「南アラビア首長連邦」成立(下―2)

     南イエメンの共和制以前  西アデン保護国時代(3)

キーワード:

南イエメンの近代  「南アラビア首長連邦」   英国保護領時代

西アデン保護国時代    東アデン保護国時代

11.ダスィーナ首長国   12.ラヘジュ・スルターン国  「アブダリー首長国」

イタリア人冒険家ヴァルテマのラヘジュの記述

13.ムフラヒー首長国   14. ファドリーFadlii首長国

15.ハウシャビー・スルターン国   16.シャイーブ(シュアイブ)首長国

17下ヤーフィウ・スルターン国

                

 

本ブログでは「南アラビア首長国連邦」に参加した17の首長国のうち、前回に続き3回目で11番目の「ダスィーナ首長国」から最後の17番目の「下ヤーフィウ・スルターン国」までの概要を述べる。

 

「南アラビア首長国連邦」はすでに1937年から存在した英国の影響下にある「西アデン保護領」の土侯国たちを主体に築かれたものである。首長国の代表は定期的にラヘジュにあるマジュリス「連邦議会」に集まり、アデン総督の英国弁務官が議長となって案件を議論した。

連邦議会の初代議長はアデン総督府の高官スチュワート・ヘンリーStewart Henry Perowne  (b. 1901 - d. 1989)であった。そして1967年共和革命があって、首長国連邦が解体される時の最後の議長を務めたのがロビン・ヤングRobin G.E. Young (b. 1926 - d. 1990)であった。               

 

下図は前回も掲載した「南アラビア首長国連邦」を構成する17首長国図である。なお向かって右図の番号に沿って、各首長国の概要を述べてゆく。おおよそはABC順になっている。今回は11番目の首長国からである。左図では首長国は図の中に直接書き込まれている。

東方のハドラマウト地域は「東アデン保護国」を形成して別の色で示されている。中にポツンと上ヤーフィウ首長国だけは色が「東アデン保護国」と同じ色になっているが、同国は周囲の国と異なり、そちらに加盟したからである。

 

 

11.ダスィーナ首長国 

             the Dathina Sheikhdom、(亜)Mashyakhat Dathīnah

ダスィーナ首長国の位置は、北西は4のアウザリー首長国、南西は14のファドリーFadlii首長国、東北は5の上アウラキー・スルターン国、東南は7の下アウラキー首長国に囲まれた小国であった。

ダスィーナ首長国は山岳・丘陵地帯にあり、そのため山を越えると、他の部族領になってしまうことが多い。そのためオーレOleh部族連合で成り立ち、いくつもの小部族から成り立つ。また周囲の大部族とも関係を結んでいることが多い。主部族の一つはジャービルJaabir族であり、首都に居を構えていた。多くは農民である。ジャービル族は同名でハドラマウトとオマーンに有力部族がおり、その関係も明らかではない。

 

その首都ムーディヤMuudiyahは幹線上にあり、西にバイダーウ、南に海港シュクラ、西にハドラマウト方面のアタクに通じていた。後背の丘陵地からワーディー・アフワルが東に流れてゆき、アフワル港の海に至る。

20世紀初頭、英国との接触があり、同盟関係を結んだ。1947年アデン保護国の一つになり、「ダスィーナ首長国」the Dathina Sheikhdom、Mashyakhat Dathīnahとして成立。その時からマジュリス(首長国議会)に参加している。首長はシャイフの称号で、初代はシャイフ・フサインShaykh al-Husayn ibn Mansuur al-Jaabirii であった。 しかし絶えず上ヤーフィイースルタン国から圧迫を受けており、独立の維持のためには時には奉納金を差し出すこともあった。上ヤーフィイースルタン国から完全に自立したのは、1963年に至ってからである。

そして1959年の「南アラビア首長国連邦」の結成にも参加して、独立国として他の諸部族から認められる。また63年の「南アラビア連邦」の結成にも参加した。

しかし1967年の「イエメン民主共和国」の成立に伴い、ダスィーナ首長国は解体され、アビヤーン州に包含されてしまった。最後のシャイフ(首長)は1966年からシャイフを務めていたアブドルカーディル`Abd al-Qadir ibn Shayaal al-Jaabirであった。

