東方不死死 第72章 「女優退場」


 紅魔館3階東側の大部屋には、会議に参加する勇気のない野次馬妖怪が大勢たむろし、異変の成り行きを見守っていた。
 大部屋の東端を間仕切りして区切った細長い小部屋があり、今現在そこが異変の作戦会議室に割り当てられていた。
 紅魔館館内にはこのような細長い小部屋が隣接する中・大部屋がいくつか存在し、その特殊な間取りから催事等の準備、世話をする為の使用人が待機する支度部屋と思われる。
 館内には大規模なパーティーを開ける広い大部屋が幾つも存在しているが、現在の館の主の嗜好に沿わない過剰すぎるほど豪華な規模と内装で、更にそれが複数あるため管理する側としては大変な手間となっている。
 館の間取りや内装が今現在の情勢に相応しくない程豪華な造りになっているのには理由があったが、それを理解するには館の建設当時の情勢にまで遡らなければならない。
 500年前の吸血鬼戦争当時、吸血鬼は各血盟単位で独自に行動しており、戦争に明け暮れる吸血鬼の各血盟の有力貴族らの娯楽と親交、派閥間の駆け引きの場として、各勢力が日替わりで宴会を持ち回りしていた名残で、500年前、この周辺に林立していた貴族の館にはそうした大勢をもてなすための宴会場が館内に複数備えるのが当たり前だったのである。
 それも今は昔。現在の館の主は華美を好まず、会議が滞りなく運ぶ様、機能性と利便性を重視した結果、かつての使用人の控え室を会議室に選んだというわけである。

 大きな部屋の端を間仕切りされた様な細長い支度部屋は、使用人専用の通用口から廊下に出るが、この通路は大広間と繋がる廊下と交わらない、完全な使用人専用の通路で、来賓として招かれた客人の目には絶対に触れる事はない場所だった。
 しかし今、その使用人通路に賓客である2人の強妖怪が、館の全てを切り盛りするメイド長と対峙していた。


 紅魔館の主、レミリア・スカーレットの忠実な僕にして館の全てを取り仕切るメイド長を務める若干16歳の十六夜咲夜は、飾り気のない殺風景な使用人の専用通路の先に伏している八雲紫の元にゆっくりと歩み寄る。
「くっ!」
 咲夜のドッペルゲンガーに首をへし折られるという屈辱を受けた九尾の八雲藍は、命の危機に瀕して生存本能を活性化させると、怒りで溢れる出る妖力と併せて、その力を首の回復に回し、瞬時に身体を動かせる状態に立て直す。こんなことは妖怪の中でも上位の存在にしか出来ない芸当である。

 紫は主要能力であるスキマの力が失われてはいるものの、妖怪としての能力が消失しているわけではない。スキマは無くとも強妖怪として単独で十六夜咲夜に対応出来るはずである。しかし、これまでの度重なるアクシデントで精神的にかなり追い詰められ、更に自らを象徴するスキマ能力の消失がトドメとなって完全に戦意を喪失しており、普段の様な動きを期待することは出来ず、ここは自分が何とかしなければと藍は奮い立つ。

 九尾という最強クラスの妖怪でありながら、主の危機に力が激増する式神の特性をも持っている藍は、紫の危機に凄まじい力が発揮されるはずであった。
 しかし、先日博麗神社で起こった岩老刀事件で暴走し異形化してしまった際に、居合わせた鬼の伊吹萃香によってその異形化を抑えられた際、瀕死に近い手傷を負わされてしまったのである。
 先程、油断して力の源である九尾のうち三尾を咲夜に斬り落とされしまい、力が減衰しているところに更にドッペルゲンガーの追い打ち。紫の危機で上昇したせっかくの力も相殺されてしまい、思ったほどパワーアップが出来ない藍なのである。

 通路の奥に崩れ落ちている紫の行く手を十六夜咲夜と彼女と同じ姿をした謎の存在に遮られて迂闊に手が出せない藍。九尾としての能力制限を解除し最後の力を振り絞って異形化すればこの場を勝利で収める事は可能だろう。しかし、それをやれば内に秘める獣性が前面に押し出され、理性が飛んで無差別に攻撃してしまうので主まで危険にさらしてしまう。この狭い通路でしかも主がそばにいる状況で異形化など到底無理な話しであり、相手はそれを見越した上でここに誘い込んだのだろう。

