マクロ教育学の時間

マクロ教育学の時間

教育について、広い視野をもって考察します

教育の効果について語られるとき、
個人や組織に対する「ミクロ的」な効果について
語られていることが多いですが、
社会全体に目を向け「マクロ的」にも見ていく必要があります。

ここでは、教育が社会に与えている影響を
「マクロ的」に考察してゆきます。

経済学者の橘木は

『教育格差の経済学 何が子どもの将来を決めるのか』(NHK出版、2020)の中で、
通塾率の低い県でも学力の高い県が存在し、

最低の通塾率である秋田県が最高の学力を誇っているのは、

ことのほか印象深いと述べた。

先日そのことを不意に思い出し
今でも「最低の通塾率である秋田県が最高の学力を誇っている」という状況が

変わっていないのか検証したくなり、
なおかつ今後の分析に使えるデータが得られると思い、分析をした。

分析に用いるデータは全国学力・学習状況調査のもの。
平成29年(2017年)を最後に、通塾率の集計がなされていないため、
平成29年の結果を用いる。

小学生・中学生を対象に
国語A・B、算数(数学)A・Bの4科目の試験が実施され、
それぞれの科目の都道府県ごとの正答率が開示されている。
それぞれの科目の都道府県別正答率の平均を計算し、これを「正答ave」とする。

そして筆記試験の他にも、児童(生徒)の生活習慣を調査するための「質問」が用意されている。
その中に「塾に通っているか・通っているならばどのような塾に通っているか」を問う設問があり、
その集計結果から通塾率を計算できる。

「通塾率の低い県でも学力の高い県」
言い換えれば
「通塾率が低いのに学力が高い県」
どれくらい「通塾率が低いのに学力が高い」のかを調べる。

そのためには、正答率と通塾率の差を求めればよいはずだ。
ゆえに

「正答ave」-「通塾率(塾有)」

を都道府県ごとに行えばよい。
その結果が以下である。
差、つまり数字が大きいほど、「通塾率が低いのに学力が高い」

 

橘木(2020)が述べているように、

やはり秋田県がもっとも数値が高い

そして私の住む神奈川県は最下位である。
つまり神奈川県は相対的に「通塾率が高いのに学力が低い県」ということになる。



全国学力・学習状況調査は、私立学校の参加が少ないため、

実質的には

ほぼ「日本の公立小・中学生の学力テストの都道府県別順位」

となっている(中室 2015)
なぜこのような状況になっているか、

そしてこのような状況が社会にどのような影響を与えているかを

今後このデータも用いて分析してゆく。



【出典】
平成29年度 全国学力・学習状況調査 報告書 調査結果資料:国立教育政策研究所 National Institute for Educational Policy Research
苅谷 剛彦、志水 宏吉、清水 睦美、諸田裕子『調査報告「学力低下」の実態』(岩波書店、2002)
中室 牧子『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015)
橘木 俊詔『教育格差の経済学 何が子どもの将来を決めるのか』(NHK出版、2020)



【もっと知りたい方はこちら】

y=1611018-0.052x
y:2年後の出生数(人) x:今年の学習塾通塾者数

(2004年~2018年間で得られる回帰式)

 

理論上、x:通塾者数が0であるならば、

y:2年後の出生数は1611018人に近くなるが、

 

塾が繁盛し始めた(小宮山 1993)少し後の、

1979年から1980年で

「1611018」を下回って以降、

「1611018」よりも高い年が一度もない。

 

ここまでが↓の記事までのいきさつである。

 
2019年版のデータも用いて分析をしたが、
通塾者と2年後の出生率の関係は
相変わらず強かった。
 
 
 
なぜこのような結果になっているのか考えるために
今度は年代別の出生数を用いて分析をした。
分析の結果、25~29歳の出生率に対し最も強い説明力があることがわかった。
またこの年代は、受講者数に対する出生率の減りが一番大きい
 
25~29歳の人は2年前、23~27歳である。
その年齢で塾に通っているわけでもないのに
ここまで強烈に結果が出るのは不思議である。
 
 
ある特定の年からn年後に受講者数が、(n+2)年後に出生数が
別の影響を受けているのだろうか?
 
 
今回はここまで。
 
 
【出典】
厚生労働省 人口動態・保健社会統計室 人口動態調査 2006-2019年のデータを使用
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1.html
長期データ|特定サービス産業動態統計調査|経済産業省 2004-2017年のデータを使用
https://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabido/result/result_1.html
小宮山博仁『学歴社会と塾 脱受験競争のすすめ』(新評論、1993)

