母、旅立ちの記録-6 葬儀前の奔走 | あなたに,も一度恋をする

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ご訪問ありがとうございます。

91歳の認知症・母の介護ブログを綴っています。

心温かな訪問介護ヘルパーさん達のおかげで

母の完全自宅介護が実現して1年半。

このまま自宅で最期を迎えられたらと思っていた矢先、

私の乳がん発覚で、自分の治療と

母の介護との両立のなか、

母が旅立ちました。

その記録を詳細に綴ります。

 

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この記事は以下の記事の連載になっています。

長文ですので、読んでいかれるうちに

お疲れになるかもしれません。

ご興味ある方のみ、読み進めてくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

母が亡くなって3日目を迎えました。

葬儀社との打ち合わせや持参するものは

前日に済ませていましたので、

この日はホールに行かずに過ごす日。

安置所にいる母の傍には

居てあげれないけれど仕方ない。

『待っていてね。

明日みんなに会えるからね。』

と、姿の見えない母に、

話しかけてました。

 

抗がん剤を打って4日目になるこの日、

ほとんど睡眠をとれてない私を心配した夫が、

「病院に行くのは13時だから、

11時くらいまで、

ゆっくり寝たほうがいい。」

と言ってくれたので、

その言葉に甘え、

朝の10時近くまで睡眠が取れました。

 

<レンタル会社の介護用品の引き取り>

朝、私が起きて階下に降りていくと、

夫が、

「介護用品をレンタル業者の方が、

朝9時にトラックで来て、

一気に引き上げていったよ。」

と教えてくれました。

 

母の部屋を見ると、

所狭しと占領していたベッドは消え、

車椅子2台、トイレのつっぱり棒も

消えている。

『朝一番に来てくださったんだ。

大変だったでしょうに。』

と感謝しました。

 

思えば母を介護するにあたり、

5年近く、このレンタル会社さんに

お世話になった。

手すりの工事を始め、

たくさんの助言とご提案を頂き、

その都度、提案してくれたレンタル用品。

こんなありがたいものがあるんだと

感心した事を思い出します。

このレンタル会社の担当者さんは

私にとって心強い存在でしたし、

この会社がなければ、

恐らく自宅介護は、

もっと過酷になっていたと思います。

最後の最後まで、ありがたかったです。

本当にお世話になりました。

 

<来客のための部屋の準備>

そしてベッドが消えた母の部屋を、

夫が掃除機をかけて雑巾がけまでしてくれて。

こんな事をしてくれたのは、

恐らく結婚して初めての事で

正直、驚きでした。

 

その夫が

「オレ、雑巾で部屋ふきながらさ、

色々思い出してきてさ、

お義母さんと3人で、

しょっちゅう外食行ったなぁとか、

温泉施設に行ってたなとか、

旅行にも一緒に出掛けたなとか…。

なんかさ、お義母さんとは、

良い想い出しか浮かんでこないんだよ。」

と言う。

けれど私にはそんな想い出に、

心をはせる余裕などなく、

今日この1日で、残る仕事を

全てこなさなければならない事で

頭が一杯だったのです。

 

<介護用品を、施設に寄贈する>

夫が母の部屋を片付けてくれたものの、

母の部屋から移動させた紙パットや

リハパンなどが、山のようにあって、

これををなんとか片付けたい。

出来れば今日じゅうに。

 

それで最後にお世話になった、

特養に電話をかけて、

大量にあるこれらの介護用品を

(開封した物も含め)そちらの施設に

全て寄贈したいとお伝えしたところ、

快く了承して下さいました。

夫はすぐに車に積んで、

施設に届けてくれました。

 

こうしてベッドや介護用品が

家から跡形もなく消えて、

母が過ごした小さな四畳半は、

まるで介護生活などなかったかの様に

殺風景にも思える空間になりました。

 

これで今日の夕方、他県から来る、

姉夫婦のお布団が敷ける…

と思うと同時に、

ベッドが一瞬で消えてしまったように、

母との数々の思い出も、

いつか私の記憶の中から、

忽然と消えてしまうのではないかという

恐れに似た感覚も覚えるのでした。

 

<自治会への届け>

夫が施設に介護用品を届けてくれている間、

私は母の死亡を自治会にお知らせする為に

評議員をしているお宅に行き、

届け出の用紙に記入させて頂きました。

そして明日のお通夜にご参列希望の方は、

ホールが大きいので、

お掛け頂くお席がある事もお伝えしました。

 

<治療のために病院へ>

そして12時過ぎ、

白血球をあげるジーラスタ注射を打ちに

夫の運転のもと、車で病院へ向かいました。

 

<銀行での出金とデパートで返礼品の購入>

注射を終えた後、

昨日と同じく銀行に寄ってもらい

母の口座のキャッシュカードで

葬儀費用のための引き出しをした後、

高島屋に向かってもらう事に。

 

葬儀社には、

明日から始まる葬儀のご参列者に

700円のお茶セットの粗供養の準備を

お願いしていましたが、

これらはお香典をご遠慮する方々へのお品。

 