 九尾相手に単純な力勝負では敵わないと知る十六夜咲夜は、狭い館内で物理的にも立場的にも自由に動けない状況に追い込んだ事に満足し、自分が優位に立っている事を殊更強調するように紫の元にわざと足音を大きく立てて近づいていく。
 伏せていた紫はその音に気付いて上体を上げ、床に崩れたまま両手で身体を支える様にして咲夜の方を向く。
 全てが紅魔館の望む方向に動いている・・・そんな人為的に生み出した様な流れを感じとった紫は、無駄に抗う事を止め相手の出方を窺う受け身の態度を取る。
 相手の行動に一定のベクトルが働く様に事前に根回しをして、自ら望んで行動する様に仕向け、コントロールするのが紫の常套手段で最も得意とするところであり、こちらが逆にコントロールされているとするなら、今は何もしないで相手の出方を見た方が得策である。
 異変の作戦を紅魔館側に打ち明けた際、彼らはこちらの案件を飲み正式に異変に参加する意思表示として、異変の首謀者を公式に認めた。しかし、彼らは他力本願の傀儡に成り下がる事をよしとせず、こちらに従う振りをして主導権を奪おうと虎視眈々とその時を狙っていたという事だろう。
 異変が名実共に紅魔館主導で終わる事はわかっていた。彼らがこちらの手綱で最後まで制御出来るとは思っていなかったし、最後まで手綱を握るつもりもなかった。
 何故なら天狗側に危険な異変の戦犯として吸血鬼討伐の大義名分を売り渡すつもりだったからだ。
 この結果はなるべくしてなったものだが、その過程でこれほどまで自分たちが打ちのめされるのは想定の範囲外だった。そこだけが解せない紫である。

 一時の屈辱を千倍返しの復讐の力に換えてやろうと、心の奥底に暗い炎が灯った紫に対し、十六夜咲夜は意外な行動に出た。
 目の前で片方の膝を折ると、主に傅く様に恭しくその場で首を垂れてみせたのである。これには流石の強妖怪達も予想外で思わず目を丸くした。
「・・・!?」
 まな板の上の鯉、どう料理されるのかと、自虐的に状況を楽しむ境地になっていた紫は、この咲夜の行動の意味が咄嗟に理解出来ず、通路の先に行く手を阻まれている藍と交互に視線を交わしながら、何とかこの行動の意味を探ろうとするも上手くいかず、ある種の恐怖を覚えた紫は気味悪そうに身体を少し引いて咲夜から遠ざかる行動を取る。
 戸惑う妖怪を尻目に右手を胸にあてて、片膝を折って大袈裟な礼をしていた咲夜は少し間を置いてから顔を上げる。
「紅魔館主催の異変が面白くなるのはこれからです。今後は全て我々にお任せ頂き、お二人は観客として我々の演じるショーをお楽しみ下さい。」
 咲夜は表情と口調を和らげ母親とはぐれてぐずる迷子の少女を安心させるように優しく語りかける。しかし、口調とは裏腹に痛烈な主役交代勧告ともとれる発言である。
「私は・・・何時からレミリア・スカーレットの掌の上で踊っていたのかしら・・・。」
 紫は咲夜の言で、単なる力に頼った主導権争いではなく、かなり深い所まで根回しをした計略ではないかと疑う。だとしたら、どこからどこまでが彼らのシナリオなのだろうか?今日は色々ありすぎて流石の紫も思考する気が既に失せていた。
 紫はこの紅魔館に有利な流れに途中から作為的なものを感じ、頭の片隅でそれを考えていたもののレミリアの変化に計画性が感じられず、警戒は警戒のまま確信に変わる事はなく今に至っていた。
「お嬢様は何も知りません。未だに貴女を心強い味方と信じて疑っておりません。」
「え?」
 紫はその言葉を聞いてこれまでのモヤモヤの正体を理解した。紅魔館が一体となって何らかの計画を進めていれば、ボロは未熟なレミリアから出てくると思いこみ、レミリア一人を警戒していれば問題ないと決めつけていたのだ。
 レミリアは事が始まるその時から、指導者としての資質を大きく問われるようなボロを出しまくり、その時点で紅魔館全体をレミリアと一括りにして烏合の集団と結論づけてしまったため、それ以上の突っ込んだ警戒を怠ったのである。
 しかし、彼らは紫の一枚上手を行っていた。主のレミリアがボロを出すと最初から想定し、それをむしろ囮にして密かに事を進行させていたのである。
 紫の犯したミスは、紅魔館がトップのレミリアを中心に彼女の利益の為だけに動く、有能だが融通の利かない無能集団と決めつけていた点である。