 塾は日本、あるいは韓国を含めた東アジアに特有の教育システムであり、欧米諸国にはほとんど存在しない(橘木 2017)。
 塾が供給するサービスは多岐にわたる。学習塾のサービスにおいて代表的なものはやはり授業だろう。ただし、授業を行わない塾も近年においては存在する。そう考えると授業だけがサービスだと定義するのは難しい。それでは、面談や進路指導なども含まれるだろうか。このように、家庭目線で細かく考えると、供給されるサービスはやはり多岐にわたる。
 しかし、企業目線で考えてみたらどうか。新卒一括採用が一般的となっているので、企業の雇用主は決められた時期に大学生を採用する。大学生を買っている、すなわち「大学生は財である」と考えたほうがわかりやすい。すなわち、塾に限らず、受験産業が供給しているのは、雇用主からみれば「大学生という財」なのだ。
 前回までに述べたように、大学生が増えすぎたことにより経済は非効率な状況に陥った。また、大学生を供給する過程と結果において、多くの家計に不利益を与えている。ゆえに大学生を過剰に生産する受験産業は、負の外部性をもたらす。負の外部性を持つ財は、供給する経済主体が社会的費用を負担しないため、供給過多になる(負の外部性についてはこちらもどうぞ)。受験産業は、学歴社会の構造に端を発する諸問題に対し、何か手を打ってきただろうか。学習リソースの不足した家庭にそれらを提供し、さらなる学歴社会への再加熱をしてはいなかっただろうか。このようなことから、受験産業は社会的費用を負担していないことは誰の目にも明らかだ。そして、家計目線で考えたとき、貧乏だから塾に通えないということはあるが、お金はあるのにどこの塾にも通えないということは、極端な地方ぐらいでしか起こらないだろう。すなわち本当に供給過多なのである。
 ちなみに、「講座の席がなくなる」という塾講師のトークは、ビジネスのテクニックであることが多い。家庭に考える猶予を与えずに、焦らせて冷静な判断をさせない論法だ。
 「受験産業を利用しなくても大学生になれる人はいる」という反論もあるだろう。柿を思い浮かべてほしい。柿は、放っておいても毎年実をつける。しかし、意図的に柿を育てて商売をする農家もいるだろう。それと同じことである。受験産業は大学生を意図的に育て過ぎているのである。
 以前、「広告」においては、利潤を得るための嘘が「許される嘘」として巧妙さを増して遍在化しているということを説明した(国分 2006)が、受験産業についても同じことはいえるだろう。そして学習塾については、確実にいえる。誰も触れないからといって「ない」わけではないのだ。
 学習塾の広告においては、トップ校の合格者数が大きく掲載されている。しかし、この数字には、「実際に授業を受けていない生徒」も含まれている。学習塾によっては、「模擬試験」だけを受けるために在籍するということができるところもある。だから、実際には別の受験産業のサービスで日頃勉強していても、自教室の数字としてカウントできる。模試を受けたという意味でその生徒はちゃんとサービスを受けているし、不都合なことはない。だから実際には、広告の合格者数は「授業を受けている生徒」と「模試だけ受けた生徒」がどれだけ合格したかという数字であることが少なくないのだ。
 広告に「第1志望合格」とあっても、本来の第1志望ではないことも多々ある。塾に通っても成績が伸びなかった場合、講師と生徒との面談で、志望校のランクを下げることがある。ランクを下げたその高校を、第1志望として広告に掲載しているということだ。「これでは第1志望というのは嘘ではないか」というように思うだろう。しかし、受験をしたその瞬間だけ切り取って考えれば、手続き上まごうことなく第1志望なのである。嘘をついていることにはならない。
 受験産業は、あらゆる手を使い、自分たちの提供するサービスの利用をあおる。もしくは、学習リソースの無料提供により、受験への参加をあおる。受験への参加者が増えれば、受験産業は活気づく。受験が活気づけば、受験産業を利用できない者にもその熱は及ぶ。受験産業によって、社会に悪影響が及んでいたとしても、受験産業という仕事が生まれてしまった以上、それを生業とし生活する者がいる。受験がある以上、生徒は合格しなければいけないし、それを支えるという行為は、決して批判できるものではない。受験産業自体を批判するのではなく、受験産業を繁栄・必要とさせている社会のしくみに目を向けていくべきである。

 

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 教育は私的財と公共財という両面の性質を有している。しかし、日本政府の対GDP比率での教育費支出額がOECD諸国でほぼ最低であるという事実は、日本は教育を公共財としてではなく、私的財として評価している程度がかなり強い、ということを示唆している(橘木 2017)。
 橘木いわく、日本は学歴社会である、との通念が強いゆえに、上の段階の学校に進学するほど(中卒より高卒、高卒より大卒)いい職業に就けたり高い所得を得ると信じられている。さらに、名門校や有名校を卒業した人ほど職業、昇進、所得などで有利である、と信じられてきたともいう。だから、学歴の高い人ほど有利な人生を送れると判断されるのであり、有利な人生を送れる人がその教育費を他人や国家が負担するのではなく、自分で負担をしてそのベネフィットを自分が享受するようにするのが公平な措置である、と判断している人が多いことを指摘している。ゆえに私的財としての性質を帯びていると判断される。
 社会経済上の地位の低い親の中にも、子どもの教育に熱心な人もいるが、所得が低いと学費の高い学校への進学は困難だし、塾や習い事の選択肢も狭くなる。(橘木 2020)。このような、実際は経済格差に基づく子どもの教育選択や子育て方針の違いも、社会的不平等の問題ではなく、個々の家族の自由な選択の結果だと見なされる(中澤 2018)。ゆえに、いまの社会では、こういう人の教育費まで国民全体で負担する必要はないとする雰囲気が強い(橘木 2020)。そしてこの風潮は、さらなる自己責任論を補強するものとなる(中澤 2018)。本来、そのように自分の意志ではどうにもならない苦境を、個人的責任を根拠に片づけてしまうことはできず、そうした責任論は、自らが進んでリスクを負って賭けに失敗したケースに当てはまるはずである(アマルティア・セン 1992 池本・野上訳、2018)。そして近年、所得の高い親の子弟は高い教育を受けて当然であり、逆に所得の低い親の子弟は低い教育に甘んじるのもやむをえない、と思う人がさらに増加している(橘木 2020)。
 そして中澤(2018)は、自分(とその親)が教育費を負担し、無事高い学歴を得たならば、それは自らの力で勝ち取った学歴であるという認識を強くもつだろうと主張している。その場合、学んだ内容を活かして社会に役立てるというよりは、獲得した学歴を利用して高い地位と収入を得て、自ら払ったコストを回収しようと考えるのが合理的で、ゆえに高い学歴を得ても、獲得した地位にふさわしい社会的責務を果たそうとする意識は抱きにくいと述べている。

