古墳から見つかった儀式用と考えられていた「米粒状土製品」が実は
カブトムシやコガネ虫の「フン」だったというニュースを流れていた。
今まで五穀豊穣なりを祈った米の代用品が虫の「フン」とは・・・

 別に私がそれが虫のフンであってもなんら困らない。
しかし、例えば、修士論文や博士論文で
「米粒状土製品と稲作成立ちの関係」や「米粒状土製品の分布」なりで
論文を書いた人間はたまったものではない。
論文は一生残る、いや人類に学問がある限り未来永劫残るのである。

教授「『米粒状土製品』の分布をよく調べあげられているよ」
学生「先生が研究に協力してくださったからです。」
教授「今度の学会では君にも発表の時間を割くから」
学生「ありがとうございます。」

という流れで「米粒状土製品」の論文が虫のフンに一切触れずに
発表、そしてなんらかの仮説が高く評価されれば、今や笑ってられない。
そして、「米粒状土製品」の仮説の評価によって仮に大学の講師なりを
やっていれば、恥ずかしい限りである。

学生「先生の修士論文はなにをテーマに書かれたのですか?」
先生「『米粒状土製品』についてだよ(恥しそうに)」
学生「虫のフンの研究ですか?」
という会話がなされる可能性もある。
誰かの人生すら揺るがしかねない恐ろしい事実の発見なのです。

 しかし、これは考古学だけの話ではない、ある先生は
ベルリンの壁が崩壊して時に、自由と統一に感動し喜び泣いたのではなく、
自分が今まで東ドイツを賛美し社会主義の正当性を高らかに
数十年謳いあげていたものが崩れたために泣いたそうである。
はっきりといえば現実を直視しなかったための悲劇である。

 学問のなかでも「現存の常識を覆し新しい発見」というのが関心を呼ぶ
しかし、それは現存の常識が過去の技術や科学が未熟であったり、
政治・宗教的に手が入れられなかった場合、
新事実として関心を受けるのであって、たまに出てくるトンデモ本は
読むに値しない。

 最近の社会的な風潮は古いものが悪くて新しいものがいいという感がある。
何も見ず研究せず、新しいものにしがみつくのは考え物で、
なぜ、古いものが今まで残っていて社会システムに根付いているかを
考える時期に来ているのではないだろうか。



著者: E.S. モース, Edward S. Morse, 近藤 義郎, 佐原 真
タイトル: 大森貝塚―付 関連史料