どちらにしても晩飯の用意をしなくても良い家内の独壇場である。 河豚とかステーキとか思わないでもないが、現役ならまだしも、年金暮らしにゃ敷居が高すぎる、黙って家内に従うのみである。
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令和3年2月22日