 

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 文化的目標を達成するための手段は限られており、金銭獲得・社会的成功を望みつつもその手段をもてない人たちの一部は、非合法的手段によって目標を達成しようとする。その結果、規範文化が崩壊し始める。一部の個人や企業が「グレーゾーン」を攻める姿勢、はたまた法に触れることも恐れずに成功しようとする姿勢にそれを感じとることができる。
 近年、悪質商法とその他の一般的とされる「ビジネスのテクニック」の境界線があいまいになっている。消費者はどんなに用心をしていても騙されて不当な契約をしてしまう可能性のある社会となっている。「グレーゾーン」を攻める「ビジネスのテクニック」にだまされたと気づいても、「だまされた自分が悪い」「恥ずかしい」と感じて泣き寝入りする人も少なくないだろう。こうした心理を助長しているのは、「騙されるほうが悪い」という論理だと考える。この論理は、「だますテクニック」が進化しているということを考えると時代錯誤である。
 私の前職は大手学習塾の講師であったため、学習塾においても「ビジネスのテクニック」の伝授が会社主導で行われているということを知っている。中には、子どもの純粋さを利用した「グレーゾーンを攻めるテクニック」もあった。前職の会社・私の身元が割れる可能性があるため、詳しくは語れないことをご了承頂きたいが、学習塾を利用されたことのある方であれば、少し思い出せば「グレーゾーンを攻めるテクニック」に思い当たる節があるはずである。
 無難なものを挙げておく。点検を装って購入・契約を煽る「点検商法」というものがある。これは学習塾でも行われている手法だ。無料の模擬試験や独自のテストを子どもに受けさせ、何らかの理由をつけて家計の不安を煽り、受講を促す、という手法として用いられている。
 完全に余談だが、「昔、自塾の宣伝のために、近くの学習塾に通う生徒の停めてある自転車のかごに、かたっぱしから自塾のパンフレットを突っ込んでいったことがある」と武勇伝を語っていたベテラン塾講師がいた。これは別に「グレーゾーンを攻めるテクニック」でも何でもないが、学習塾においても生徒の確保などのさまざまなノルマにおわれて、なりふり構っていられなくなることがよくあるということを心の片隅にでも入れておいてもらいたい。
 他には、電話に出ない家庭に家庭訪問をして契約をとっていくスタイルのベテラン塾講師も存在する。一日に何回も電話をかけ、それを一週間以上も続け、それでも相手が電話に出ないような場合、普通なら着信拒否の類を疑うだろう。嫌がられているということだ。電話をされている相手の気持ちになって考えてみよう。着信拒否をしている、居留守を使っている相手が突然家に来たらどう思うか。ごく普通の人なら、恐怖を感じるだろう。私だって怖い。その考えに至らないのか、なりふり構っていられないのか、とりあえず言えることは「普通ではない」ということだ。かなりのパワープレイである。
 塾に限らず、人とかかわる仕事であれば「グレーゾーンを攻めるテクニック」を使う機会は多いはずだ。その顧客にとって必要はないが、マニュアル上、ノルマ上どうしても攻めなければいけないタイミングというものが、そういった仕事には存在する。
 規範文化の崩壊は、ここまでにみたビジネスの場面だけでなく、学校や学習塾における教師と生徒の間にも問題をもたらす。
 周知の事実であろうが、生徒に手を出す教師は学校・塾を問わず実在する。生徒が嫌がらなかったからそのような行為に至ったと主張する教師もいるが、これは嫌がらなかったからではなく「嫌がれなかった」が正解である。教師は多くの場合、生徒の人生を左右しかねない立場にあり、生徒もそのことは理解している。特に学校の先生は、生徒の成績を握っている。それに加え、生徒にとって教師は大人である。「自分の人生の行く先を左右する大人」には、逆らう方が難しいのである。へたなことをすれば、人生は悪い方向へ転ぶかもしれないとして、生徒は嫌がる態度を見せなかったり、告発をためらったりする。
 私が知っている限りでも、教師による性的な逸脱行為は起きているし、起こしかねない人は多くいた。塾に関しては、同じ地域に所属していた講師が中学生に手を出し処分を受けていたし、瓜二つの中学生姉妹の区別を上半身(言葉はぼやかしてある)でしていると公言する講師もいたり、挙げたらきりがないほど、性的逸脱行為予備軍だらけであった。そしてそれらの多くが「男なら仕方がない」という言葉を免罪符に、スルーされていたのである。
