急に持論を言われても・・・

 

Amebaブログ界隈でも、邪馬台国の場所、卑弥呼の居た所の自説紹介が多い。

それは大いに結構なこと。私のようなシロウトが勝手なことを言ってもかまわん。

しかし、学者さん(大学の先生)が勝手なことを言ってはイカンだろと思う。

『邪馬台国論争』ばかりは、なぜか想像・空想の世界に迷い込んでしまわれる。

【魏志倭人伝】に書かれている情報だけでは、邪馬台国の場所、卑弥呼の居た所

を確定できないことがその理由で、ならば考古遺跡遺物から実証するのが当然

学者さん方の仕事であろう。しかし、降って湧いたような自説がぽんと飛び出す。

困ったもんさ・・・

 

かつて松本清張さんが御存命の頃、学会は清張氏に大いに影響されていたと

言う(【古代史疑】巻末解説・森浩一・門脇禎二)。

清張氏は作家としての天賦の才能から、陳寿というこれまた優れた文筆家の

立場に立って【魏志倭人伝】に書かれていることがらを検証された。なお考古学の

分野の資料を加えての【古代史疑】である。

しかし、今、松本清張著【古代史疑】を読む限り、私は逆に『疑』を抱くところである。

まず清張氏は【記紀】に書かれていることを全面否定されている。

おそらく戦後の反省からくるものだと思うが・・・

例えば、天照大神の記述で、

女性で、弟が二人いること(月読・スサノオ)、岩戸隠れ(日食)、祈祷に優れた巫女、

神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行うという記述は、

【魏志倭人伝】を裏付けるものであり、全くのデタラメだとは思えない。

さらに、清張氏は、「一大率は卑弥呼から任命された官ではなく、魏の命令を

受け帯方郡から派遣された軍政官」と自説を展開される。

私が【魏志倭人伝の『一大率』の部分の記述を読む限り、一大率を伊都国に置いた

主語は、卑弥呼(女王)としか捉えられない。私の読み下し文は次の通りになる。

・・・女王国より以北には、特別に一大率を置いて検察する。

諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。

魏国中における刺史のような存在である。

王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に出向く際、あるいは、

帯方郡の使者が倭国へやって来たときには、

いつも一大率が港に出向いて、調査、確認する。

文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届ける大役なれば、

数の違いや紛失などは許されない・・・

 

『刺史のような存在』だと例えを用いているあたり、これは帯方郡から派遣された軍政官

だとは捉えがたい。一大率は倭国における刺史(監察官)のような役割だといっているのである。清張氏は、あくまで推理作家であって、東アジア史などに関しては素人である。

 

もうひとり、早稲田大学学術大学院の渡邉義浩教授(『三国志』研究の第一人者)は、

『一大率』を「ひとりの大率」と捉え、大和にいる卑弥呼の代わりに九州一帯を治める大官のように捉えられているようである。しかし私は渡邉氏は考えすぎだと思う。

『一大率』が女王国より以北に置かれた目的は、あくまで女王に魏からの贈り物を確実に届ける役目であって、そのことをもって邪馬台国畿内説の裏付けにはならない。倭国のクニグニが一大率を恐れた理由は、当然、圧倒的な軍事力をここ(伊都国)に集中させたからである。

各地からとられた兵士は、人質の役目もあった。

伊都国は、壱岐対馬から狗邪韓国に至る海域・領土を長年確保し、一大率は女王の命によって「いざというとき」に備えた軍事力を保有していたのである。

女王卑弥呼が苦労させられた公孫氏(遼東)は滅びた。しかし、魏に朝貢したとはいえ、その脅威は募るばかり。すなわち、帯方郡による倭国侵略が現実味を帯びていたのであった。

倭国を守り、女王を守る・・・その軍事拠点として伊都は最重要の地であった。

一大率は倭国内の賊を取り締まるのみならず、倭国防衛の最前に立っていたのであった。

とにかく、一大率の部分の記述だけで、大和説も九州説も自説の補強にはならない。

   ※ 私は、一大率は「素戔嗚尊=難升米」だという自説で【卑弥呼物語】を書いている。

 

さらに、寺沢薫纏向学研究センター長の大書【王権誕生】について述べたい。

寺沢薫先生、私はとても尊敬しております。

私の【卑弥呼物語】、

寺沢先生の【王権誕生】講談社2000年(日本の歴史第02巻)

を大いに参考にして書かせて頂きました。

さすが現在最高峰の考古学者だと感心させられました。

弥生時代の稲作伝来から青銅のカミとマツリ、倭人伝のクニグニ、情報の争奪と外交、倭国乱れるまで、本当に勉強になりました。ありがとうございました。

ただ、先生の大和説、私は納得できませんでした。

なぜか分かりませんが、『イト倭国から新生倭国へ』という説にはその根拠となる部分が非常に乏しいのです。先生は、公孫氏との外交が『イト倭国』を弱らせ、『新生倭国』として関門海峡から一気に瀬戸内に抜けるルートを大和が確保したように書かれていますが、一大率はどこに行ったのでしょうか。それに公孫氏が滅んだことで朝鮮半島の情勢が変わり、それがきっかけで伊都から大和へ遷都したかのように私には読めましたが、ちょっと信じられないのです。狗奴国も濃尾平野と言われるが、説得力が無い。そんな一地方が倭国というまとまった国と互角以上に対抗できたとは信じられないからです。それでしたら、まだ狗奴国熊本・鹿児島説の方が説得力があります。

何より先生は伊都国の平原遺跡から発掘された巨大内行花紋鏡のことはスルーされている。

この鏡こそ、卑弥呼の鏡、三種の神器とされるそこへの反論をきいてみたかった。

残念です・・・

                  (絵)母の魂を受け継ぐひみこ

 

まあ、そんなこんなで、建国記念の日の一日を卑弥呼の事ばかり考えている魅音ちゃんです。

今、【あの青い空と海を】を連載中ですが、いずれ【卑弥呼物語】も連載致します。

おたのしみに。