 

最近の出来事として、この辺りもまたアウラキー族の地域と隣接しており、過激派カーイダのイエメンの支部と疑われている「アラビア半島のアル・カーイダ」(AQAP)の拠点の一つとして疑われており、2017年3月29日、アメリカ軍のドローン攻撃で、基地が爆撃されて、カーイダのメンバー4人が殺された、と伝えられている。

(Robin Bidwell: Arabian Personalities of the Early Twentieth Century, the Oleander Press (G.B.),1917,pp.274,294、他)

 

 

12.ラヘジュ・スルターン国 

                   the Sultanate of Lahej  (亜)Salṭanat Laḥij

ラヘジュ・スルターン国はアデン及びアクラビー族領の大外を紅海に至るまで取り囲む首長国である。古くからの地域名であり、首都はアデンに近いハウタal-Hawtahであった。アブダリー”Abdalii族が支配していたので「アブダリー首長国」the Sultanate of ”Abdalii, Salṭanat ”Abdaliiと言われることもある。

ラヘジュ・スルターン国は勢力が強いときは、アクラビー首長国のみでなくアデン港もまた支配下に置いた。

アデンの後背地として、土地柄もよく、ココナッツなどの農作物の生産も盛んで、領地では良質な塩および塩分鉱石も産出して栄えていた。砂漠や丘陵地ではラクダや羊の遊牧も行われていた。

 

上図は19世紀の首都ラヘジュの様子。向かって左はラヘジュ首長の宮殿。右はラヘジュの迎賓館。いずれも19世紀末の写真。

 

ラヘジュについてはアデンの近くにあるため、アデンに寄港する外国船の乗員や客人、また西洋にとって未知なアラビア半島内陸部を踏破しようとする探検家などの記録や探検記に記述もみられる。

イタリア人冒険家ヴァルテマは、1502年故郷を出発したあと、アラビアを経て陸路でインドに着き、インド亜大陸の両海岸を探検したあと、ビルマ、マラッカ、スマトラまで探検して冒険記を残している。この中で未知なアラビア半島もさんざんな目にあいながらも、苦渋の旅していた。彼はムスリムに交じってメッカ巡礼まで果たしている。

アデンから内陸部へ入りラヘジのことを次のように記している。

「ラヘジュは、人口の多い地でその肥沃な平地から大量の肉や穀物を生産するが、燃料用の薪が乏しく、デーツは全くなく、またここでは羊毛、絹、多くの果実がされる」と述べている。           R.H.キールナン著岩永博訳「秘境アラビア探検記」P.99

 

ラヘジュ・スルターン国は面積も広く、また人口も多く、武力ではどの部族にも引けを取らなかった。北イエメンの主流であるシーア派ザイド宗は受け入れず、南への関門となっていた。ラヘジュはアデンと北方とを結ぶ産業・流通の結節点として重要な地域であり、1728年には自治権を有しており、1740年には独立国「ラヘジュ・スルターン国」となっていた。

 

英国はアデンを攻略した1839年。この英軍の侵攻に対してラヘジュ・スルターン国は戦った。西洋人に対しても忌避・嫌悪感があった。今でも西欧人やキリスト教徒に対するアラブ世界の一般人の観念でもあった。当時のスルターン・ムフシンMuhsinibn al-Fadl al-`Abdaliは英軍の侵略に対抗して応戦したが、圧倒的武力の差に敗れた。英国との不利な条件での調停と協定を結ばされ、アデン割譲を余儀なくされた。

 

しかしラヘジュの独立国の権威を保ったまま、英国との交渉や協議に対等に渡り合った。

英国と交渉を重ねて、1873年ラヘジュ・スルターン国としてアデン保護領に加わることになる。国主は、ラヘジュ国は大きく勢力があったので、シャイフではなくスルターンを名乗った。 第一次大戦時、1915-18年オスマントルコの侵略を受けるが、時にスルターン`Ali II ibn Ahmad al-`Abdaliは勇敢にたたかったが、戦死して、敗戦となり占領されてしまった。アブダリー一族は英国の守護するアデンに難を逃れた。しかしその後、英国と共に戦いトルコ勢力を追い出すことに成功。

