続・そもそも「バロック音楽」論 | 未音亭日乗

未音亭日乗

古楽ファンの勝手気ままなモノローグ。

先週に引き続き、ボジャンキーノの本を読みながら考えたことを少々。

 

まず、前回の記事中に出てきた「器楽の分野でも、北ヨーロッパの作曲家たちは、音楽には倫理的な使命があるという考えを捨てがたく、それが自動的に『耳には隠された秩序』を生み出すことになった」という一節についてです。

 

この「耳には隠された秩序」、”inaudible order”の亭主訳ですが、原文では脚注でブコフツァー(M. Bukofzer)の著作「Music in the Baroque Era」を挙げており、どうやらそこからの引用のようです。亭主はたまたま件の本を持っているので、関係があると思われるその第三章「北方諸国における初期及び中期バロック」をぱらぱら眺めてみましたが、そのような言葉を発見できず。(そのうち真面目に読み返してみようと思います。)

 

 

ところで、”inaudible order”を単に「聞こえない秩序」と訳さなかった理由は、これだと音楽家が「意図的に忍び込ませたもの」という感じが出ないからでした。というのも、この言葉を見て亭主がすぐに思い出したのが、朝古楽で鈴木優人氏がバッハの作品解説でよく持ち出す「3という数字は三位一体を意味する」とか「シャープの調号は十字架を意味する」という話です。例えば平均律クラヴィーア曲集第2巻、第14番の解説を再録すると:

「そして第14番の嬰へ短調の前奏曲は、この第2巻全般によく出てくる、リズムがですね、3連符と2連符の狭間を揺れ動くような作品。…そして続くフーガは、この平均律第2巻では、ここにしか出てこない3重フーガ、つまりテーマが1種類だけではなく3種類のテーマが出てくるというものです。そして3つのシャープの調であるこの嬰へ短調に3つのテーマを持つ3重フーガ、さらに主題も3小節の長さ、もしかするとバッハはこのフーガで、聖なる数字である3を意識していたのかもしれません。シャープというのは、ドイツ語でクロイツと言います。クロイツとは十字架のことも意味します。ゴルゴダの丘で十字架につけられたイエス、しかしそこにはもう2人受刑者が張り付けられていました。ゴルゴタの丘の3つの十字架を思わせる3重フーガになっています。(以下略)」

 

このような数字や調号の象徴的な意味は、音楽が鳴り響いている時には(少なくとも一般聴衆には)認知されないわけで、音楽家の側もそれは承知の上でこのような暗号めいた仕掛けを埋め込んだように見えます。

 

もちろん、セバスティアン・バッハは主に18世紀前半に活躍した音楽家なので、ボジャンキーノの文章の主題である17世紀(初期-中期)バロック音楽より後の例になりますが、彼が先行する時代の音楽をよく研究し、その伝統に則って音楽を作っていたことを考えれば特に驚くに当たらないでしょう。

 

実際に17世紀北ヨーロッパ音楽の例を出すなら、こちらもよく知られているビーバーの「ロザリオのソナタ」があります。この作品は「ミステリー・ソナタ」とも呼ばれていますが、もっとも特徴的なのがその調弦で、通常の調弦がおこなわれるのは第1曲「受胎告知」と「パッサカリア」のみ。ほかの曲では、どれも異なる調弦のヴァイオリンを用いて演奏されるという「スコルダトゥーラ(変則調弦)」の技法が用いられており、第11番「復活」ではなんと2弦と3弦をクロスさせて張り替えるという奇抜な調弦で演奏者を悩ませます。以前に朝古楽でこの曲が取り上げられた際に、MCの優人クンはこのクロス調弦が「十字架」を象徴している可能性に言及していたと記憶します。こういう変則調弦は、事前に知らなければ音楽のみからは判らない、という意味でやはり耳には隠された仕掛けです。ましてやクロス調弦は、音楽自体の目的から完全に逸脱していることは明らか。

 

ボジャンキーノの解説を読むと、こういう仕掛けが宗教改革という背景の下での「敬信」を形にしたものだと納得が行きます。それは神に対する音楽家の信仰告白であり、あくまで個人的なものという意味ではむしろ聴衆には隠されるべきもの、という思いがあっただろうことも想像できます。彼が言う「音楽には倫理的な使命があるという考え」の一端も、このような作法全体の中に見出される気がします。

 

そういえば、亭主は最近どこかで「音楽の捧げ物」はバッハのダ・ヴィンチ・コードだ、という台詞を耳にしました。少し前には、リチャード・エガーがCDのライナーノートでパルティータについて似たようなことを書いていた記憶もあります。どうやら専門家は、バッハの音楽と見るや反射的に何か暗号めいた謎を探す癖がついてしまっているのかも(?)

 

音楽の中に、音楽自体とは無関係の「隠された意味(秩序)」を仕込む、あるいはそれを読み込もうとする態度は、音楽を享受する側に推理小説のような娯楽性を与えてくれますが、一方で音楽そのものの魅力を矮小化し、あるいは(全ての芸術が憧れる)その最高の価値を損なう危険もある、という点で余計なもの、という気がしますが、いかがでしょうか?