由緒について

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美奈宜神社は神功皇后摂政2年(202年)に創立され、素戔嗚尊(祇園神)大己貴命(大黒神)事代主命(恵比須神)の出雲三神をお祭りしてあり、国家の安泰と氏子並に崇敬者の方々の無事息災を祈願し続けてきた古い伝統と格式を持つ神社であります。
奈良朝時代、天下に事ある時、国内の著名な神社に勅使が参向して祈願する神社が当時全国で204社(祭神数285座)ありました。
續日本紀によりますと、天平2年(730年)9月渤海の王が奈良の朝廷に進物を献上したので、翌月10月に名神祭が行われその進物の一部を各神社に献納されました。九州本土では下記の12の神社が進物の献納を受け名神祭に預かっています。
筑前国 宗像神社 住吉神社 八幡神社 志賀海神社 美奈宜神社 筑紫神社 竃戸神社(7社)
筑後国 髙良玉垂命神社 豊比賣神社(2社)
肥前国 田島坐神社(1社)
肥後国 健盤龍命神社(現在の阿蘇神社) 1社
豊前国 八幡比賣神社(現在の宇佐神宮) 1社
この12神社だけが名神祭が行われる度に勅使や国司が勅命を奉じて参向した神社で豊後国日向国薩摩国4カ国(鹿児島県宮崎県)には名神祭に名を連ねた神社は1社もありませんでした。前記のように美奈宜神社は奈良時代、平安時代に名神祭の栄誉を受けた神社です。
三代実録によりますと清和天皇貞観元年(859年)正月27日筑前国従五位の下美奈宜神社従五位上の授位が行われた事が登録されています。
延長5年(927年)に朝廷により定められた延喜式では美奈宜神社は式内大社に列せられ明神帳に記載されております。
往古美奈宜神社が九州の著名な神社として国家のいくつもの史書に記載されていたことは、つまり筑後川が古代の人々の生活を支えていてこの川の両岸に古代の集落が発生し、年と共に発展して行きこの川が九州を横断する主たルートであり、この川畔に祭られた美奈宜神社が両岸の多数の群落の人々はもちろん、多くの旅人からも厚い崇敬を集めていた事の証左だあるとも言えましょう。
延元三年菊地と小弐の大軍が戦った筑後川水城渡の戦で戦火に遭い、社殿宝物記録類の一切を消失し以来衰退する処となりましたが、永正6年秋月城主秋月伊豫守種時が社殿を再建し神輿及び清道旗を奉納し、神幸行列の先駆として現在まで継続されています。
慶長6年(1601年)黒田長政公の信仰は篤く、社殿の造営があり、下座郡総社と定め
られました。
元禄15年(1702年)には現在のご神門が建築されています。元禄17年(1704年)に現在の石鳥居が建納され、貝原益軒の妻江島氏の筆にて柱の銘が刻まれています。
文政11年(1823年)に大老黒田播磨公により現在ある社殿に改修されています。
明治30年に縣社に昇格し、昭和28年に国家管理を離れ、宗教法人美奈宜神社として現在に至ります。