 学校の先生でいうと、私が名前だけ知っていた、勤めていた塾の対象中学校の先生も、学生に対する性的な逸脱行為で逮捕された。余談だが、その中学校に所属していると思われる生徒が、SNSでその先生を煽る・馬鹿にする投稿をしていた。
 確かに、こんな大人ばかりでは、子どもが大人を尊敬しないのも当然である。大人を尊敬しない子どもが増えてあたりまえなのである。
 教育現場におけるトラブルのリアリティは伝わらない。このような事例に対し「教育の場でそのようなことは起きない、起きてはならない」と思う方も多いだろう。しかし、こういった事例が実際に報道されるのは氷山の一角であり、暗数が多く存在する。ゆえに、明るみになっていなくても、自分の周りでこのような事案が発生している可能性は決して低くない。だが、自分の身の回りで起きているとしても、信じたくはないだろう。しかし、普通の会社で起こるようなことは、受験産業においても当然起こる。受験産業に分類される会社もしょせんは会社なのだから。
 岡邊(2020)は、組織体犯罪は暗数がきわめて多いと指摘する。発覚しないよう用意周到に行われることが多いからである。加えて、警察などによる牽制が緩い点も見逃せないとしている。とりわけ、犯罪であるか否かの境界が不明瞭な場合や、故意/過失の区別を付けづらい場合は、取締りの対象になりにくく、また取締りの対象になった場合でも、軽微な罰則しか適用されないことが多いという。
 ほとんどの学習塾においては、採用前に問題行動についての誓約をさせるが、ほぼ実効性はない。メディアなどで報道されるほどのよほどの大事にならなければ、人材不足ゆえに、他の教室へ異動になるだけ、という措置で済まされる場合が多い。
 「彼にも(私にも)家庭や生活があるから」といい、会社の存続のため、事態の隠蔽などの、利用者を見放す態度が、学習塾にも実在する。しかし、この態度を手放しで批判することが誰にできるだろうか。先のような発言をする人にとっては、それがよいことなのであり、実際理にかなっている。自塾のネガティブな情報が公になれば、自分だけでなく、スタッフの家庭や生活を脅かしてしまうのは事実であるからだ。そして、その問題講師を放置してきたその場所のスタッフを責めることもできない。こうした事態を解決しようと、深入りしすぎると、上下関係などが複雑に絡み合う腹の探り合いが生じ、結果そのスタッフは意図せぬ転職をせざるを得なくなるかもしれない。生活に困るのはもちろん、生徒と二度と顔を合わすことができなくなりかねない。そしてスタッフが犠牲になっても、結局何も解決されなかったりすることはざらにある。「理不尽を教えるのも教育」と、その場で無理やり納得し、理不尽は理不尽で上書きされていくのだ。
 仮に、学校や学習塾で起きた問題が解決できたとしても、生徒と教師の人生は続く。問題解決の過程で何らかの処罰を受けた教師は、告発をした者に対して逆恨みをする可能性は否定できず、また生徒はそのことを最も恐れているだろう。ゆえに、こういった問題はまず起こさないことが最善なのである。
 対症療法的な視点に立てば、世間の「組織の過失に対する過度な攻撃」が、かえって隠蔽のインセンティブを高め、これらの多くの「生徒・教師間」のトラブルが繰り返される原因にあると考えられる。しかし、対症療法的な対策は、たしかに多少の効果はあるが、隠蔽技術の向上をもたらすだけだ。
 教師による性的な逸脱行為の、根本的なな原因は規範文化の崩壊である。規範文化の崩壊は、塾・学校の先生も取り込もうとする。ゆえに、問題教師を生み出す環境は、規範文化の崩壊により形づくられていると主張する。耳塚(2014)は、核家族での子育てはメディアに大きく依存しているだけでなく、意図せざる社会化すらこのマスメディアは大きな力をもつにいたっており、逸脱的な若者の風俗・ファッションや性意識に関しては、享楽的文化とマスメディアからの影響が強いと考察している。塾・学校の先生もこのような環境におかれて成長することにより、規範文化の崩壊の影響を受けてしまっているのだ。ゆえにどこかで規範文化の崩壊を止める必要がある。そのためには、社会に対する、逸脱行為を減らすための根治治療が必要である。単に、性的逸脱行為を起こした教師・教師の所属する組織を批判するだけでは、根治治療への道は程遠い。
 

