古谷経衡論 | 「国家戦略特区」blog

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ポスト・グローバリズムの社会を考察。日本を貧しくする移民=外国人労働者受入れ政策に警鐘を鳴らしています。

『期待された古谷氏ですが、自分が誹謗中傷した知人を逆に名誉毀損で訴えるなど不可解な行動が目立ちます。復活を期して再びエールを送ります!』

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古谷経衡論『いじめられっ子、世にはばかる』

『嫌われる理由』

 むかし小学生の頃、非常に性格の悪い女の子が同級生にいた。分かり易く説明すると、とにかく「ひと言余計なこと」「腹の立つこと」を言うのである。皆に嫌われていたのだが、母親達の会話を聞いて更に驚いた。

『驚愕の会話』

Aさん「○○さんのお母さん、私も苦手なのよね。」Bさん「だから私も、あまり関わらないようにしているの。」Cさん「どうしても憎まれ口をきいてしまうのよね。」

『なぜか似てしまう』

つまり、その同級生だけではなく、その母親も皆に嫌われていたのである。遺伝か教育か環境か判らないが、親子揃って・・・という事らしい。

『子は親に倣う』

話は変わって、私の友人は「しんどい」というのが口癖だ。以前のその友人の自宅を訪れると小学生の長男がやたらと「しんどい」「しんどい」を連発するのである。全然しんどく無い状況なのにである。親の姿を子は見ているのです。皆さん気をつけて下さいね。

『余計なことを喋る』

このように人間社会は、色々な人間がいる。どうしても、憎まれ口を効いてしまう人もいる。例えば、こんな感じに・・・・・。古谷『わたくし経済の事が全然、解らないので教えて下さい。』これは月刊三橋の音声動画の中でのコメントである。基本的に『全然、解らない』はないだろう。そもそもこんなセリフを言う必要は全くないと思う。これが「憎まれ口」というヤツだ。

『親近感が増す人々』

私は、中野剛志氏と三橋貴明氏に一度だけ講演会の後の懇親会で会話したことがある。驚いたのは、二人とも全くネット動画と同じ語り口だったことだ。考えてみれば、自分を取り繕ってあんなモノが出来るものではない。その人のキャラクターが素直に出ていると思う。正直、両氏のフランクな語り口に大いに親近感が増したものである。

『的外れな街宣』

同じ意味で、私は古谷氏に挨拶したことも一度だけある。2012年9月末の消費税増税反対の官邸前の抗議集会の帰り道だ。古谷氏は、JKリフレと国土強靭化グループとの分裂を予見してか『消費税が増税されるよりも保守が分裂する方がよほど不幸だ』と的外れな街宣を行っていた。

『意味不明な思考』

大体、登壇者は、官邸側を向いて消費税増税に対する抗議の街宣をしていたが、古谷氏は我々抗議運動を行っていた参加者に向かって演説したのだ。私はハッキリ言うが、保守が分裂しても消費税増税が回避された方がよっぽど良い。それが普通の感覚だ。彼の本末転倒な演説に心底呆れ返ったものである。

『本心を隠す笑顔』

だが、それは大人として、帰り掛けに私は古谷氏に「街宣お疲れさまでした。」と声を掛けたのである。彼も私に挨拶で応じてくれたのだが、そのとき驚いたのは、本心を全く隠した古谷氏の笑顔であった。

『微妙な対人関係』

もちろん、彼からすれば私は、見ず知らずの他人であり、電車の中で肩の触れた他人に会釈するようなものだろう。しかしぎこちない彼の笑顔を見た時、言論人とは、ここまで人に気を使わなくてはならないのか・・・と何とも微妙な気持ちになったものだ。

『凡庸であること』

その後、古谷氏は、三橋氏のメルマガで、江戸時代の歴史の話などコラムを寄稿するようになった。内容的には間違った事は書いていないのだが、私は、修論が江戸の都市史についての研究だったので、多少知識があり素人ではない。そのような視点で彼のコラムを読むと、残念ながら何とも底が浅いのである。Wikiに書いてあるような事を、メルマガの読者に伝えてもどうかと思ってしまうのだ。

『つまらない歴史観』

また、彼の歴史関連のコラムを読むと根本的な問題として、現代人と過去の人を同じ人間として見ていないフシがある。彼が明治維新の後の文明開花について触れた時に、当時の人々は一定時間拘束されて就業することは不可能だったとの、一部の人々の意見(恐らくサヨク?)を鵜呑みにして語ったのには、呆れ返ってしまった。

『一時資料で見える事実』

確かに誰もが時計で時間を秒刻みで把握する現代と異なり、大らかな時代であったとは思うが、例えば、私は、日の出前に起床して、一時間以上掛けて徒歩で江戸城に出勤する下級武士の事を知っている。彼らがオフィスワークの成果として残している様々な芸術的価値すらある文献資料の緻密な成果物の現物を見ている。そのような一次資料から見えてくるのは、江戸時代に生きていたのは、我々現代に生きる日本人と同じ人の姿だ。ところが古谷氏は表層的なサヨクのプロパガンダをそのまま垂れ流しており、大いに失望したものだ。

