真実を歌い そして語る

 ここには まぎれもない

 百恵自身が立っている

                    帝国劇場1979年10月1日・2日

 

前回に引き続き

リサイタル【愛が詩にかわる時】音符

 

音楽評論家 伊藤 強さんのリサイタルに寄せたコメント(一部抜粋)

 

何を持ってリサイタルというのかは さだかでないけれど

山口百恵はこれまでに

このような名を冠せたステージをやってこなかったのだという

 

『百恵ちゃん祭り』はあるにしても

彼女が歌手としての力量を問う 舞台を

踏んだことはないという意味であろう

 

そういえば 山口百恵は歌手としての力について 

外側から かまびすしく云々 されたことは あまりない 

 

デビュー当初は少なくとも〈 上手 〉

という評価ではなかった

 

だが そんな 外側の声とはほとんど無関係に

 山口百恵は自分なりの世界を構築してきた

 

彼女の周りには 透明な膜があって 

内側からはよく見えるらしいけれど 

外側からは偏光フィルターの役目を果たす

 

そのことに 山口百恵は気づいていて

それこそ 精一杯 ストレートに自分を投げ出そうとするけれど

 外側からやはり偏光してしまうのだ

 

そして それは 百恵自身にとっても

もどかしいことに違いないけれど

こればかりは誰にも何ともできない 

 

なぜなら 山口百恵はそのように生まれついてしまった人間なのだから 

 

さて その山口百恵が初のリサイタルを開き 

その録音がここに こうして レコードになった

 

ステージに照明がついて ナマ身(に見える )山口百恵がそこにいる 

スモークがかすかにたなびき

 視覚的にも 雰囲気に浸りやすい 

というお膳立ての中で 山口百恵は歌い始めた

 

【 マホガニー ・モーニング 】

人生の終結 を間近に控えた黒人の老人がそこにいる 

それなのに 朝だ

 

このパラドックスに満ちた歌を 

山口百恵はサラリと

しかも的確に歌って リサイタルの幕開けである

 

いかな  山口百恵と言っても多少は緊張したりアガったりするだろう

 

 平常  目の前にいる ファンたちを

まるで存在しないかのように 

(いや 本当は彼女にとって 《そこ》には存在しないのに違いない)

 ひたすら自分の世界を作り上げていく

 

彼女がチラリと  それは本当にナマ身を見せたりする

手探りで一つ一つの感触を確かめながら一歩一歩進んでいく 

 

先ほど書いたことは矛盾するけど

あの 帝劇のステージへの山口百恵はどこか頼りなさげ で

できれば手を差し伸べてやりたいとさえ思わせるところがあった

 

 しかしこれだけは

 歌手として 彼女のプライドのために付け加えておくけれど

 

山口百恵は一歩も引かなかった

 

手探りのもたらす ある種 のぎこちなさはあったにしても 

一つ一つ踏み出したステップ は

しっかりとその足場を確保していたのだった

 

歌手は 三分間のドラマを演出し 具現化する

山口百恵はそれが本職である 

 

「これが今の私の心情に一番近いのです 」と前置きして歌った

【 夜へ 】そして【 曼珠沙華】を含め

 一つ一つの歌はすでに手の内 と言っていい

 

だがあの二日間  

山口百恵は帝劇のステージで

歌手 山口百恵を演出し 具現化しなければならなかった 

そこに彼女の戸惑いがあったのかもしれない

 

 周りにある透明な膜を出たり入ったりしながら

彼女は [山口百恵って一体何なのか]

自らに問い続けていたのではないかと思う 

 

歌っている 山口百恵がいる 

しゃべっている 山口百恵がいる 

そしてそれを見ている 山口百恵がいる 

 

その中で

時に飛翔し 時にうずくまり 時にしっかりと 群衆を見据え

あるいはもっと遠くの 彼女自身の涅槃を見ていたに違いない 

 

つまり あの リサイタルで

彼女は確かに 歌手である 山口百恵とそれを支えている

もっと別の山口百恵も 同時に見せてしまったのだ 

 

さまざまに異論があるかもしれない が

1979年において 歌手 山口百恵は 完成品に近い

 

だから三分のドラマを演じる人として 

我々はその裏側を覗くことは ほとんど不可能だと言ってもいい

 

だが 1979年9月のリサイタルで

山口百恵 チラリとその裏側も見せたのだ

そしてそのことはこれから先ありえないだろ 

 

なぜならば 彼女は もう リサイタルを経験してしまった

自らに 山口百恵を問い続けていた彼女は 

再び 人前でそれを繰り返しはしないだろう 

 

もしそのような必要があるとすれば

 

彼女は 透明に見える 膜の中で一瞬 ダミーとすり替わり

人々の目に触れないところへ転位した上で 

自らを問うというやり方をするだろう 

 

さて 結論 

つまり ここに収められている山口百恵の歌は

 

どんなに 同じ条件を設定しても

 二度とはあり得ないものなのである 

 

完成期に向かった 歌手が

チラリと見せた ブラックボックスの中身がここにある 歌だ

 

そのことの 貴重さは

平常の山口百恵の歌に一度でも耳を傾けたことがある人々ならば

十分にわかってもらえるはずである (終)

 

伊藤さんの文章の中には難解な部分がありますはてなマーク

観念的表現で百恵ちゃんを捉えているところはアセアセ

【山口百恵は菩薩である】の著者

平岡正明さん似ているのかも!?

 

百恵ちゃんのセルフプロデュース能力に優れていることビックリマーク

 

二度とはあり得ない 歌の世界を創り出せる音譜

唯一無二の存在であることは共感できますね拍手

 

数曲 唄い終わった後にカラオケ

客席から「百恵ちゃん」と声がかけられた時ニコニコ

思わず「ホッとしますね」と発した百恵ちゃん照れ

よっぽど緊張していたんですねウインク

 

20歳の百恵ちゃんの星

無限の可能性と

無限の愛を 

感じて下さい飛び出すハート 

 

ここからはKIDさんのブログ記事を紹介します

投稿は2013年1月11日

 

山口百恵リサイタル -愛が詩にかわる時-のCDが三日前に届いてから

毎日1度は聴いています(笑い)
 

このアルバムのMCで愛について語っている場面があります

 

最近愛について色々な質問の中で

一つ心にずしっと響く質問があったそうです

 『あなたは愛の為に死ねますか?』 

 

この質問に対して百恵さんは『死ねます』と答えたそうです

 

愛の為というより愛する人の為なら死ぬ事が出来ると・・・
 

この帝劇でのコンサートが終わって、

次の大阪公演の舞台で恋人宣言、

その後に続く婚約引退宣言・・・

歌手であり女優である山口百恵は死を選んだんですね

 

愛する人の為に華やかな世界を捨てて女に戻ったんだと思います。
 

『死ねます』と言う言葉は

 

肉体的な死を意味するのではなく

芸能界から消えてしまうという事だったんです。

華やかなドレスの世界から割烹着の似合う女房として家庭を選んだですね。
 

最後の方で百恵さんは言います

 

皆さんに約束します、私は正直に生きて行きます。 

そんな私の歌を出来ればみなさんにも 

ずっと聴いて頂きたいて思います。』
 

~KIDさんもリサイタルに関して

書きたいことがありすぎて・・・ドキドキ

PARTⅡを投稿していますねリボン

 

KIDさんの言葉にはハート

「百恵ちゃん愛を感じます愛