【参考文献一覧はこちら】

 耳塚(2014)は「金がほしい・成功したい」という文化的目標は、多かれ少なかれすべての人々に浸透しているが、それを達成するための制度的手段(教育・職)は有限であり、その手段の獲得は社会構造(社会階層)によって影響されている。ゆえに、金銭獲得・社会的成功を望みつつもその制度的手段をもてない人たちが大量に出現し、そのような人たちの一部は非合法的手段によって目標を達成しようとする。その結果、規範文化が崩壊し始め、さらに犯罪・非行が出現する、という「アノミー論」にもとづき、社会階層による欲望達成の差異が低階層の子ども・若者に犯罪・非行を多発させると述べている。
 学生時代においては、高成績獲得と受験合格獲得を実現しうる資源をどれほど親がもっているかということが実現達成の鍵となるがゆえに、経済力と文化資本のない家庭の子どもたちの層が学業についていけず「おちこぼれ」となり、結果、学生の逸脱行為が蔓延している。(耳塚 2014)
 耳塚(2014)いわく、家庭内暴力や校内暴力などのように、逸脱行為は学校と家庭に集中的に顕在化し、粗暴性の強い反社会的逸脱行動は、「いじめ」のように粗暴性の減少と日常性の増加という傾向をみせ、関わりを避け・被害から身を守るということができにくくなったという。それに加え、いじめの加害者と被害者の流動性が始まりだし、誰もがいじめのターゲットにされだしてきており、学校という集団にいる限り、関わりを避けることも被害を避けることも難しいとも指摘する。ゆえに、子どもたちの集団では、互いに相手の考えを読み取り合う関係性が成立していき、場の雰囲気が読めないようでは、友達と仲良くやっていけない、という状況が成立していると述べている。学校において、いじめの被害者になり続けたら、当然学校に行きたくなくなる。学校に行かなければ「不登校」だ。逸脱行為はさらに別の逸脱行為へと連鎖する。
 「貧困や属性を、犯罪を結びつけるのは差別につながる」という主張も理解できる。過去、IQテストは競争や差別ではなく、知能の低い者の知能を上げるための研究のために実施された。IQテストと同じように、競争や差別ではなく、その原因を解明するために、関連付けが必要なのである。関連付けが進まなければ、あらゆる問題は解決ができない。むしろ、それらの問題を解決しないことにより、他の差別が発生・持続してしまうだろう。問題なのは、それらを差別に結びつける側の姿勢であって、調査自体が問題ではないのだ。
 ここまでは、学生などの未成年についての逸脱行為について述べたが、学生時代の逸脱行為は、成人しただけでなくなるとは思えない。「児童虐待」や「ひきこもり」は成人しても起きている。それに加え、成人した大人であれば逸脱行為の場は社会となるであろう。新しいビジネスが、しばしば合法と非合法の間のグレーゾーンから生まれたり、メーカーが利益を重視し安全性を軽視したがため、多数の健康被害が生じることもある(岡邊 2020)ように、ビジネスなどの場でも逸脱行為は起きていると主張する。
 ビジネスにおける逸脱行為として、広告を例に挙げる。国分(2006)が指摘するように、現代広告においては、倫理的に許されない嘘に対する責任の所在が不明確であり、広告は「許される嘘」であるという開き直りを生じさせ、利潤を得るための嘘が「許される嘘」として公然と使われており、倫理的に許されない嘘はより巧妙さを増して遍在化している。それに加え、広告の嘘はどこまでも企業の利潤獲得の手段と化していることでその手口はいっそう複雑となり、問題性はより深いとしている。例えば、環境破壊の元凶の一端となっている自動車産業が「地球に優しい」「エコロジー」といったメッセージを訴求する大規模な広告キャンペーンを展開していることなどは、その象徴であるという。トマ・ピケティ(2013 山形訳、2014)も指摘するように、経済的・金融的なエリートたちは、自分の利益を死守するためなら、天井知らずの偽善ぶりを発揮するのだ。
 さらに国分は、こうした広告が大人や子どもや家族の態度と倫理の基礎を危うくするものであると主張している。大人の逸脱行為が、さらなる逸脱行為に連鎖するということが考えらえれる。また、安藤(2018)いわく、人間は観察学習の王様であるがゆえに、他人のふるまいを、意識しないうちに観察させられており、おのずと模倣してしまう。広告に限らず、大人の逸脱行為も新たな逸脱行為をよぶだろう。
 格差は、自分たちの生活を確実に脅かす。それはたとえ、成功して裕福になったとしてもその脅威からは逃れられない。どんなに対症療法的に犯罪抑止の施策をいくら高めようとも、実際にはそれを上回って事件は起きてしまう(岡邊 2020)からだ。格差対策は「いい人と思われたい人」がやるもの、という考え方は、格差をマクロ的に見ることができていないということを示唆している。「他人のことはどうでもいい」という意識が、自分にどんな影響をもたらすのか、広い視野をもって考えれば、他人のことはどうでもいいなどと思うことはできなくなるだろう。

 

【参考文献一覧はこちらから】

世の中には
生徒に対して
性的ないたずらをする先生が
学校・塾を問わず
います。

特に学校で
このような問題が発生すると
学校教育の手法が攻撃の的と
なりやすいでしょう。
(中澤 2018)
先生の人格否定、
そういった行為への
厳罰化を求める声も
よく聞きます。

