兄の精神的なものが身体的な部分に影響を出していることに気づいたのは、兄が早退してきた日よりも少し前だった。
家では食べているけれど、それまでジム上がりで寄っていたコーヒーショップでも甘いものをひとつ注文していたのに、それが無くなったりいよいよ何も頼まなかったりした。
痩せたというより、やつれたなと感じてしまった。
そんな兄に気づいた時、これこそ自分のせいなのだと思った。
いつまでも兄を困らせている僕の態度が全てを悪い方向に持っていってしまっている。
兄が深い闇に飲まれてしまう前に、僕の手で引き戻さなくていけない思った。
いつだって強くて、真っ直ぐで、誰からみても親孝行者で、兄弟思いで、他人にも親切で、模範的な大人の代表だと思う。
けれど兄の心に居座っている闇というのは、それにそんな表面の自分に逆らいたいわけでもないのもよく分かる。
いい子でいたいわけじゃないけど、いい子でいられる自分も愛しているんだと思う。
それが誰のためにもなるのなら、兄はそんな自分を愛して生きていけると思うんだ。
僕はこの世で初めて、深く深く感情を揺さぶる存在が自分の兄であることを大人になって知ったんだ。
兄にしがみつくことで、芽生えた感情を途絶えさせないようにしていた。
責めることもなく、話をつけるわけでもなく、結局はずるずるといつもの日常を続けていることに迷いながらも甘えていた。
それでも傍に居てくれる兄に、しがみついていた。
けれど。
それではやはり、僕が愛してしまった兄そのものが失われることに気づいたのだった。
何かに深く囚われてしまった兄を解放してあげられるのは、兄自身。
そして僕。
黙っていてはもうダメだ。
いい子でい続けるなら、まずは健康でいなくてはいけない。
健康優良孝行長男でいなくちゃいけないんだ。
兄さん、戻ろう。
僕だけが何も知らなかった頃に。
でも、知ってしまったことはもうなかったことにはできない。
だから、僕が僕の心を開放しようと思うだ。
だから、兄さんは心を解放してほしい。
兄さん、僕はあなたを愛してしまったことを改めて話そう。
そして僕はその告白と共に、あなたにしがみつく弟をもうやめようと思う。
だから。
だから、兄さん。
兄さんは僕達の両親に愛される、素直な兄さんを取り戻して欲しい。
愛されているんだから、愛されて欲しい。
だから。
今度は僕が、大人にならなくてはいけないんだ。
ベッドの上では僕が泣いているのか、兄が泣いているのか。
互いの頬は濡れていた。
僕からのキスを拒むことなく受け取り、返し、与えてくれる。
そんな兄に甘えるようにしてキスは続いた。
『母さんが、お腹に優しいものを作ってくれてる。』
『…、』
母は青い顔をして帰ってきた兄の為に、卵粥を作ってくれていたようだ。
兄は天井を見つめたまま、目を動かさなかった。
食べたくないのは変わらないだろう。
『今は何も食べたくないかもしれないけど、体は温かい方がいい。』
冷えていると、寒いと、人の心も小さく硬くなっていってしまうから。
それでも兄は、体のどこも動かさず、声も出さなかった。
『兄さん、あのね、』
『やっぱり、俺はここにいるべきじゃないと思う。』
やっと声を出したと思ったら、まだそんなことを言うのか。
多分それは、誰も望んでいない。
だって兄も誰も悪いことをしたわけじゃない。
ただ結婚の予定がないだけで、家から出る必要がないというだけだ。
そういうことじゃないか。
『どうして、そう思うの、』
兄は首を動かして、子供の頃から未だに使っている学習机の方を見た。
母方の祖父母が、兄の小学校の入学祝いに買ったものらしい。
僕の部屋にも、同様に同じ祖父母から与えれたものがある。
兄は「せっかく買ってもらったものだから」と言って未だにずっと使っている。
だから僕も使い続けている。
祖父母が亡くなった時、母から処分してもいいと言われたけれど、兄は断り、僕は真似をした。
『俺はこれまで、お前に酷いことをしてきた。』
『え?』
『何度も、何度も、』
『なんで、…なにを、』
『…、』
兄の視線が机に注がれている。
何かあるのだろうか。
それからゆっくりと、僕の方へ目が動いた。
その顔は、感情が読み取るには難しい程に動きがない。
『またいつか、同じことを繰り返す。』
『何を?僕に何をしたの?僕はそんな記憶ひとつもないよ、』
『記憶…、本当に、記憶はないのか?』
やっと兄の体が動いて僕の方に向いたのだった。
『ないよ、酷いことが浮かばないもの。叩かれたり蹴られたりなんてひとつもしてない、』
『そういうことじゃないさ、』
『じゃあ、』
なんだと言うのだろう。
兄は僕に何をしていたのだろう。
それに当たるような記憶がない。
記憶がない。
記憶?