 ナイフを右手に構え藍の正面に立って一歩も前に進ませまいと仁王立ちする咲夜のドッペルゲンガーは、この時点で自身の役目が終わったとみて、鮮血の様な真っ赤な瞳を閉じて、そのままつまらなそうに通路の壁にもたれかかり、腕を組んで自分の前を通って構わないと藍に顎で指図する。
 その尊大な態度に憤りを覚える藍ではあったが、ここで問題を大きくする愚を避け、大人しくその前を彼女の一挙手一投足を警戒しながら通り過ぎ、咲夜の背後、時間を止められる前に殺せる間合いに忍び寄る。
 咲夜はその動きを背中で感じ、紫はその様子を視線を動かさずに追いながら話を続けた。

「では、貴女は主に背いて独断で?」
「私は、お嬢様の忠実な僕ではありますが、単に隷属するだけの下僕ではございません。」
 咲夜はそう言って背後にいる九尾の藍に意識を向け、紫という主に仕える藍とレミリアに仕える咲夜は同じであり、主の為に心を砕き、必要があれば叱り、道を誤らない様に導くのが役目と暗に主張する。
「なるほど・・・貴女と、そしてあの魔法使いが黒幕ね?」
 咲夜のこの動きは単独行動ではなく協力者や背後に黒幕がいると勘ぐり、会議の途中、突然存在感を顕したパチュリー・ノーレッジが共犯の主犯格と断定する。しかし、咲夜はそれでは50点だと出来の悪い生徒を諭す様に首を振る。
「私達は今、藤原妹紅の命に従い行動しております。」
「え?妹紅の?ま、まさか!」
 紫はここで、聞いてはならない同盟者の名前を聞き心臓が飛び出る程驚いたが、ふと、これまでの予定の狂いには必ず妹紅が関わっていた事に気付き驚きが戦慄に変わる。

 今回の異変を一つの絵として表現するなら、八雲紫とそれに与する勢力によって吸血鬼が蹂躙される構図が当初の計画のイメージである。
 その完成品のイメージをパズルの様にバラバラにして、異変の進行と同時にもう一度組み立てていく簡単な作業であるはずだった。
 しかし、蓋を開けてみると、異変にキャスティングされた人物のピースがなかなか所定の位置にはまってくれずに、特に妹紅のピースが全くはまらず、レミリアに至っては途中で形や大きさまで極端に変化してしまった。そんな状況にもかかわらず紫は完成品のイメージを忠実に再現しようと子どもの様に無理矢理ピースを押し込んでいたのだ。
 咲夜が言うように妹紅が紅魔館と連帯しているという構図でパズルを組み立てていくと、綺麗にピースがはまっていく。
 その絵の構図は当初の予定とは全く違う、妹紅の手のひらで紅魔館の奏でるリズムに乗って踊り狂う、八雲一家というものだった。