しかし
学校教育の手法や
先生の人格、罰の軽さが
そういった行為の原因では
ありません。

いくら教育を改善しても
先生の研修をしても
罰を重くしても
根本的な解決は
望めません。

生徒に対して
性的ないたずらをする先生が
劇的に減ることはないでしょう。
厳罰化はむしろ
発覚を恐れての暗数を
増やしかねません。


原因は、複雑に入り組んでいます。



現代においては
学歴が高ければ
高い所得や高い地位を
得られる可能性が
高くなっています。
(中澤 2018)

しかし
高い学歴を
誰もが獲得しうるというわけでは
ありません。
生まれ育った
環境によっては
獲得できない人たちが
大量に出現します。
(耳塚 2014)

ここに不平等が存在することは
安定した生活につながるルートが
平等に開かれていないという
ことになります。
(中澤 2018)

正規のルートでの
安定した生活の確保が難しくなると
非正規のルートへ進むという選択肢が
現実味を帯びてきます。
その「非正規のルート」が
女性の場合
性産業となることがあります。

性産業従事人口が増えれば
性産業は活気づき
子ども・若者たちに対しても
性文化が一般的なものに
なってゆきます。
(堀内1985、耳塚 2014)

そして各種メディアも
そうした文化を意図せずも
一般化する大きな力を
もっています。
若者のファッションや
性意識に関しては
各種メディアからの
影響が強いのです。
(耳塚 2014)

先生も
私たちと同じ社会で
生まれ育っています。
これらの影響に対して
先生も例外でないことは
明らか
でしょう。



道徳と経済は
遠く離れた位置関係にあると
一般に考えられています。
しかし
教育を経済的に考えることが
放棄されてきたために
道徳がないがしろにされている
という
現状を招いています。
(矢野 2001)

目先の表面的な問題を
解決する
対症療法的なアプローチでは
他の要因のために
解決が進まない可能性があります。
(青木・奥野 1996)

ゆえに
生徒に対して
性的ないたずらをする先生を
減らしたいのであれば
さまざまな要因の中で
もっとも根幹に存在する
要因を特定し
その解決によって
関連する問題を
ドミノ倒しのように
解決する
(青木・奥野 1996)という考え方が
必要です。


【参考文献】
堀内守 編『女子の性非行・暴力非行』(学事出版、1985)
青木 昌彦、奥野 正寛 編著『経済システムの比較制度分析』(東京大学出版会、1996)
矢野 眞和『教育社会の設計』(東京大学出版会、2001)
耳塚 寛明『教育格差の社会学』(有斐閣、2014)
中澤 渉『日本の公教育 学力・コスト・民主主義』(中央公論新社、2018)

 

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【もっと知りたい方はこちら】

 学校では、「いじめ」をはじめ、不登校など、生徒の様々な「逸脱行為」がみられている。これらが起きている場は学校であるから、学校にその逸脱行為を防止できなかった責任を求める風潮が強い。しかし、学校による生徒の逸脱行為の抑制は難しい。根本的な原因を潰すのではなく、現れた逸脱行動に対し、対症療法的に対応をしているにすぎないからである。
 逸脱行動には原因がある。その逸脱行動の原因が取り除かれないまま子どもが大人になれば、大人の逸脱行為が発生する。そして大人の逸脱行為は、子どもの逸脱行為に比べ、その行動自体が社会の方向性を規定し、なおかつ発覚しにくい形で行われることもあるがゆえに、子どもの逸脱よりやっかいである。ゆえに、年齢を問わず逸脱行為の根本的な原因を取り除く必要がある。そして、現代社会においては、その非行の原因には「学歴」が深く関わっている。ここから3回は、そのことについて説明していく。
 一般の人々にとって、高学歴であるということは就職に有利である(中澤 2018)。ゆえに、高校や大学・短大への進学、その中でもより良い学歴の獲得が望ましいということは、世間の常識として浸透しているし、良い学歴を得ようしてもしていなくとも、今ではほとんどの子どもが高校まで進学する。良い学歴を得る・すなわち良い大学に進学するために、外せない要素は「偏差値」だろう。偏差値は入学試験の合否判定の目安であるからだ(米川 1995)。
 そして今日では、偏差値は単なる合否判定の目安としてだけではなく、人格評価の指標という認識が生徒や親、教師の間に広く浸透している(米川 1995)。「学歴は努力のステータス」「学歴のない人は努力のできない人」という風潮もこれを後押ししている。なおかつ、「良い学歴の獲得」という期待に応えられなかった子どもは、教師や親あるいは生徒どうしによって「ダメな子」としてみられているという認識をもつ傾向があるし、学歴獲得の段階に至らずとも、日々の授業の理解度が低下したり、学校での試験の出来が悪くなっても、学校の教師や親からよくみられていないと自己評価する子どもは多い(同 1995)。このような認識が、偏差値を高める努力・より良い学歴・学校歴の獲得を、子どもに強制するような圧力になっている(同 1995)。
 橘木(2020)は、塾に通うかどうかが学力決定に大きな影響を及ぼすことが明らかになっているとし、年収の高い親の子どもが塾に通っている確率は高く、複数の科目を塾で受講している可能性が高いと指摘している。ゆえに、塾は年収の高い親の子どもの学力を高めているということになる(同 2020)。実際、子どもの教育に熱心な人は、社会経済上の地位が低い親の中にもいるが、所得が低いために、学費の高い学校への進学は困難だし、彼らの塾や習い事の選択肢は狭まっている(同 2020)。低所得家庭の子どもが通う塾は、高所得家庭の子どもが通う塾とは、質は異なる。安い料金しか払えない層の需要に対応して、質のよくない教育を供給する学習塾が実在しているからだ。
 それに加え、経済力以前に「遺伝」が学業成績を規定している(安藤 2018)。
 これらの背景が、良い学歴を得るための手段へのアクセスを制約したり、その効果を低減せしめるように作用することによって、あるいはその手段自体を放棄させるように作用することによって、これらの背景をもった子どもに対し、良い学歴の獲得を困難とさせている(米川 1995)。
 この結果、子どもが進学目標を放棄すると、その放棄が「高校までは進学してあたりまえ」とか「なぜ大学へいかないのか」といった親の期待や学校社会の雰囲気に対する裏切だと感じられ、それが「教師・親・友人等からの評価についての否定的な認知」へとつながる(同 1995)。
 そして、進学目標の放棄と否定的な自己観念との結合がなされると、人は逸脱行為を起こしやすくなる(同 1995)。
 

