第8代統合幕僚会議議長 白川元春 | 墓守たちが夢のあと

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見切れてますが白川家累代の墓

 

墓誌

 

墓誌

 

 昭和7年(1932)上海天長節爆弾事件により亡くなった陸軍大将・白川義則の墓が青山霊園にありますが、墓誌には家督を継いだ義正の他に、自衛隊統合幕僚会議議長などを歴任した三男・白川元春の名も刻まれていました。
 大正7年(1918)に生まれた元春は、昭和14年(1939)陸軍航空士官学校(第51期)を卒業し、飛行第90戦隊中隊長などを歴任。陸軍大学校(58期)卒業後、陸軍少佐に進級し、南方軍参謀として終戦を迎えています。
 昭和29年(1954)航空自衛隊に3等空佐(少佐)として入隊すると昇進を繰り返し、昭和45年(1970)には空将(中将)となり、翌年に統合幕僚会議事務局長 兼統合幕僚学校長に就任しています。
 昭和48年(1973)に航空自衛官のトップである第11代航空幕僚長に就任。その翌年には陸海空自衛隊の自衛官トップである第8代統合幕僚会議議長として自衛隊の舵を取り、
 北海道夕張郡長沼町馬追山に航空自衛隊のナイキJ地対空ミサイル基地を建設するため国有保安林の指定が解除されると、反対派が自衛隊の違憲性と洪水の危険を訴え提訴。一審の裁判長に対し当時の地裁の所長が訴えを却下するようアドバイスしたメモが発見されるなど大きな社会問題となります。
 白川は、この「長沼ナイキ事件」の処理にあたるなど活躍し、昭和51年(1976)に退官。平成20年(2008)に90歳で亡くなっています。


青山霊園 1種ロ-8-1~14