人は言語の獲得と共にESP感覚、魂感覚を忘れてしまいます。左脳優位に変化してゆきます。

 

幼子が、小さな生き物が 無心に 今生きていることの喜びを表現する。

ただ自分を生きる姿こそ 癒しそのもの。

誰にも認められず、愛でられもせず 命を寿ぐ様は癒しそのもの。

 

愛とは何か?の問いへの答えが「命」と聞きました。その意味がよくわかる気がします。

 

これが安心立命の一つの姿かもしれません。

宇宙と響きあい 内の自然の意志のままに芽吹き 命を輝かす。

ありのまま自然のままで宇宙と響きあう故、自然は美しいのでしょうか。

 

 

 

人間は優劣で 様々なことを評価します。

優の字は 人が憂うと書いて優れている、優しいと読み 劣の字は少ない力、力まない、ありのまま・・・それなのに劣ると読む。

優の字は大人イメージ、劣の字は子どもイメージ

人間は優を求め、劣を軽んじる。

裸の自分を恥じ ありのままの在り方を蔑む。

だから自然を失ったのでしょうか?幼子の持つ無条件の愛と信頼を失ったのでしょうか?

聖書はその姿を「死」と呼びます。

自分を守る鎧を脱ぎましょう。勝手にラベリングされたパーソナリティ(仮面・社会的アイディンティティ)から自由になりましょう。

ありのまま。自然を取り戻しましょう。

 

創世記第 3 章

1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も・・であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、

3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。

4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。

5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。

6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。

10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

 

 

「幸せも・苦しみも自分の選択だ」と言えば どのように思われるでしょうか?。

「可愛い子には旅をさせろ、」「若い頃の苦しみは買ってでもしろ」ってお聞きになったことありますよね。本当に 苦しみは買う価値があるのでしょうか?

苦しみって何でしょう?

自分が作り出していると言ったらどのように思われますか?

卑近な例で説明しますと のどが渇いて 水を探すとします。コップに半分の量が入った水が見つかりました。これを観て「半分しかない」は苦しみを選択することにり「半分もあるは」楽しみを選択することになります。

でき事は受け取る自分の選択次第で 苦・楽が決まると言えます。(価値は自分が決めるものとも言えます。)苦楽表裏一体です。

であれば 人生・自由自在なはずです。

 

 

このことを人間関係の原型とも言える親子関係で見てみたいと思います。

幼い頃 母を無くするとします。 こんなこと誰でも起こって欲しくないことですよね。

殆どの人にとって苦しみです。

幼い時に目の前で母を交通事故で亡くし 哀れな子として生き、40歳を過ぎても閉じこもったままの男性を知っています。

亡くなった母に執着し 父の愛も、新しい母の愛も受け取る意志を持たないで被害者として生き続けてきました。

また 死産をした女性が 亡くなった子以外の 健康に生まれた子どもを愛することができず育児放棄せずにはおれないケースを幾例も知っています。

多くの場合 母としての自責の念が 亡くなった子への執着心に繋がります。執着心は過去に生きる在り方と言えます。

二例とも 自分の期待を裏切る出来事に圧倒され、 つまり自分の願いに執着し 苦の裏にある楽を知ることができず 苦しみの情に溺れています。

 

 

母を亡くした幼子の苦しみはどのように楽に転じられるのでしょうか?

母を亡くした故に 身辺自立を早くできた。それ故に愛の大切さを知るものとなった。それ故に人の痛みを理解できるものとなった。

人が憂うと書いて優の字になります。優しい、優れていると読みます。苦が楽に転じられると 慈悲が培われ始めることがよく分ります。

死産をした女性は 失ったものに執着しないで「足るを知る」知恵があれば育てる責任のある愛子を 愛し育む喜びを得ることができたはずです。

子育てを通して慈悲育てをする恵みを得たはずです

 

 

私も長男の出産は難産で 生れてはじめて救急車で病院に運ばれ 医師からは母子ともども命の保証はできないと宣言され 一晩中 押し寄せる陣痛に苦しみぬきました。

ようやく生まれた愛子に「よく生まれてきたね」と心からの感謝と喜びを伝えずにはおれませんでした。これも苦楽表裏一体です。

 

 

それはさておき 苦しみは買うほどに 価値があるとまで言えるのでしょうか?

みなさんは筋肉トレーニングを知っていらっしゃいますね?

使うほどに筋肉は強くなります。

楽をして身体を動かさなければ 身体の機能は停滞し、遂には使わない機能は失われてしまいます。楽の裏の苦しみを示唆します。

転ばぬ先の杖を用意する子育てに警鐘が鳴らされています。過保護過干渉な大人が 子どもが失敗から学ぶチャンスを奪い取り、ストレスに弱い 軟弱な子ども 新型鬱の予備軍育てをしているからです。

子どものために心を砕いて 慈悲を注いでいるかのような錯覚を持ち、ありのままの子どもを尊重しないで 自分の枠にはめようとするからです。

そのような関わりからは真楽は生まれません。

一方子どもは 親の関心を貪るために 相手の期待先取りで 頑張ります。

いい子が危ないと言われてきた所以です。

いい子とは普通周りの大人にとって都合のいい子を指します。楽の裏の苦に警鐘が鳴らされているとも言えます。

ネグレクトも溺愛も 愛の誤用 誤った愛 誤った楽の追及 つまり アブ(否定の接頭語)・ユース=アビューズ、虐待です。

現在を生きて 要約 楽は訪れます。真実の楽を模索する 親子関係こそ 四無量心への誘いとなるのではないでしょうか?