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【おすすめ】

 

 よい就職にはよい学歴が必要である。よい学歴を得るための手段として度外視できないのが、塾をはじめとした「受験産業」である。一般的に教育への「投資」は社会を発展させるというが、現在各家庭が負担している進学にまつわる費用は、その「投資」とは少し異なる性質を帯びているということを私は推測する。



 学歴が高いほど威信の高い職業に就きやすい(中澤 2018、吉川 2019)。中卒より高卒、高卒より大卒の方が学歴が高いとされる。そして同じ大卒でも、卒業した大学のランクによる就職率の差異は広がっている(耳塚 2014)。
 さらに、東大や京大などのランクの高い大学に多くの卒業生を送っている名門高校に入学するには、塾に通うことが不可欠である(橘木 2017)。高ランクの大学へ進学するには高い学力が必要であり、塾に通うかどうかが学力決定に大きな影響を及ぼすことが明らかだからである(橘木 2020)。個人により成績の上限は異なる(安藤 2018)から、塾に通っても学力の個人差は残り、ランクの高い学校への進学がかなわないこともある。しかし、通わないよりは格段に通ったほうがよい。
 このように学歴社会と受験とは、切っても切れない関係にあり、しかもその受験と塾とは密接なつながりがある(小宮山 1993)。一般的には、志望校に合格するための塾などの受験産業の利用費も、子どもの将来への投資であると思われている。
 教育を受けた者は高い生産性を獲得するし、所得も高くなるので、社会経済の活性化に寄与し(耳塚 2014、中澤 2018、橘木 2020)、社会保険料が納められ、政府の運営や社会保障制度の維持に貢献する(中澤 2018)。これらの理由から、教育は投資をした本人以外の他者にも、利益をもたらすといえる。これが経済学でいう、正の外部性である。正の外部性があるからこそ、社会が教育費を負担する、つまり教育に税金を投入することが正当化される(橘木 2017、中澤 2018)。世界的にはこうした教育の正の機能を評価する動きが有力である(中澤 2018)。しかし、このように社会の効率性を高めるのは「子どもの、知識の獲得」そのものに対する投資である。
 家計の教育費負担の高さが出生率の低下につながっている(松浦 2020)と言われるように、塾通いなどによる家計の教育費負担は重い。塾などの受験産業の費用は「子どもの、知識の獲得」そのものに対する投資ではない。進学する、すなわち「知識の獲得」ができる場へ行くには、入学試験に合格するという「資格」が必要になっている。その資格には、塾などの受験産業の利用費がついて回る。すなわち、家計の教育負担を増大させているのは「知識を獲得するための、資格を得るための費用」である。ゆえに多くの家計は、「子どもの、知識の獲得」のための投資というよりか、意図せず「受験産業発展」のために多大な投資をしているということになる。
 経済活動の望ましさは、大きく分けて「効率性」と「公平性」の2つの基準で図られる。そのうちの「効率性」とは、資源と技術が無駄なく使われているかを判断するものである。現状においては必要以上に高学歴者が生み出され、ランニング・コストばかり嵩むという社会的に非効率な状況となっている(中澤 2018)。効率性が高まれば、社会構成員全体で享受することのできる富が大きくなり、その増加分を用いて社会の不平等の改善、すなわち「公平性」の達成もすることができる。しかし、非効率な状況であれば、それは難しい。現に社会的に非効率な状況であるからか、経済的な不平等は広がっている(耳塚 2014、吉川 2019、橘木 2020、松浦 2020)。
 負の外部性を持つ財は、供給する経済主体が社会的費用を負担しないため、供給過多になる。
 新卒一括採用が一般的となっているので、企業の雇用主は決められた時期に大学生を採用する。大学生を買っている、すなわち「大学生は財(商品)である」と考えると、受験産業が供給しているのは、雇用主からみれば「大学生という財」となる。現状においては必要以上に高学歴者が生み出されているため、供給過多になっているといえる。
 それに加え、家計目線で考えたときでも供給過多といえる。貧乏だから塾に通えないということはあるが、お金はあるのにどこの塾にも通えないということは、極端な地方ぐらいでしか起こらないだろう。
 そして、受験産業の利用料自体が、社会的費用になっている。東京都、大阪府などの自治体は塾などの利用料の給付をしている。塾に通うかどうかが学力決定に大きな影響を及ぼすことがわかっているために、通えない人への支援が必要となり、取引に関係のない経済主体が負担をしている。これらの理由から、受験産業の供給する財・サービスは負の外部性を持っている。それはすなわち、社会における効率性が損なわれているということになるだろう。
 実際に、学習塾に通塾する人の人数と2年後の出生数には負の相関があり、説明力の高い回帰式も得られている。学習塾がサービスを提供することにより、何らかの影響を社会に与えているということは、確実に言えるだろう。