それより値が張る返礼品に、

どんなものがあるかは、

叔父・叔母の葬儀を通じて

知っていましたゆえ、

親戚用の返礼品には

出来るだけ良いものをお渡ししたく、

お気に入りの洋菓子店で

4000円台の詰め合わせを、

必要分購入し、(お寺さんの分も含む)

1万円までのお香典を

包んで下さった方には、

これにて満中陰志での返礼を

省略させて頂く事にしました。


そして、葬儀後に

お供え品を持って、自宅に

ご弔問いらして下さる方用に

(3軒の親しい方は、過去3000円の

お供えを持って弔問されている)

への返礼品の準備に、

1900円の詰め合わせを、

購入しておきました。

 

<食材の購入>

この後、デパ地下のおこわ屋さんで

今日来る姉夫婦と自分達のお弁当を購入後、

高島屋を後にし、今度はスーパーへ。

そこで、明日の朝食用に食べてもらう、

おでんとおにぎりの材料を買い、

帰宅しました。

(おでんなら煮込むだけで作れるので)

 

帰宅後、すぐに電話をかけたのは、

母の親友の滞在するグループホーム。

生前、母に聞いていた、

『亡くなった時に知らせてほしい人』のリスト

入っていたMさん。

60年来の母の親友です。

 

数年前、

母との再会で、

母を抱きしめて下さったMさんは

まだご存命でホームで暮らしていらっしゃった。

ただお身体や認知の状態はわからない。

ホームに電話をして、

唐突にMさんを呼びだしてもらい、

母の訃報を伝えてよいものかどうかが

わからない。

これはご家族に許可を得るか、

あるいはお家族から伝えてもらった方が

良いと思い、

ホームの方に事情を説明し、

娘さんのA子ちゃんと連絡したい旨を

お伝えしました。

そしてホーム経由で、

折り返しかかってきたA子ちゃんからの電話。

 

「私の母は、もうずっと前から

認知症の症状が出てるんです。

貴女のお母さんの訃報を伝えても、

多分、もう誰の事かわからないだろうし、

自分も仕事をもってるので、

母をホームから連れ出してまで

そちらに連れていく時間がないんです。

ご連絡いただいた事は有難いですけど、

母に伝える事は出来ません。

伝えたところで意味がないと思うので。」

という、そっけないお返事でした。

 

私より2つ年上のA子ちゃん。

子供の頃から知ってる。

仲が良くなる事が無かった幼馴染み。

そう、A子ちゃんは、こんな子だった。

優しい所がひとつもなくて、

自分と同い年の私の姉を標的にして、

いつもイジメてた。

 

Mさんから聞く話から、

大人になったA子ちゃんは、

『薄情』という言葉が

似合う人になったと思う話が

幾つもありました。

 

いつの時だったか、

母親のMさんがお孫さんに言った冗談に、

後日電話がかかってきて、

「私の夫の前で、

冗談でも同居したいなんて言わないで!」

と泣きながら、

母親に電話をかけてくる娘さんだった。

 

A子ちゃんは、自分の母親が私の母と

60年来の親友として友情を育んできた事も

ご存知でないのかもしれませんが、

せめて、母親に一言電話で、

訃報を伝えるだけでも

してあげてもよいのでは…

と思ったものです。

知る権利を邪魔する権利は、

誰にだって与えられていないはず…。

 

<姉夫婦自宅に到着>

時間は過ぎ、夕方になって

姉夫婦が岡山から車で到着しました。

夕食が弁当である事を詫びつつ、

母の部屋に通し、

明日に備えてゆっくり休んで頂きました。

 

<通夜の挨拶状を作成>

このあたりから、

私のLINEに次々に返信が。

母が最もお世話になった訪問介護の方々が、

明日、仕事を終えたあと、

所長様とともに、

全員お通夜にご参列してくださるという内容に

胸が詰まってしまいました。

 

そして夜の21時を過ぎた頃、

私にはまだ仕事が残っていました。

葬儀社から頼まれていた、

お通夜での挨拶状の作成です。

しかしパソコンのWordを前に、

まったく頭が回らない。

言葉が出てこないのです。

葬儀社が見本として渡してくれた

例文もありましたが、

自分の言葉で一から作りたかった。

 

それでも何とか文面を作るために、

母の画像や動画を再生しつつ、

ひとつひとつを振り返るよう思い返すと、

涙がポタポタと落ちてきて、

その涙が落ちた分だけ、

自分の気持ちが言葉になって、

ぽつりぽつりと浮かんできました。

 

ようやく仕上げて印刷できたのは、

日をまたいだ午前2時を過ぎた頃でした。

 

夜が明けたらお通夜。

喪主は私。

母のお骨を供養塔におさめるまでが

私が母にしてあげれる最後の仕事。

どうか、明日と明後日、

この身体が副作用に負けずに

もちこたえますようにと、

ただただ祈った夜でした。

 

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追記

今日も長文におつきあい頂きまして

ありがとうございました。

何かのご参考になれれば幸いです。

記事、まだ続きます。