1863年のスエズ運河開通はアデンの重要性を一層増した。英国他外国船の安全航行の役割がアデンに託された。貿易船や商船などが紅海、アデン港、アデン湾の航行安全保障を得る必要があった。アデン英国総領事は、アデンを守るべく「アデン保護国」を周囲に作り、確保に努める。1944年英国との協定でラヘジュ・スルターン国もその一つとなった。北のハウシャビー族、東のファズリー首長国の国境も平和裏に進めた。さらに1959年の「南アラビア首長国連邦」の結成にも、主要国として主導してマジュリス(首長国連邦議会)の首相を務めることが多かった。初代も当時のラヘジュのスルターン・サッイドSultaan Sayyid Muhammad “Alii al-Jifriiであった。

また1962年の「南アラビア連邦」も主導した。

しかし1967年の「イエメン民主共和国」の成立に伴って「ラヘジュ首長国」は消滅した。最後の「ラヘジュ・スルターン国」の首長はファドゥル6世 al-Fadl VI ibn 'Ali al-'Abdaliであった。その年の首長国連邦解体の処理と明け渡しの責任を果たした。

向かって左がラヘジュ首長国の国旗 右の白地が国旗全体の半分を占めるのもある。赤地の中に中心に槍と交差するイエメンのジャンビーヤ短剣を配する。右は1870年代中頃のラヘジュ首長の家族の写真、当時の風俗が表されている。

                                                  (Robin Bidwell pp.61-68,246,他)

 

 

13.ムフラヒー首長国 

the Muflahi Sheikhdom、(亜) Mashyakhat al-Muflahii

マフラヒー首長国は北の国境が北イエメンに接している。西にはDhale首長国、東にはSha’ib首長国、南には上ヤーフィウ首長国に隣接している。南方のヤーファー大連合の五部族の一つであったが、対英政策を巡って意見を異にして、英国に協調して後ろ盾になってもらい、ムフラヒー首長国the Muflahi Sheikhdom、 Mashyakhat al-Muflaḥīとして独立した。

 

英国と接触してアデン保護領の一員となり、59年の「南アラビア首長国連邦」、63年の「南アラビア連邦」に加わった。67年の「イエメン民主共和国」の成立において他の首長国同様、ムフラヒー首長国も廃絶された。最後の首長はカーシムKassim Abdulrahaman Al-Muflihiであった。交易路も無く、また資源も乏しいため、英国の保護を失ってからは、放牧に大々的に頼るか、出稼ぎに出るほか生計の手段が限られてしまった。サウジなどのアラブ諸国に出てゆくか、早期に英国のバーミンガムや米国のデトロイトに移民して集住している、と言われる。

 

 

14. ファドリーFadlii首長国 

the Sultanate of Fadlii (亜) Salṭanat al-Faḍlii 

ファドリーFadlii族は、アデンから東の海岸部を広く占める一帯を支配した戦闘的部族。15世紀ごろから領国支配をして、アデンがイギリスに支配された後も半ば独立していた。西隣のラヘジ(首長国)とは長年領土問題で、不仲の関係にあった。

20世紀初頭のスルターン・フサインは民衆には不人気であったが、開明的であって、世界情勢に詳しかった。息子Abudullahを皇太子として政治を任せて、1911年には外遊に出かけた。インドのデリーを、1913年にはパレスチナのエルサレムを表敬訪問しているし、またどこかの外遊に出かけると帰り際アデンを訪問することにしていた。

 

こうしたことからファドリー首長国も英国支配に対して、その親密な関係性を維持していた。9つの最初期の首長国の一つとなり、1959年の「南イエメン首長国連邦」を結成。それを主導する基本構成メンバーであった。その時の首長はアブドッラー5世であった。そしてその後の1963年の「南アラビア連邦」の創立にも関わった。この時の首長はその息子アフマド5世であった。首都は当初はファドリー首長の邸宅のある海岸部シュクラShuqrah に置かれたが、アデンにより近い東方の海岸部ジンジバールに移された。