 妹紅の神聖な会議を汚す粗暴な振る舞いと主催者であるレミリアを滅多打ちにした蛮行。更に霊夢や四季映姫、文屋の鴉天狗に働いた狼藉の数々。そして、ひ弱な魔法使いの突然の存在感。レミリアの覚醒と十六夜咲夜の恐るべき成長。風見幽香の単独パフォーマンスにも裏で関わっていたのだろう。これらは全てこちらのではなく、妹紅の計画の一環として意図的に行われていたのだ。
「ええ。藤原妹紅は幻想郷に存在する全ての勢力のそれぞれの企みを巻き込んだ、自らが描いた異変のシナリオを遂行しております。そして、紅魔館はそれを支持し協力しているのです。」
 驚愕のあまり目が泳ぐ紫は、小刻みに震える両手で顔を覆う。そして次の瞬間、咲夜に掴みかかり血走った魔物の様な目でその細い首筋を前後に激しく揺さぶりながら問い始める。
「このまま行けば幻想郷は滅んでしまうわ!妹紅は幻想郷を滅ぼそうとしているの?」
 例え妹紅の計画が自分の計画とは違っていても、結果が同じであれば敢えて責めはしない。しかし、この今の状況、あらゆるスケジュールが圧している現状を見れば明らかに幻想郷を殺しにかかっているとしか受け取れない。
 例え過程に違いがあっても結果が同じならば問題ないと思っていた紫。しかし、自らの描いたシナリオの結末と妹紅の描いたシナリオの結末が一致していない恐れがある事を知り冷静でいられなくなる。
 咲夜は半狂乱となった紫にされるがままに体を前後に揺らされていたが、時間を止めて紫の背後に回る。突然手の中から消えた咲夜を揺さぶる動作を空振りさせた間抜けな妖怪を尻目に、向き直る紫と確殺の間合いから動く気配もなく一瞬で消えた咲夜に驚く藍に、首を横に振って抵抗しても無駄だとおしえる。
「私達、つまり藤原妹紅の未来は幻想郷と共にある・・・とだけ言って置きましょう。実を言うと私にも藤原妹紅が今何をしているのか、これから何をするのか分かりません。ただ、結果幻想郷は滅びないという確信はあります。」
「具体的な事を何も知らずにお前は妹紅の言いなりになっているのか?何という愚か!」
 精神異常者の様になってしまった紫を背後から優しく支えている藍が主に代わって詰問する。
「少なくとも結果として幻想郷が救われるのは間違いないでしょう?」
 何の確証もないのにさも当然の様にいう咲夜。当然納得出来ない藍。
「何故そう言い切れる?」
「そもそも幻想郷を滅ぼしたいのなら、彼女なら何時でもそれが出来たでしょう?」
 今現在外で起こっている不死鳥の転生。結界の外は既に数億度に達しており、神様の助力を得た霊夢の結界が無ければ幻想郷の大地は間違いなく焦土と化している。そして、この力を妹紅は特別な制限も無く自在に行える事であり、そんな力を持っていながら、最近までその存在が知られていなかったのである。
「しかし、ヤツには不死人狩りに対し、少なからず我々やお前達、いや、もっと大勢の妖怪達に恨みがあり、復讐の理由は十二分にあるはず。しかもヤツは妖怪狩りのプロ。さらに向こうでは数十万人を虐殺した穢れに満ちた凶悪な殺人鬼!異変解決と見せかけ皆に期待をさせておいて直前で裏切り、我々を嘲笑いながら復讐と殺戮の欲望を成就させるはず。いや、間違いなく奴はそうするだろう!お前達はヤツの本質を知らないのだ。」
 藍の藤原妹紅に対する怨念にも似た負の感情丸出しの発言を受けた咲夜は、自分達も不死人狩りに一枚噛んでいるだけに、その九尾の言に一理ある事は認めざるを得なかった。永夜異変後の不死人狩りの際には、主レミリアと共に自分もそれに参加しており、更にフランドールも参戦して妹紅を何度も破壊している。つまり、紅魔館も同罪で恨まれて当然、今回味方だと思わせて裏切られるという藍の言葉には説得力がある。
 しかし、吸血鬼戦争まで遡る魅魔と紫の因縁、全ての元凶を断に幻想郷の正常化の為、文字通り身を砕いて己を捨てて動いている妹紅を知る咲夜としては、藍の言葉こそ誤解というものである。藍は人間の心を知らないのだと、先日人間性を取り戻した咲夜が心の中で反論した。
 咲夜は何も知らない藍に敢えて事情の説明はせず、彼女の言葉に一定の理解を示す態度だけを見せ、数秒間目を瞑った後、藍、そして紫に視線を巡らせ、紫が対話出来る状態でないことを確認すると再び藍に向き直り、これまでの会話を一旦切り話題を変えた。

「私は数年前幻想郷入りし、レミリア・スカーレットという生き甲斐を得ました。」
 咲夜が顔を横に曲げ少し遠い目になる。
 急に自分語りを始める咲夜に意表を突かれて文字通り狐につままれた様な顔をする藍。紫も咲夜が話をの切り替え場の空気を換えた事で気持ちが切り替わり、話しに意識を向ける。藍はこのまま相手に主導権を握らせたまま話を聞くべきか困惑するが紫に回復の兆しが現れたのでそのまま聞くことにする。
「幻想郷に来る以前の私は、人殺しの道具として育てられ利用されましたが、何も知らない私にしてみれば食べるのに困らずそこそこ幸福な人生だっといえます。しかし、その最後は無惨なものでした。」
「・・・。」
 咲夜が幻想郷入りした当時は魅魔の統治下にあり当時八雲紫は休眠中であった。そして自分の知らない時代の幻想郷について語ろうとする咲夜に否応なしに興味が湧く紫。
「時間を止められる能力が発覚してから、私は様々な実験のモルモットにされ、人間としての自分はそこで終了していたはずでした。」
 当時は時間を止める能力と自分でも思っていたが、今はその正しい能力の詳細を知っている咲夜。
「その時幻想郷入りしたのか?」
「はい。」
「・・・。」
 鬼子として生まれ若くして亡くなった最愛の少女の記憶が蘇る紫。咲夜の能力は幻想郷では『有り得る』ものであったが、向こうの世界ではそうはいかないだろう。
「今ここで、こうして人並み以上の生活が出来ている事に私は感謝しております。そして、この世界を創造してくれたあなた方にも・・・。」
 藍には敵対心を下げるための誉め殺しに聞こえる咲夜の自分語りだが、西行寺有子の様な鬼子が天寿を全う出来る場所、それをモチベーションにして自らの意志で幻想郷を創った紫としては、全ての苦労が報われる嬉しい話であった。

