理事長の部屋

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当院の事について更新していきます。

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まず、事務長が名乗りを上げてくれました。彼は製薬会社の営業(MR)をして旭川に勤務していましたが、会社合併を機に退職して事務長にチャレンジしたいとの申し入れをしてくれました。営業職として食事などをともにしたことがある人でしたし、早速お願いしました。総婦長は以前ちょっとした機会に挨拶を交わしたことのある方に声をかけてみました。その方は急性期病院の病棟婦長を経験され、当時は老人病院の病棟婦長として活躍されていました。私からの突然の電話で戸惑った様子でしたが、とりあえず食事をしながら話を聞いてくれるということで、早速札幌で会いました。私は自分の老人医療への思いを率直に話ました。そのうち、その方も高い理想を持って老人医療に取り組んでいることを話しはじめられ、なんとなく意気投合し始めました。私はほぼ初対面にもかかわらず、感触がよかったので、内心ほっとしました。ほどなく、了解の返事をいただき、急展開でトップの人事が決まりました。いまから思うと、なんと唐突な申し入れをしたのかと思い赤面の至りですが、こちらも必死でしたのでその思いが伝わってくれたのかとも思います。
私は平成8年の5月ぐらいまで、旭川の病院長の仕事がありましたので、製薬会社を先に退職した事務長と総婦長のふたりでとりあえず開設準備室を始めることになりました。
4月に開設準備室がスタート。事務長、総婦長、管理栄養士、それに事務のアルバイトの女性、そして私で開始しました。事務所は賃貸物件のもと事務室を使いました。机なども最低限のものではじめたのを憶えています。

 銀行融資については、準備室が始まっても不確定な要素がありました。そのため、内部の改装に着手できない状態のまま、4月が過ぎました。融資の問題点は、まず担保がないこと、また私にとっては全くの新規事業であること。さらに、連帯保証などのあてが全くなかったことなどでしょうか。開院して、また移転してからよく聞かれることですが、私にはいわゆるスポンサーはありません。大学の同門会でも、スポンサーは誰なんだ?と先輩医師に聞かれましたが、誰もいないわけですから、そう答えるとみな不思議な顔をしていました。私はそこで、こんな事業をするには何らかの後援者がいるものなのだと、世間の常識を学んだ気持ちでした。私にとって後援者は、銀行でありそれまでいろいろなお手伝いをしてくれた関係者でありました。さらに今は、患者様やそのご家族が私の後援者だと思っております。
 
 銀行の融資もさまざまな経緯がありましが、5月のはじめには、ついに改築工事が本格的に始まりました。
 
 これからの経緯は南小樽病院の歴史になります。「私の歩んだ老人医療」は今回をもちましてひとまず終了させていただきます。長い間、冗長な文章にお付き合いいただきまして、感謝の念にたえません。
 今後このコラムは、南小樽病院の歴史や日々の雑感などを中心に書き続けます。これからも、よろしくお願いします。
2004/12/07(Tue)
平成4年に始まった私の病院設立の動きは、2年経っても具体的なことになってきません。その理由は、賃貸するはずの建物で運営している専門病院の新築移転が決まらなかったためです。ある日、オーナーと建設会社、さらにプランニング会社の担当者が一同に集まり経過の報告会がありました。その中で、新築移転の見通しが立たないこと、そのために私の病院計画を実現できないことがオーナーから告げられました。早く言えば、あきらめてほしいということです。私は、旭川の病院の院長を任せるからそのままいてほしい旨も告げられ、言葉に詰まりました。はじめから、その病院に長期間勤務する気は持っていません。付き添いの病院からケアミックスに変更し、収入も十分上げられる体制にしたところで、私の役割は終わっていたと思っていました。自分の目指す老人医療を実現することが望みでしたし、たくさんの夢を抱いていました。しばらく考えて、このまま勤務することは出来ないと思い、他の可能性を考え始めました。いくつかの病院の院長職を紹介されたり、見学もしました。しかし、雇われでいる限り自分の理想を追求できないことがしみじみ分かりました。

