江戸城で斬殺 熊本藩5代藩主 細川宗孝 | 墓守たちが夢のあと

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細川家歴代の墓(京都 高桐院)

 

細川宣紀の墓は左側の奥から三番目

 

九曜紋(左)と細川九曜紋(右)

 

 熊本藩細川家の家紋は、一つの星(〇形)を八つの星が取り囲む「九曜紋」であるが、他と異なり、周りの星が小さく間隔が開けられている事から「細川九曜」と呼ばれ区別されている。
 伝承によると細川家二代・忠興が織田信長の持ち物に九曜紋がデザインされているのを見て自分の家紋として使用することを許されたと言われ、当初は周りの星が大きい一般的な九曜紋であったという。それが現在の「細川九曜」となったのには、熊本藩5代藩主(細川家6代当主)・細川宗孝を襲った悲劇が関係している。
 宗孝は享保17年(1732)に父・宣紀の死去にともない17歳で家督を相続し藩主となる。熊本藩では先代の頃より天災や飢饉に見舞われ財政は危機的状況で、宗孝はその対応に追われる事となる。
 しかし、延享4年(1747)江戸城へ登城していた宗孝は厠に立った際に突然、旗本寄合席の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命する。享年32。
 まだ子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところであったが、たまたまそこに居合わせた仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に助言した。
 そこで、家臣たちは宗孝の遺体を急いで藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子として幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。
 板倉が宗孝を殺害した理由については諸説あるが、本家筋にあたる安中藩主・板倉勝清が自分を廃しようとしていると思い込み、襲撃の機会をうかがっていたところ、細川家の「九曜紋」が板倉家の「九曜巴」とよく似ていたことから、宗孝を勝清と勘違いして切りつけたと言われている。 
 細川家では、家紋の見間違いが藩主殺害の原因となったことから、事件後「九曜」の星を小さめに変更し、さらに通常、礼服は裃の両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋がつけられていたのを、両袖の裏側にも1つずつ付け加え、後方からでも一目でわかるようにしたという。