 逆に、「子どもの、知識の獲得」そのもののための事業は、教育を受けた本人以外の他者にも利益をもたらすために、正の外部性を持っているといえる。負の外部性を持つ財とは逆に、正の外部性を持つ財は放っておくと過少供給となる。ゆえにその供給は公費によって行われるべきであり、現に日本においては小中学校は義務教育となっている。
 高校・大学も無償化・もしくは減額を公費により行われるべきだという議論の時、日本の教育費負担の高さから、条件反射的に「それは不可能だ」と感じる方も多いかもしれない。しかし、現状の教育費負担の多くは「受験産業発展のための多大な投資」であり、それをそのまま公費で負担すると考えてはいけない。その費用は切り離して考える必要がある。
 公費による負担で学校の生徒受け入れのキャパシティを大きくすることは、受験産業利用の誘因を小さくし「受験産業発展のための多大な投資」の必要を無くす。少なくともランニング・コストばかり嵩むという社会的に非効率な状況の打開策に、そしてそれが社会の不平等の改善、すなわち「公平性」の達成にも繋がるだろう。



【参考文献】
小宮山 博仁『学歴社会と塾 脱受験競争のすすめ』(新評論、1993)
耳塚 寛明『教育格差の社会学』(有斐閣、2014)
橘木 俊詔『子ども格差の経済学 「塾、習い事」に行ける子・行けない子』(東洋経済新報社、2017)
安藤 寿康『なぜヒトは学ぶのか 教育を生物学的に考える』(講談社、2018)
中澤 渉『日本の公教育 学力・コスト・民主主義』(中央公論新社、2018)
吉川 徹『学歴と格差・不平等 増補版 成熟する日本型学歴社会』(東京大学出版会、2019)
橘木 俊詔『教育格差の経済学 何が子どもの将来を決めるのか』(NHK出版、2020)
松浦 司『現代人口経済学』(日本評論社、2020)

【もっと知りたい方はこちら】

y=1611018-0.052x
y:2年後の出生数(人) x:今年の学習塾通塾者数

 
これは、↓の記事で導いた回帰式である

 

 

 

 

そして、塾というビジネスが許容される・必要とされる社会である限り
出生数は「1611018」よりは高くなることはない
と、↓の記事で推測した。

 

実際に、塾が栄えてから「1611018」より高くなったことはない。

 

以下は、1970年以降の年毎の出生率である

 

  出生数
1970 1934239
1971 2000973
1972 2038682
1973 2091983
1974 2029989
1975 1901440
1976 1832617
1977 1755100
1978 1708643
1979  1642580
1980 1576889
1981 1529455
1982 1515392
1983 1508687
1984 1489780
1985 1431577
1986 1382946
1987 1346658
1988 1314006
1989 1246802
1990 1221585
1991 1223245
1992 1208989
1993 1188282
1994 1238328
1995 1187064
1996 1206555
1997 1191665
1998 1203147
1999 1177669
2000 1190547
2001 1170662
2002 1153855
2003 1123610
2004 1110721
2005 1062530
2006 1092674
2007 1089818
2008 1091156
2009 1070036
2010 1071305
2011 1050807
2012 1037232
2013 1029817
2014 1003609
2015 1005721
2016 977242
2017 946146
2018 918400
2019 865239

 

実際に1979年から1980年で「1611018」を下回って以降、

 

「1611018」よりも高い年が一度もないことが確認できる。
 
そして、塾が爆発的に増加したのは
1975年前後に高等学校への進学率が
90%を超えたあたり(小宮山 1993)であるから、
やはり塾が栄えてから「1611018」より
高くなったことはないといえる。
 
【出典】
厚生労働省 人口動態・保健社会統計室 人口動態調査
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1.html
小宮山博仁『学歴社会と塾 脱受験競争のすすめ』(新評論、1993)