まっさらな気持ちで過去を見つめると
良いとか悪いではない、出来事。
在り方、事実、シンプルでフラットな自分という存在が現われる。
それに対してあれこれ思考で考えて、決め付けて良いこと悪いこと。
あるいはそれは正しいそれは間違っているなどの装飾のレッテルを貼りつけている。
それ外そう。
今を存在させる。
未来の自分はその今を見つめる。
言葉や考えで決めつけることの出来ない、ありのままの存在レベルでの至福感、生命の流動的な悦びが内と外、存在と息吹の呼吸の流れのなかにあって、それが在ることに気づいている。
未来の自分が最終的に見つめるのはその存在レベルでの在り方。
自分の過去を見つめてみればわかるはず。
どんなに嫌な過去があって、それを悪いもんだと思考でこだわり決め付けて、こんがらがっていたとしても、それと向き合い、それにくっつけていた思考のこだわりや見栄やプライドをひとつひとつ外していって、剥がしてゆくと、
いつも最後はその過去が、
どう在るべきだったのか?
どう在りたかったのか?
その自分の在り方を見つめることとなっているでしょう。
デフォルトの状態の過去の出来事。
起こったことは仕方ない。
その事実や出来事は変わらないのかもしれない。
でもその起こったこと。
事実。
そして出来事。
それらはフラットな状態の在り方にしか過ぎないので、そのシンボルに何を投影したいのかで、今でもまったく違うものへと変わってゆく。
まるで真っ白なオブジェで出来た、遊園地のように、存在してくれているだけ。
それをどんなデザインにするのかは、
あなたにだけ与えられた最大の自由
毎瞬毎瞬自由自在
そうであるならば、
今の自分は最初から、
その存在レベルでの在り方を、
生み出す生き方をすればいい。
その存在レベルでの在り方を、
生きる!生き方をすればいい。
未来の自分はきっと、
その在り方を見つけだして、
その折々の未来での在り方を、未来でもきっと見つけ出して行くだろう。
今日起こす行動や出来事は、
未来の自分から見れば、
どんな出来事や事実としてそれを見つめることとなるのだろう?
1週間後、1ヶ月後、1年後、10年後。
あるいは今日1日を終える時。
見つめて最後に見い出すのは、
自分自身という存在を通して起こって行く、
わたしという存在のシンプルな在り方。
あなたという存在のシンプルな在り方。
ありのままで愛するに値する存在。
その在り方を、愛すればいい。