 平成7年になって、賃貸物件の病院の移転新築が決まりました。しかしすでに、私はそこでの開業をあきらめていましたから、ある町立診療所の院長になる気でいました。それは不動産を町が抱え、運営を私に任せる、いわゆる“委託診療”と呼ばれる仕組みのものでした。病院への夢はありましたが、現実問題として困難が多いという気持ちになってきていた私は、都会から離れ町医者として生きていくのもひとつの道かと思い、話を進めていました。町長ともお会いしお互い意気投合して、かなりの部分で具体的な話が煮詰まっていました。町議会にも私の名前が出て、新聞記事にもなりました。しかし、最後の条件の交渉で首をかしげるようなことを、町側は言い出しました。それをはじめから言われたら、私は交渉もしなかったと思います。しかし、話は最終段階まで進んでいました。ここで断れば多くの方の迷惑になると思い、自分なりに悩みました。しかし、一度芽生えた不信感はなかなか解消できず、結局その話を断りました。町は大慌てで私に再度の条件提示を含め、翻意してくれるよう求めました。私は、町に混乱を招きたくなかったため、手を尽くして代わりの医師を見つけました。町に謝罪文を提出し、なんとか話を収めました。今でも、当時の町長さんに対しては申し訳なく思っています。
 
 そんな中に、小樽での開業の可能性が再び見えてきたのです。私は、これを逃すとチャンスはもう巡って来ないと思い、全力で開業に向け動き始めました。平成4年頃に声をかけていたスタッフは、すでに他の職場で活躍しています。時間が開きすぎていました。平成8年を迎えても、事務長も総婦長も決まっていません。この二つのポジションが埋まらないことには、どこから手をつけてよいかわかりません。かろうじて、管理栄養士のいい人材は確保できました。かつて一緒に働いていたよしみで開業に賛成してくれました。
2004/07/13(Tue)
ケアミックスへの移行は無事認可を受けました。その結果、収入が大幅にアップしたことは事実です。また、同時にいわゆる“お世話料”も徴収することにしました。このお世話料というものは、老人病院によく見られるもので、十分な人手を確保して良質な介護を提供するには、診療報酬ではまかないきれないために発生したものです。診療報酬は全国一律(地域加算というものはありますが、わずかなものです)です。しかし土地代や人件費は地域格差が大きいものです。したがって、都会になればなるほど収入が相対的に不足します。また、患者様の中には多少お金が多くかかってもかまわないから、入院させてほしいという要求もあります。旭川の病院でもお世話料の負担のために退院した患者様はほとんどいませんでした。お世話料は、保険外負担金というように言い換えられています。それは、テレビ、冷蔵庫、電話などの使用料という名目になってはいますが、おおむね一律であり医療機関の経営になくてはならない収入になっています。

 医療病棟では、寝たきりの患者様がほとんどを占めており、経鼻栄養と中心静脈栄養を合わせるとおよそ8割になっていたと思います。肺炎をはじめとする感染症と褥瘡(床ずれ)の管理が一日の仕事の大半でした。抗生物質の投与と点滴内容の変更や検討、採血やレントゲン検査の指示を一通りだし、その合間をぬって外来を診ていました。
 
 医療病棟は出来高制なので、薬剤の使用量もかなりに上っていました。当時は薬価差益が10%以上ありましたので、薬品メーカーや問屋との交渉も仕事のうちでした。メーカーのセールスマンはプロパーと呼ばれていた時代で、途中からMRと呼び名が変わっていた頃でした。問屋の担当者もMSと呼ぶようになりました。MRから頼まれて月末に多くの薬剤を購入したり、薬価差益のある薬剤を優先的に使用したり、食事の接待を受けたりと、ずいぶん社会勉強させてもらいました。彼らは私が旭川を離れるときには、お別れの食事会を企画してくれたりしました。無論、このようなお付き合いの是非はあるでしょうが、私にとっては薬品メーカーや問屋のあり方を学ぶいい機会でした。院長という立場は、諸々の決定権を一手に握っているため、それを自分の利益や快楽のために使うか、そうしないかは個人のモラルが問われるところです。今の私はこのような接待はすべてお断りしていますし、またメーカーもそんなことに当時のようにお金をかけていられる時代ではなくなってきています。老人医療に出来高制がなくなり、定額の診療報酬になったため、薬剤使用量も驚くほど減少しています。かといって、患者様の状態が過去に比べ悪化していることも見られません。あの頃大量に使用していた薬剤は、結局必要以上だったのでしょうか。そうかもしれません。ただ言える事は、そのような治療をした自分を振り返ったうえで、今の自分の診療スタイルがあるということです。大量の第3世代抗生物質の使用がMRSAの蔓延を招いたことも事実です。その片棒を担いでいた私の反省の上に立ち、今の病院を運営しています。
2004/07/06(Tue)