例えば、僕が知らないところで兄が何かをしていたということ?
だから知らない?
見えないところで?
知らないところで?
『でも、お前の体には触れていた。そして酷いことをした。』
『…、』
痛い思いなんてひとつもしてない。
寝ている間に頬でも抓られた?
まさかね。
『あ、』
『思い出したか?』
寝ている間。
まさか。
まさかね。
何度か兄と不思議な状況の夢を見たことはある。
それすらも忘れていた。
まさか。
夢の中でセックスをしていた。
まさか、それが現実のことであって、兄が言う酷いことなのか。
『理解したみたいだな、』
悲しそうな、兄の顔。
それでも笑っている、兄の顔。
どうしてこの瞬間で笑うことができるの。
『お前に睡眠薬を盛って、してたんだ。』
『睡眠薬…、』
『まだ持ってる。だから使ってしまいそうで怖いんだ。』
そういうことだったのか。
でも、性的な目で僕を見ていた瞬間は素面の僕でも感じていた。
それが僕にしていたことに繋がっていたのかな。
だから僕は、「兄さんとなら、なんだってできるもの」なんて思ったし言ってしまったということなのだろうか。
その瞬間、僕の背骨と二の腕に大きな震えが走った。
優越感に近いものを感じる。
それと、狂気。
夢の中で見た、兄の顔。
その顔にも僕を狂気の目で見ていたね。
ああ、そう。
そういう事だったの。
いけないことをしてでも、僕に触れたかったんだね。
込み上げる、濡れた感覚。
多分僕は今、笑っている。
喉の震えも止まらない。
『チャン…、』
僕は震える二の腕を掴んで自分を抱き締めた。
込み上げるこの感情に、自分が恐ろしくなってくる。
嬉しい。
聞かされてそう思う僕って、きっと異常だ。
でも、そんな自分を隠したりはしない。
隠してしまっては、全てがそこで終わってしまう。
もう兄を連れ戻すことができない。
『兄さん、ずるい。』
『え?』
ようやく離すことが出来た自分を抱き締める腕。
それでも全身の込み上げるような強い感情と震えは止まってくれなかった。
犯したい程に、僕が好きだったんだね。
目も、口も、頬も全て、震えながら笑っているに違いない。
『ひとりで楽しんで、ずるい、』
『、』
夢の中だけじゃ嫌だ。
僕だって、僕を抱いて喜ぶあなたを感じたいもの。
ずるい。
本当にずるい。
泣きたい程に、恨めしい。
『僕だって、兄さんと抱き合いたかった。』
『…、』
泣きたい。
僕だって、こんなにもあなたを愛しているのに。
泣きたいよ。
だって僕達はやっぱり愛し合っていたんたじゃないか。
ううん、違う、愛してることに気づいた。
だから今度は、愛し合う番だ。
泣きたい。
もっともっと、終わりになんてできない。
『また、泣いてる…、』
泣けたらしい。
別に泣こうと思って泣いたわけじゃない。
衝撃と興奮と歓喜が爆発してしまいそうだ。
泣きたい。
嬉しくて、泣きたい。
『ごめん…、』
伸びてくる長い腕。
ベッドが軋んで僕を抱き締める。
僕を包む兄の匂い。
『兄さん、』
罪悪感が溢れている目と視線が合った。
『騙すようなことをして、ごめん。例え俺達が好きだって思いあっていても、それをあのふたりに知られるわけには、いかないだろう。』
『どうして、』
兄の顔を覗き込む僕の頬を、兄は指で少し強く拭った。
頬の皮膚が伸びる。
