無駄は必要だろうか。
それとも無駄はしょせん無駄にすぎないだろうか。
たとえばいまこれはiPodで書いている。
iPodは本来、音楽を聴くための道具であったかもしれないが、
うちのには音楽が一曲も入っていない。
文章を書く道具にされ、ときにタイマーにされたりする。
気の毒といえば気の毒な話である。
その無理がたたっているのか、へそを曲げているのか、
書いていると急に画面が閉じてしまう。
ほぼ毎回そういうことが起こる。
でも、1回起こってしまえばご機嫌がなおり、
淡々と文字を留めていってくれているので、一応安定して使える。
世の中には、書いている途中で突然終了しない道具もたくさんある。
そういうものを使えば、毎回、あ、と驚かなくても済む。
終了されると、いくらか文も消えてしまうので、書き直さなければならない。
スムーズな文章の作成を妨げているから、この不具合は無駄である、
ということもできる。
ところが、消えてしまったからこそ思いつくということが往々にしてあるので、
一概に無駄とも言えない。
ろうそくのロウは、燃えるためにあのようにして固まっているのだけれど、
どうしてもいくらか燃えずに残る。
はじめそれを見て、もったいないなと思った。
ということは、このまま捨ててしまえば無駄になると思ったことになる。
でも、この燃え残りがなかったら
その他大部分のロウは大願成就して燃え尽きられなかったわけで、
その意味では燃え残っていることが必要だったと言える。
ラーメンのスープ、シャープペンの芯、トイレットペーパーの最後のところ、浪人生活。
探してみれば、同じような例はごろごろと転がっている。
このように見てみると、やはり無駄は必要、となりそうだが、
必要なものを無駄と呼ぶのもなんかおかしい。
表で働くものの裏で働くものもいる。
裏があるから表の働きがあるわけで、
両方がなければものごとは動いていかない。
裏も含めて必要であると考えると、必要の円の範囲はどんどん広がっていく。
どこまでいったら円の外に出て無駄に変わるのか、こちらもよくわからない。
必要だ無駄だと考えるのもばかばかしいことかもしれない。
無駄と無駄を合わせたら、必要になることもある。
何の予定も、やるべきこともない、休日の午後に、
ずっと使っていなかったスケッチブックと水彩色鉛筆を出してきて絵を描いた。
必要だ無駄だと、そんなことを思っては、ひりひりとする。