徳川家康の弟 松平康俊 | 墓守たちが夢のあと

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松平康俊の墓所

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松平康俊の墓

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墓の裏側

 西来院の築山御前の墓の横には家康の異父弟の松平(久松)康俊の墓があります。康俊は尾張国知多郡の坂部城主・久松俊勝の三男で、母親は家康の生母、伝通院(於大の方)です。伝通院は尾張国知多郡の豪族・水野忠政の娘で、岡崎城主・松平広忠へ嫁ぎ家康を生みますが、実家の水野家が今川方から織田方へ寝返ったために離縁。その後、久松俊勝へ嫁いでいます。
 松平康俊は永禄6年(1563)、今川氏真の人質として駿河国に赴きますが、武田信玄の侵攻により甲斐へ送られています。元亀元年(1570)の冬、家康の手配により甲斐から逃亡しますが、この時凍傷により両足の指を失ってしまったと言われています。
 家康は康俊を可愛がり、天正11年(1583)には駿河の久能城が与えられますが、3年後に死亡。享年35歳でした。

西来院 : 静岡県浜松市中区広沢2丁目10-1