『知識を深めるべき』

現代の代表的なサヨク史観といえる網野史観そのものは、古谷氏は批判していたが、その強い影響下にあるように思えてならない。古谷氏がその歴史観から脱するには、何か専門的な領域があると良いのだろう。総てに浅い知識だけだとペラペラな言論になってしまうものだ。

『時代を超える人間性』

繰り返しになるが、私は、その時々の時代の影響はあるだろうが、人間とは、いつでも同じくらい愚かな存在だと思っている。逆に言えば、50年前の人も、100年前に人も、1000年前の人も、1万年前の人も、人間(日本人)は皆同じだと思っている。そのような感覚が無い人間は、尊大になり、過去の人間を見下し、自分が特別で偉大な存在だと勘違いするのである。

『過去を見下す愚かさ』

人類の歴史に間違いが発生するとすれば、過去の人間を見下した姿勢を取った時だ。だから、私は、大東亜戦争中だろうが、江戸時代だろうが、平安時代だろうが、縄文時代だろうが、現代だろうが人間は同じだと考えている。しかし、古谷氏の思想、歴史観からはそのような視点は全く感じられない。そしてこのような態度こそが、サヨクそのものなのである。

『キライではない』

誤解があると困るのだが私は古谷氏が嫌いではない。『永遠のゼロ』も彼が絶賛しなければ見に行かなかったかも知れない。『さくラジ』は毎週楽しみにしていた。しかし、安っぽい一般的な知識だけで言論活動するのはそろそろ限界だと思う。また彼の安倍批判は、刮目に値する行為だと評価している。

『宮崎信者=安倍信者』

しかし、彼の宮崎駿に対する盲目的な信仰には正直ついて行けない。安倍信者とどこが違うのかと言いたい。私は、「小西康晴」や「小山田圭吾」や「坂本龍一」などの音楽を偏愛しているが、彼らの政治思想は問わない。恐らく全員サヨクだと思うが音楽が良ければそれで良いのである。しかし、宮崎駿が設計主義で無いからサヨクではない、とのCGSの動画での発言には呆れ返るしかなかった。

『宮崎駿の自然観は間違い』

私はエンターテーメントとして、宮崎アニメのファンであるが、彼の歴史観、自然観には同調しかねる。特に「もののけ姫」のタタラに対する視点は全く間違っている。日本のタタラは神武天皇の皇后の名前が「タタラ姫」であった様に、古代から自然と共存出来たからこそ、今日まで日本文明が続いて来たのである。自然との対立関係を前提に、タタラを描いたあの映画の世界観は間違いである。

『極左の方が面白い』

私は別に宮崎さんがサヨクもっと言えば極左でも良いではないかと考えている。いやむしろガチガチの反日左翼の宮崎駿や山田洋次や手塚治虫が賞賛せざるを得ないくらい日本が素晴らしい国だと言える方が余程、愛国的ではないか?このような安倍信者的な盲目的な宮崎信者ぶりが彼のアニメ論説の質を下げているのだ。

『いじめられる理由』

古谷氏は、自ら「いじめられっ子」であった事を告白している。彼が何故いじめられたかは、私は判らない。しかし、これは想像だが、過去の歴史上の日本人を見下すような彼の態度と同じ態度を、周囲の人々に向けたのが原因とは言えないだろうか?

『人を見下せば、人に見下される』

私は「いじめを善とはしない」立場を先ずは明らかにしたいが、最初に記述した皆に嫌われていた親子は、結局、自分以外の他者を見下していたように思う。ところが人を「見下す姿勢」が逆に周囲の反感を買い「見下される状況」を生んでいたのだと思う。この場合の「いじめ」とは逆説的人間関係である。

『ある種の自己愛の果て』

人間は自尊心が無ければ生きて行けないが、己の弱さを受け止める強さも同時に必要だ。古谷氏を見ているとネットと愛国の著者として知られる安田浩一氏と仲が良いらしく、彼に対する批判的なTweetに過剰反応していたのが気になった。宮崎駿氏を自己と同じ愛国者であると極論するのも、自己と他者の相対化が不十分なのが理由かもしれない。私はこれはニヒリズムに繋がる世界観に感じられ警戒してしまう。小泉フィーバーや橋下旋風もこれらニヒリズム(虚無主義)の賜物だ。

『弱者に対する優しい視線』

彼の評論で面白いのは、大学で学んだそうだが、同和問題など社会的弱者に対する視点である。もしかしたら自己同一化した対象がこれら社会的弱者なのかも知れない。面白いのは、弱者であるから擁護するのではなく、むしろ突き放す姿勢が新鮮なのだ。

『愛国者としての希望』

彼の中に垣間見れるニヒリズム的な世界観を克服した時に、恐らく古谷氏は本物の保守言論人に成長するだろう。彼が愛国者なのは疑いの余地が無い。したがって、それ迄の間『弱者保守評論家』となることこそ、彼の言論人としてのポジションだと密かに考えている。

(田中秀臣論に続く・・・・)

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本エントリーは平成26年7月27日『古谷経衡論』の記事を再掲したものです。



「ダンス:高木克俊/曲:オーディエンスを沸かす程度の能力」

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