1967年に「南イエメン人民共和国」の成立によって、ファドリー首長国も廃絶となる。最後の首長はアフマド5世の兄弟スルターン・ナーシルSultaan Naasir al-Fadliiであった。

(R.Bidwell 294-95)

 

ファドリー首長国の旗    植物や天国を表す緑を真ん中に持ってきて、上に黒、下に青を配する三色旗。上下の色が反対であれば、天地を表していようが、目立つ黒で国旗の全体像を浮き上がらせる狙いがあったのであろう。中央にイスラムの象徴の月星を白色で入れ込む。図案的にも綺麗な国旗となっている。、

 

 

15.ハウシャビー・スルターン国 

the Haushabi Sultanate、(亜) Salṭanat al-Ḥawāshab

ハウシャビー・スルターン国はラヘジュ首長国の東に接しており、ワーディー・トゥバンWaadii Tubanの流域を領土に持つため、北東に長い領域をもつ。アラビア語の国名のhawaashabはハウシャビ―の複数形であり、ハウシャビ―諸支族の連合国的な意味合いを持つ。

首都はワーディー・トゥバンが貫流するムサイミル Musaymirである。農業が発達しており、それ以外の地では遊牧も生業としている。

 

ハウシャビー一族は、英国とすでに親交を結んでいるにもかかわらず、第一次大戦時、オスマントルコに協力した。異教徒に対するジハードであった。1915年、時のスルターン・アリー・イブン・マーニーは普段は優柔不断であったが、この時ばかりはトルコのアデン攻めに参加して、南方から攻撃している。

 

18世紀ごろ自治的組織を作り、1839年ごろには英国と接触し、協定を結んでいる。第一次大戦時の敵対はあったものの、英国と接触を重ねて、アデン保護領の一員となり、ハウシャビー・スルターン国 the Haushabi Sultanate、 Salṭanat al-Ḥawāshab と正式な国となり、国王はスルターンを名乗った。

1959年の「南アラビア首長国連邦」、63年の「南アラビア連邦」に加わった。

67年の「イエメン民主共和国」の成立において他の首長国同様、ハウシャビー・スルターン国も廃絶された。最後の首長はファイサルFaisal bin Surur Al Haushabi,であった。

(R.Bidwell 265.他)

 

 

16.シャイーブ(シュアイブ)首長国 

the Sheikhdom of Sha”iib、Mashyakhah al-Sha”aib

シャイーブ首長国の方が知られているが、現地ではシュアイブ首長国の方が通っている。北イエメンの国境に接し、カアタバの東方にある。上ヤーフィウと東で接し、領土的にも小さい。首都はアワービルAwaabilである。サクラディーSaqladii部族が主であるが、余り古い詳しい歴史を持たない。1934年ヤーフィウ部族連合から分離して領国支配を始めたものと思われる。

19世紀末英国と接触して、経済的援助も受けアデン保護領の一員となり、59年の「南アラビア首長国連邦」、63年の「南アラビア連邦」に加わった。

67年の「イエメン民主共和国」の成立において他の首長国同様、ムフラヒー首長国も廃絶された。最後の首長はヤフヤー Yahya Mohamed Al-Kholaqi Al-Saqladiであり、共和国政府に従順でなかったのであろう、追放の身となり、1967年サウジに逃れて、2001年ジェッダで死亡している。

(R.Bidwell 265.他)

 

 

17下ヤーフィウ・スルターン国 

the Sultanate of Lower Yaafi” (亜)‎ Salṭanat Yāfi‘ as-Suflaa

下ヤーフィウ・スルターン国はヤーフィウ部族領の下半を占める。ヤーフィウ部族の全域は古代にはヒムヤル王朝(110BC-632AD)が築かれ、古代の最後のイエメン王朝として文化の華を咲かせていた。今に伝わる多くの優雅な伝統はこの王朝から派生している。この伝統あるヤーフィウ族は、また愛称であろうか、祖父の名称であったアフィーフィー族(al-"Afiifii)とも呼ばれることが多い。伝統的には10支族に分かれていたが、その中の半数、5支族が上ヤーフィウ地域にあった。が、遊牧主体であったため、戦闘的で独立不羈の精神が強く、協調性に欠き、不和が絶えず、時の経過とともにさらに多くの支族に分かれていった。ここで述べている「南アラビア首長国連邦」には参加せず、より東部の広大な部族たちの「アデ東アデン保護国」の連合に参加している。