「藤原妹紅も同じではないでしょうか?根元的な部分に何物にも代え難い大きな感謝の心が彼女にもあるはずです。私が向こうで生きていた時代に不死人が安楽に暮らせる場所などあるわけがありませんし、隠れて住むにも情報化された世界は狭すぎます。」
 咲夜の話に感動している主を尻目に、良く回る舌だと感心する猜疑心に満ちた冷静な九尾藍は、幽々子の前世である西行寺有子の死後目覚ましく進歩する紫を思い出し複雑な気分になっていた。

 周囲を不快にさせるだけの気持ちの悪い妖怪でしかなかった当時まだ名も無かった八雲紫の、その高い知能に気付いて子分にして側においた『御乱』という名の九尾は、強妖怪でありながら武に頼ることを好まず、脆弱な肉体でありながら知恵を絞る人間に興味を示して繋がりを持ち、独自のコミュニティを形成していた。その中で妖怪と積極的に交わろうとする知識欲旺盛な博麗一族とは長く友好的な関係にあった。
 手に入れた不思議な妖怪を博麗神社の当時の神主に紹介した時、この妖怪の持つスキマの力に無限の可能性を見いだした博麗一族は、彼女を引き取りたいと九尾に申し出、あくまで所有権は自分にあるという事を了承させた上で『貸し出し』を許可し、この時八雲紫と名付けられた妖怪は神社で修行することとなった。
 主である御乱に対する恐怖心で本能から生じる負の欲望を抑えられていた紫は、抑止力となっていた主から一時的に解放され、勝手気ままを始めようとしたものの、博麗神社から御乱の時よりも厳しい制約を受け、その結果何度も衝突することになる。そしてそうした衝突の中で自分でも知らなかった力を無意識に引き出され、妖怪として急激に成長を始める。
 ストレスから解放される為に創意工夫をする事を覚えた紫は、そこで一回目の覚醒を果たし、本能を理性で抑える事を覚え生き物としてのランクを引き上げ、自分の能力を客観的に理解して、その可能性を試してみたいという高度な知識意欲が生まれた。そこから急激に進化した紫は、異様な気を放つ小汚く不快な少女の姿から今現在の紫とほぼ同じ背格好に肉体的にも成長する。
 そんな中、博麗の下で扱き使われ、渋々言うことを聞いていた紫は、成長に伴って膨らんだ自尊心を刺激され、自分が博麗よりも上位存在に取って代わろうと考え始め、博麗神社に対して謀反を起こしてしまう。
 しかし、強妖怪としての地位を獲得し無敵を誇っていたにもかかわらず、神の力を行使する博麗に勝てず劣勢を強いられる紫。起死回生を図る紫は、スキマで世界各地を見て回った際に見つけた巨大な悪霊を博麗にぶつけて共倒れさせる事を思いつき実行に移すものの、呼び出した悪霊に逆に殺されそうになるという絶体絶命の危機に陥る。
 敵対していた紫の窮地を救った博麗神社の神主は、夥しい犠牲を払いながらも、巨大な悪霊を説き伏せ怨念を祓い落として正常化させる。
 その奇跡を間近で、ただ震えながら見ているだけしか出来なかった八雲紫は、遂に博麗神社に対して心服し完全服従を誓い、以後逆らう事なく真面目に修行に取り組む様になったのである。

