園田実徳 | 墓守たちが夢のあと

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園田実徳の墓

 

園田実徳

 

 園田実徳(さねのり)は薩摩国出身で、明治維新後開拓使として北海道函館に渡り、実業家・政治家として活躍した人物です。
 嘉永元年(1849)に薩摩藩士・園田彦右衛門の長男として生まれた実徳は、慶応2年(1866)藩主島津忠義の小姓となり上洛。鳥羽・伏見の戦いでは、黒田清隆の配下として参加しています。
 明治5年(1872)北海道開拓使出仕を命じられた後、明治7年(1874)に起きた「佐賀の乱」では大久保利通の密使として活躍。西南戦争にも参加しています。
 当時独占状態だった郵便汽船三菱会社に対抗して地元資本家らが創立した「北海道運輸会社」に関わり函館支店長に就任した園田は、函館-根室間など新航路開拓に尽力。
 その他、「北海道炭礦鉄道」の創立発起人となり理事に就任し、現在の函館本線の一部、函館駅-小樽駅間の鉄道開発に尽力。
 また、北海道セメント会社、函館電燈所(北海道電力)、(株)北海道銀行を創立するなど北海道経済の発展に尽力していきます。
 大正3年(1914)函館郡部衆議員補欠選挙に立候補して当選。政治家としても活躍していきます。
 日本における近代競馬黎明期の有力者であった園田は、北海道共同競馬会社(1900年発足)発起人の一人で、東京の「目黒競馬場」を使用した公認競馬会「日本競馬会」の会長も務めています。
 馬主としても目黒のに厩舎を構え、1910年の目黒帝室御賞典(秋)に優勝した名馬「シノリ」などを所有。明治20年(1887)には、北海道庁桔梗野牧羊場の払い下げを受けて園田牧場を経営。
 同場出身の騎手・武邦彦は現在も騎手として活躍する武豊の父として知られていますが、園田実徳の実弟・彦七の孫にあたる人物です。
 また、園田実徳の長女は、西郷隆盛の息子、西郷寅太郎に嫁いでいます。
 北海道の経済界に多大なる貢献をした園田実徳は、大正6年( 1917)に東京で死去。享年70歳でした。


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