 

「下ヤーフィウ・スルターン国」はカーシム族Banuu Qaasimが主体で、農耕民が多く、性質は戦闘的でなく、温和で従順であった。といってもヤーフィウ族共通で、外国人、英国人に対しては忌避感をもっていた。が、海港ジンジバールを擁しており、海外事情などにも通じていた。信じバールの西北にあるジャアールJa”aarが南の境で、首都もそこに置かれた。またジャアールはかつて、その父祖の名称ともなったアフィーフィー王朝も築かれていた古都である。北方には夏季の宮殿カラal-Qaraがあり、景観が素晴らしいことで知られる。

「下ヤーフィウ地域」は平地が多く、北方から流れ下るワーディー・バナーと北東から流れ下るワーディー・ハッサーンが貫流しており、肥沃な土地で農業が盛んであった。

 

19世紀末から英国との接触があり、1895年協定を結び、(「上ヤーフィウ・スルターン国」は遅れて1903年)にアデン保護領国の一員となり、独立国となった。「下ヤーフィウ・スルターン国」the Sultanate of Lower Yaafi” (亜)‎ Salṭanat Yāfi‘ as-Sufláが成立した。これより遅れて、北方の同族「上ヤーフィウ・スルターン国」the Sultanate of Upper Yaafi” (亜)‎ Salṭanat Yāfi‘ al-A” laaも誕生しているのである。いずれも国王はスルターンを名乗っていた。もっともこれ以前、17世紀には、これらの名称は既に使われており、新たに確認されたに過ぎない。

しかし実際は「上ヤーフィウ・スルターン国」の勢力が強く、勇敢さと遊牧で鍛えられており、独立不羈の傾向が強かった。「下ヤーフィウ・スルターン国」は土壌が豊かであり、農耕民がほとんどで温和で従順であった。そのため「上ヤーフィウ・スルターン国」が下の国王を兼ねることも多かった。遅くとも1930年代まではこうした勢力状況が続いていた。

 

こうした攻勢を一変させたのが英国との対応で、海外に通じている「下ヤーフィウ・スルターン国」の方がうまく取り入り、英国を後ろ盾に独立国となってしまった。

また一方は忌避していた英国との交渉が遅遅としてうまく進行せず、「上ヤーフィウ・スルターン国」はアデン保護国にはなったものの、1959年の「南アラビア首長国連邦」には加わらなかった。一方「下ヤーフィウ・スルターン国」は英国の好条件に従順に従い、英国を盾に「南アラビア首長国連邦」に参加、63年の「南アラビア連邦」にも加わった。

1967年に「南イエメン人民共和国」の成立によって、「ヤーフィウ・スルターン国」も廃絶となる。

最後のスルターンは1958年よりその在位にあったムハンマド・イブン・アイダルースMahmud ibn Aydarus al-Afiifiiであった。        (R.Bidwell 270-72.他)

 

上図向かって左が「下ヤーフィウ・スルターン国」の国旗。向かって右が「上ヤーフィウ・スルターン国の国旗」。同族であるから、国旗も類似している。両者とも赤・緑の二色旗。中央に白色で月星でなく、月(三日月)とイエメンのシンボルであるジャンビッヤ短刀が選ばれて配されている。右の方がジャンビッヤをより大きく、リアルに描き込まれている。

 

 

なお下ヤーフィウ・スルターン国の北方には、冒頭の図で示されてるように「上ヤーフィウ・スルターン国」the Sultanate of Upperr Yaafi”、‎(亜) Salṭanat Yāfi‘ al-A”laaも存在したのであるが、「南アラビア首長国連邦」には参加しなかったので、ここでは割愛する。「東アデン保護国」の個所で触れよう。