その厚い唇を覆うように豊かな髭をたくわえた異国の男性は言った。

「このあと、私の部屋に来ませんか」

 

その晩、子ども達を寝かしつけた私はいつものようにホテルのロビーへ降りてベルボーイたちと軽く冗談を交わした後にお決まりのバーへ向かい、お決まりの席で本(たしか村上春樹の1Q84だった)の続きを読んでいた。スタッフも慣れたもので、「ああ今日も来たね」と淹れたてのコーヒーを静かにテーブルへ置いて行ってくれる。ここは中国の片田舎、煙台。そこの国際ホテルのスタッフが私のために淹れてくれるコーヒーは、子育てから解放される貴重な時間の傍らにいつもあった。当時の煙台には、あまりコーヒーを飲む習慣がなく、ましてやブラックを好んだ私は始め好奇の目で見られたものだ。あんな苦いものよく飲むな奥さんと。確かに、コーヒーを飲まない人間に淹れてもらうそれは、絵の具の黒をそのまま溶いたように濃く、口の中をいつまでも支配するほどに苦いものであった。

 

そんなコーヒーをすすりながら、次のページをめくろうとしたとき視界の片隅でテーブルに一杯の酒が置かれた。顔を上げるとバーの男の子が、

「あちらのお客様からです」

とドラマの中のようなセリフを口にした。

その向こうでこちらを見て上品に微笑む男性、口元に黒々とした豊かな髭を生やしており、歳の頃40代半ばといったところであろうか、中国人でもなく、欧米人でもなく、もちろん日本人でもない。その褐色の肌は何となく中東とか南米とか、そんなところの出身を想像させた(この瞬間私の頭の中にはユーミンの『時のないホテル』が流れ出す)。

遠くで目配せをする彼、男性にそんなことをされたことのない私は戸惑った。わ、わたし?わたしか??これは何かの間違いだろうと後ろを振り返るも私以外に該当する人物は見つからなかった。スタッフに聞くと彼もこのホテルの宿泊者だという。「気のいい紳士だから話をしてきたらいい」と。

話をして来いっつったって何話せばいいのやら。私にはいま、子育ての話しかできないのだが、あちらでほほ笑む彼にとうてい共通の話題があるとも思えず、気分はすこぶる乗らなかった。

「ごちそうしてもらったのだから早く行け」とスタッフに追い立てられ(←余計なおせっかい)、私はしぶしぶその紳士の元へ。先ほどは気づかなかったが、隣に友人と思わしき白髪交じりの男性も座っていた。

 

「やあ、あなたはたまにここで本を読んでいますね?」

「はい、一番落ち着くもので」

「あなたは日本人?」

「はい、越してきて一年半になります」

「ぼくは、チャーリー。

メキシコから来たんだ、よろしく。

中国は、気に入ったかい?」

「そうですね、イメージと違いましたね。

人が優しい」

「ぼくもそう思うよ、奇遇だね」

 

となんともいい感じの会話のように聞こえるが、実はこの男、英語しかできない。一方私は中国語しかできない。隣の白髪交じりの男性が英⇔中の通訳に入って進むという、なんとも回りくどい国際交流が始まった。まあ、向こうもこっちがまったく英語を喋れないという事なんて想像せずに一杯の酒を贈ったに違いない。たいそうがっかりだったことだろう、いっそこのまま解放してくれと腹の中では願いながら彼の質問に答えていった。

 

「日本語を教えてくれないかい?

サンキューって何ていうの?」

「あ、ありがとう です」

「アェイリグゥアドォウ?」

(やたら毒々しい言語になる)

 

「グッバイは?」

「さようなら」

「サヨナラー」(と思いきや、やたらかるい)

 

「じゃあ、アイラブユーは?」

「あー、あー…あいしてる」

「アィストゥルー」(もはや通じない)

 

なんだこの会話。

 

帰りたいにも帰れず、私はしばしトイレに逃げ込むことにした。そして個室から中国人の友人に電話をして、どうやったら失礼にならずに逃げられるかのアドバイスを求めた。

「ばっかおめー、それ変態オヤジじゃね?

逃げろ、いますぐ逃げろ。振り向かずに逃げろ!!」

とまで言ったかは定かでないが、私はとにかく逃げる決心をした。婦人トイレの出口からバーの様子が垣間見える。チャーリーは白髪の男性となにやら楽しげに話をしている、もしかしたらあの女を手ごめにしてやる計画でも立てているのかもしれない(←被害妄想)。その様子を壁に張りつきながら慎重にうかがう私はまるで、映画チャーリーズ・エンジェルの主演キャメロン・ディアスのようであった。

 

 

さぁ、いまだ!!

と思った次の瞬間思い出す。本を忘れてきたことに!!私の1Q84!!オーマイガー!!!

 

ちーん。。。

 

テーブルへ戻ると向かいにいたはずのチャーリーは、驚くことに私の席の隣に移動していた。あぁ、これがナンパなのか、これが「ロックオン」というものなのか。要らぬ気を利かせたのか、白髪の男性の姿もなかった。通訳がいなくなったいま、彼と何語で話せというのだ。イエス!我ら地球人とかいった呑気な国際交流ではなくなってきたというわけだ。

 

―さて、ここからは私の憶測の会話となる―

「日本女性の髪って、きれいだね」

(と私に顔を寄せる)

「あーいやー、そんなことないっすー。

産後で抜け毛激しくってー

←ボデーラングェッジで

「ハゲ」を強調するなんともマヌケな私

 

「そんなことない。肌もとってもきれいだ」

(チャーリー、酔った頬に触れようとする)

「いやー、子ども生んでから

バリバリのサメ肌っすー

スタッフー!スタッフー!やっぱ辞書持って来てー

もうダメだ!!にげろ、にげるんだ みんみん!

 

「…僕の部屋に、来ないかい?」

ガーーーーーン!!!!

 

 

 

好きでもない男に熱い視線で手を握られるという今世紀最大の絶望が襲った次の瞬間、

バーのスタッフが小さな声を上げる。

「老公来了!!

ハズバンド、ハズバンド

(あ!旦那さんだっ!!)」

なにも知らない夫がタバコを吸いにロビーへ降りて来たのだ。

瞬時に私の手を迷惑そうに振りほどき(あんたが握ったんだよね?)、電車に乗り遅れた日本のサラリーマンのような知らんぷんという態度をとった、チャーリーであった。

 

 

…翌朝ロビーで遠めに偶然顔を合わせた彼は、何もかもまるでなかったかのように屈託なく笑った。それから私はまたいつものように、中国人スタッフにまずいコーヒーを注文する。あれから六年、完全帰任した今も時おりチャーリーが浮かぶ。もし、私が中国に渡らなかったら、こんなしがない主婦にあんな経験を与えてくれた人はいたのだろうか、と思ったりする。そしてこの出来事が私に残したものは、酒を贈って来た男が皆、ドラマのようにいい男であるとは限らない気づき。そしてスーパーマリオを見るとチャーリーを思い出すという、擦り込み。←似てたんかい