今日は私がこの世に生を受けた日です。

病気になってからというもの、生きるという事について、今までたくさん考えてきました。

生まれた意味についても考えてきました。

12年前まで、そんな事を考えもせず、当たり前に過ごしていた恵まれた日常。

家族がいて、住む家があって、親友と呼べる友達もいて、仕事もできる健康で、当たり前過ぎて気付きませんでした。


12年前、私の姉は薬をたくさん飲んで、他界しました。

私の両親は、自営業だったこともあり、私と姉は祖父母に育てられました。

両親は、娘二人を育てる為に、何不自由ない暮らしをさせるために、共働きでお仕事をしていました。

私は、幼い頃父と食卓に並んだ記憶がほぼありません。

一度だけ覚えていますが、知らない人がいるかのように恐怖感だけが残っています。

幼い頃、さみしさと引き換えに、もっとお父さん、お母さんと過ごしたい、風邪をひいたら、お母さんにそばにいて欲しい、そんな気持ちも幼心に我慢して、言えずに過ごしてきた私たち姉妹。

思春期までは、親は忙しいけれど、大きな家、立派な車、面倒を見てくれる祖父母がいました。

高校生の時に、父の会社は無くなりました。
さみしさと引換に両親が頑張って建ててくれた家も、乗せてくれていた車も無くなりました。

私は今思えば、寂しくて仕方なかった、鍵っ子だった頃、帰る家もなくなり、何が残ったのだろう、私の元には何があったのだろうと今でも考えてしまいます。

良くないこと、考えても仕方のないこと、理解できますが、何も残らなかったのかな?と思ってしまう時があります。

両親には多額の借金が残ったというのに、私はそこまで考える余地はありませんでした。

親なりに、必死だったと思います。
多額の返済、子供の面倒、自分たちの暮らし、わからないわけではありません。

しかしながら、10代後半高校に通うことをやめました。
不登校になりました。
姉も大学を休学して働きました。

通える学校があるのに通わない、わがままですね。
卒業はなんとかできたけど、卒業式には出させてもらえませんでした。

姉は弁護士になりたいと、法学部にいましたが、大学を辞めました。

辞めて、東京に行きました。


私も数年たってから姉を頼って上京しました。

上京して、3ヶ月も経たない頃に姉は他界しました。






先日主治医から、


パーソナリティ障害だという事を伝えられました。

なに?それ。


早速調べてみる事に。

はじめは、傾向と対策を練るために、自分の病気ならば、知っておきたい、何かあった時のために備えておけたら…そんな思いからでした。

不安もありました。

知らなくていいことまで知ってしまうのではないか、怖いけど調べてみました。



パーソナリティ障害

大多数の人とは違う反応や行動をすることで本人が苦しんでいたり、周りが困っているケースに診断される精神疾患。
認知(ものの捉え方や考え方)や感情、衝動コントロール、対人関係と言った広範囲のパーソナリティ機能の障害(問題)が生じること。

他の精神疾患を引き起こす性質があること、パーソナリティ障害と合併した他の精神疾患が全面に出ることが多いということ、パーソナリティ障害は背後から悪影響を及ぼす黒幕のような病気だということ。


はじめ、不調を感じ受診するきっかけになったのは、姉の死でした。
眠れなくなりました。
精神科を受診し、安定剤と睡眠導入剤を処方されました。

しかし、当時お付き合いしていた人に、

『薬なんかやめなさい』

と、飲む事を禁じられました。
私は飲む、医師に処方されたお薬だから、今は必要だから飲むのだと言うことが言えませんでした。

暴力をふるう人だったからです。

恐怖が先に来るので、飲むことをやめました。

でも、眠れないので、寝酒を始めました。

仕事も辞め、生活をしていくには、暴力を振るう人であろうともその人の存在がなくては私は生活していける力がありませんでした。

経済的援助、精神的身体的苦痛、不眠、アルコール、その頃から始まったのだと思います。

隠れて飲酒し、さみしさを紛らわし、酔って眠る。
翌日お酒の匂いをさせるわけにも行かないので、ジムに行って抜く、夜になればまた飲む日々でした。

それでも、その頃はまだお酒は二日に一度ほどしか飲んではいませんでした。

眠れずとも、仕事をしている訳では無いので、困ることもありません。

夕方までに食事を作って待っている暮らしでした。

今考えたら、その時きちんと処方されたお薬を決められたとおりに飲んでさえいたら、今のように悪化はしていなかったのかもしれません。

数ヶ月経ち、少しずつ現実と向き合えるようになり、復職しました。

私のしていた仕事は、高級店といわれるクラブのホステスです。

日々、お酒を飲むようになりました。

もともと飲めないわけではありません。

ヘルプは、飲んでなんぼと言われ、勤務時間は4時間弱と短いものの、摂取するアルコールは日に日に増えていきます。

気がついた頃には、酔っていなければ、接客ができない自分に気がつきました。

飲みなさいと席にヘルプで入り、飲むともちろんのこと酔いますよね、なのに、酔うなと言われ。

矛盾してる、でもどちらも真実。

飲まなければならない、しかし酔えば仕事にならない。

若いからでしょう、二日酔いはしてもちゃんと仕事には毎晩行けましたし、健康診断を受けることもしませんでした。

特に体に不調もなく、飲んでいるせいか、夜も良く眠れました。

そんな毎日が5年ほど続きました。

酔わずには出来なくなってしまった接客。

でも、お酒を飲んでいる状態だと、自分にも平気で嘘が付けるのです。

仕事なの、と言う名目で。

自分の本心に目を背け続け、お酒と、男女の戯言、駆け引き、笑顔で、思ってもいない事をお酒の力に任せて言い続けました。

そんな事をしていると、お席にもたくさん呼んでいただけるようになりました。

いろいろなお客様に、たくさん可愛がっていただけました。

酔って覚えてないけれど、そこには本心2割、本心でないものが8割ほどあったと思います。

しかし、みんな好きで働いているわけではないということ。

仕事だと割り切り、お酒も飲めば、楽しくもなり笑顔にもなる。

あくまでもそれは自分自身で自分を売り込むために作り上げた源氏名の私がいました。

それでも良かった、都会で働きながら一人暮らしをし、姉が居ない穴を埋めるのにはちょうどよかった。

呼んでいただける、=寂しさを埋める
構図だったと思います。

平日は入念に化粧をし、美容院でセットしてもらい、華やかなきらびやかなドレスに身を包み出勤。

その代わりに、休日の私は、全く化粧もしなくなり、着ているものも、平日の私とは真逆のもの。

カジュアルな装いに、ノーメイク、帽子を目深にかぶり自分の存在を消すようにしていました。

その頃から、仕事だと割り切り、源氏名の私と、本当の私をはっきりと区別するようになりました。

それ自体は特に問題のないことだと思います。

ON/OFFをしっかり分ける、大人のすることだと思います。

でも、私は本来の自分を否定するようになりました。

仕事中の自分は可愛がってもらえる、でもオフタイムの私はそうではない、寂しくてひとりで無理して都会に暮らしている感じでした。


続きはまた後日。