唇も伸びる。
『ふたりは、そんな俺達を望んでいるか?』
『…、そんなの、』
ああ、この人はどれほどに育ててくれた親に対して敬う気持ちを抱えているのだろう。
両親に対する気持ちを前にして、自分の本心を小さな箱に押し込めようと戦っていたんだ。
押し込んだ本心というものを乗り越えてこそ本来の自分を取り戻せるとでも思っていたのだろうか。
両親が何を望んでいるかなんて、僕にはわからない。
でも、僕達がこうして離れることを問答していることをは望まない気がする。
『じゃあ、兄さんは僕を好きだという気持ちを全部なかったことにして、誰かと子どもを作れる?』
僕達の両親は、そんなふうに血が繋がる様を見て喜ぶのだろうか。
『…、』
『兄さん、僕は作れない。兄さんが僕に結婚をして子どもを作れって言っても、僕はこの気持ちを持ったまま誰かと人生を共にすることは出来ない。』
だから捨てろと言う?
僕が大人になって知ってしまったこの気持ちを、捨てろって言える?
『兄さん、捨てないで欲しい。』
好きだもの。
あなたが。
『僕を好きでいてくれる気持ちを、捨てないで欲しい。…、ついさっきまでは、僕が家を出ることで解決しようと思ってた、』
『、』
でも、思い直した。
あなたの狂気を知ってしまったのだから。
『でも、今はそうは思わない。…抱かれたい程に、好きだもの。』
『チャン、』
自分がゲイだった、バイだったとかそんなふうに考えられた瞬間はない。
今この瞬間も。
兄もそうなんじゃないかと思う。
ただ、兄が好きだ。
弟が好きだ。
それだけのことだった。
そしてあなたは、僕よりも先に、僕だけを好きでいてくれた。
違う?
そうだよね?
『好きだよ。ねえ、兄さん、好きだ。』
ここにいてはいけないだなんて、言わないで。
思わないで。
『互いに惹かれ合う血が流れていた、そういうことでは、いけないのかな。』
『、』
体の中に流れている赤い血は違うものだった。
でも、僕達は惹かれ合うために別の血が通っている。
そうだとしたら、何も悲観的になるものなんてないじゃない。
『僕は、兄さんが兄さんでいてくれても、そうじゃなかったとしても、きっとこうしてあなたに縋る日は来ていたと思う。』
『…、』
兄の手を握る。
僕の手よりも大きくて綺麗で、たくさんの思いを抱えてきた手だ。
そんな手を、僕は離すことが出来ない。
『思いを通わせながら生きていく方が、きっと僕達は上手に生きられる。』
『…、』
『だって、僕達は嘘をつくのが下手くそだから。』
『、』
『ふふ、』
小さい頃から、嘘をつくと直ぐに互いにも両親にもバレてしまうんだ。
そこで蘇る、数々の幼い頃からの思い出達。
これが走馬灯というのだろうか。
別に死ぬ訳では無いけれど。
死んでたまるか。
僕達はまだ、ひとつも愛し合っていないのだから。
『兄さん、きっとあなたは、戦いながら生きる方が、輝けるひとだから。』
『…、』
『本当に生きたい姿を、思い出して。』
僕自身、いつからどれだけの涙が零れていたのかはわからない。
けれど天井を見上げる兄の目から、涙が落ちたのを見たのは、この瞬間が初めてだった。
続く。
│◉J ◉`)次でラストだよ。
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