ブーゲンビル戦記 一海軍主計士官死闘の記録
光人社NF文庫 : 藤本威宏 その3 となります。
前回のブログ記事は、以下の通りです。
ブーゲンビル戦記 一海軍主計士官死闘の記録
光人社NF文庫 : 藤本威宏 その2
アメーバブログ記事より
ブーゲンビル戦記 一海軍主計士官死闘の記録 光人社NF文庫 : 藤本威宏 その2 アメーバブログ記事
本書は読了しました。
書籍カバー帯に記載されている通り、
『補給を断たれたブーゲンビル島ブカ地区に投じられた青年士官が、飢餓とマラリアの戦場の実状を克明に描く感動のノンフィクション』
でした。
この書籍の著者、藤本威宏氏は、表紙カバー裏のプロフィールによりますと、戦後も色々と日本国再建のための力となっております。
復員後は東芝に復帰。
昭和26年には、イースタンモータース株式会社に入社、同社社長、イースタン興業、蓼科ビレッジ、東京サマーランドなどの社長を歴任とあります。
その他、ハイヤー•タクシー業界の向上に努力し、運輸大臣表彰を受けたようです。
巻末の『「あとがき」にかえて』で、御子息の藤本隆宏氏が、御尊父の思い出を語ると共に、著者が49歳でお亡くなりになられたことを報告しています。
ブーゲンビル島の戦いの心労と肉体へのダメージが、寿命を削ったのではないかと思います。
本書最終章の『捕虜番号二八八〇四五•ブカ』によりますと、最初のタロキナ捕虜収容所では、著者は、千名を1単位とする収容施設の副部長を命ぜられる。
そして、隊長はオーシャン島の守備隊長だった海軍少佐と言う事でした。
小生は、オーシャン島と言う、初めて聞くような名前の島を調べて見ますと、ソロモン諸島より更に東方に位置する島でした。
そして新たに判明したことは、多分この海軍少佐がオーシャン島原住民殺害事件の責任者だと推定されます。
とは言うものの、著者の直属上司である加藤司令も、ブカ島周辺の島(ペタツ島、マツガン島)の残留現地民の即時処刑を命じています。
この為、オーストラリア軍により絞首刑に処せられたと言う事です…。
処刑理由は、ソハナ島にいた敵性現地民四名を処刑した事と、戦争の最終段階で現地民三名を処刑した事です。
正式な軍法会議を開かなかったのがいけないと言う事らしい…。
著者は、タロキナ捕虜収容所の後に、ブーゲンビル島の南東にあるファウロ島捕虜収容所へ移動。
ここはマラリア蚊が多くいて、戦後の捕虜収容所でも死亡者が数多かったようです。
著者は幸運にも連絡司令部のあるタウノ島に移動となり、責任者としての肩の荷がやっと降りたと言う事です。
捕虜収容所のあるファウロ島では、『ナウル、オーシャン島などの外南洋部隊はマラリアに対する抵抗力がなく、…』とあり、ナウル島にも日本軍が終戦までいたのだと知りました。
以下、参考に…。
オーシャン島の原住民殺害事件
最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと:東京新聞 TOKYO Web より
最後の指揮官命令は島民の虐殺だった…元日本兵が書き残した敗戦直後のオーシャン島で起きたこと:東京新聞 TOKYO Web
ナウル島の日本軍について
ナウルの歴史
Wikipedia ウェブサイトより
ナウルの歴史
Wikipedia ウェブサイトより、引用して紹介します。
❝ 1941年12月には日本軍の攻撃で採掘施設や住宅が破壊された。1942年8月に日本軍がナウル島を占領。
1200人の島民がトラック諸島に強制連行され、多くの島民が死亡した。
また、日本軍がハンセン病患者を別の島に移送すると偽って殺害した事実も明らかになっている。ナウルの人口は1940年の1848人から1946年には1369人に減少した。 ❞
以上となります。
民間人や、戦争に関係ない現地民の殺害などは、日本軍だけではないとは推定されますが、敗戦国は戦勝国に裁かれるのが、運命です。
令和の現在も、国民は知ろうともせずに忙しい日々を送っておりますが、実態はアメリカの植民地のままです…。
今回はここまでです。