一橋徳川家初代 徳川宗尹 | 墓守たちが夢のあと

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合祀墓

 
 第8代将軍徳川吉宗により創設された御三卿は、将軍家(徳川宗家)の別家で、徳川御三家と同様、将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担ってきました。
 その中で、実際に将軍を輩出したのは、一橋家のみとなります。(第11代将軍家斉と第15代将軍慶喜)
 一橋家は、吉宗の四男宗尹(むねただ)を家祖とし、家名は江戸城一橋門近くに屋敷があったことに由来します。
 享保6年(1721)深心院(お梅)を母として江戸城にて生まれた宗尹は、享保20年(1735)に元服し3万俵を賜り別家を興します。
 その後、加増が繰り返し、元文5年(1740)には江戸城一橋門内に邸を賜ったことから一橋家が成立していきます。
 宗尹は鷹狩りを好み頻繁に行っていたそうです。また陶芸や染手拭いの製作や、手作りの菓子を父の吉宗や兄の家重に献上するなど多趣味であったと言われています。
 一橋家の墓は寛永寺の塔頭・凌雲院の墓地にありましたが、現在地に移転する際に明治以降造られたもの以外の、歴代当主の墓は合祀墓にまとめられたそうです。
 これは、各墓石が、戊辰戦争や関東大震災による被災で損傷が激しかったためで、最も損傷が軽い2代徳川治済墓を合祀墓としたそうです。
 
 
東京都台東区谷中 谷中霊園 寛永寺徳川家墓地