 異世界を創り出す『幻想郷理論』とそれを現世から隔離する『幻想郷隔離計画』、そしてそこに有能な者だけを選んで移住させる『幻想郷移住計画』は、元々は博麗一族のアイデアであり、八雲紫はこの三位一体の『幻想郷事業』の中心的人物で彼女なくして為し得ない事業だった。しかし、末法以前の妖怪優勢の当時の現状にそれほど不満のない紫にはそれを自らが主体になって推し進めようとする動機が明らかに不足しており、博麗神社の神主の世代が替わる毎に、同じ事の繰り返しになる幻想郷事業に次第に熱が入らなくなり、決して神社を軽んじて怠けていたわけではないが、人間の寿命が追いつかず物理的に修行が捗らなくなりはじめていた。
 肉体の死が直接個体の完全なる死に直結しない高い地位にある妖怪と違い、人間の寿命はたかだか50年前後で、死ねば輪廻に旅立ち現世に戻るまで数百年はかかる。更に能力的に最も油の乗る成熟期が数年から十数年と異様に短く、直ぐに死んで代替わりしてしまう。神主の能力にもその時代時代でムラがあり、紫を超える能力を持つ者は数世代に一人で、そうした類い希無い能力を持って生まれた麒麟児の元でしか紫の幻想郷事業は進められなかったのである。

 完璧な存在である妖怪と、不完全な存在である人間の境界を取り払い、妖怪でありながら不完全となった八雲紫は、人間性を身につけ精神面に脆さを持つという妖怪として致命的ともいえる弱点を得てしまう替わりに、不完全故に無限の伸びしろを獲得した。修行によって際限なく能力が伸びる紫は、やがて主である九尾の御乱をも越え、抗う事も出来なかった悪霊魔導師とも互角に渡り合えるようになる。

 しかし、強くなるにつれ自身に欠損している何かを感じはじめ、それを探しに世界中を旅し、月の世界に当時まだ理念としてしか存在しなかった幻想郷と同じ様な世界があることを探り当て、そこに半身とも呼べる自分の妹を発見して連れ帰る事に成功する。ここから紫と月の因縁が始まり、雲を掴むような幻想郷計画の骨格が月の世界を参考として朧気ながら見え、それと同時に自分達よりも遙か昔からこうした世界を創っていた高度な月の文明に対して強いライバル心が芽生えたのである。
 妹八雲藍との『初めての再会』、その後、西行寺有子との悲しい別れを経験し、大切な存在を守れる自分達だけの世界を切実に欲する様になった紫は更に修行を重ね、自分達コミュニティの中心である穢多の部落から始まった博麗の里周辺を結界で隔離し、仮の幻想郷として計画の第一歩を飾る。
 そして、西行寺幽々子と名を変えたかつての友人に預かっていた心を届け新たな交友が始まり、その頃紫は心身共に絶好調の中にあった。
 その絶好調の最中にあって、大きな力を付けた紫の元に多くの強妖怪が集まり、小さな八雲一家は巨大な派閥に膨れあがっていた。
 人間と同じ精神的な脆さを持つ紫は、時世が味方していると勘違いして増長の極みにあり、藍や魅魔などの諫言に耳を傾けず、自分に都合の良い進言だけを受け入れ膨れあがった自尊心と軍事力の矛先を月に向け、そこを幻想郷にしてしまおうと短絡的に考え侵略戦争を始めてしまう。
 これが月面戦争である。
 当時まだ無名だった風見幽香の覚醒とその活躍でなんとか全滅を免れ、更に一矢報いて地上妖怪の面目を保ったものの、敗軍の将である紫の面子は丸潰れ、責任を問われて派閥長の座から転落する。ここで漸く本来の自分に戻った紫は猛省して妖怪世界の表舞台から去って隠棲し、博麗神社と共に幻想郷事業に専念することになったのである。
 そして紫の替わりに派閥の長になったのが最強の能力を持ちながら平和主義者として知られ人望があった紫の妹の八雲藍である。

 八雲一家の大敗北と派閥の縮小に合わせるかのように聖白蓮の派閥が妖怪世界の一大派閥にのし上がり、末法期であることも手伝い彼女の唱える人間と妖怪の融和を謳ったユートピア思想が蔓延し、幻想郷計画は次第に忘れられてゆく。
 武士の台頭や法界の勢力拡大によって妖怪世界は次第に疲弊し始め再び幻想郷計画が再認識されるのは国内妖怪の最後の砦であった八雲藍の死後の事で、月面戦争より約400年後の事である。


 藤原妹紅が裏切っていないという根拠を『幻想郷に対する無類の感謝』として嘯く咲夜。人間の心を持つ紫には心擽られる話だが、純粋な妖怪であり、人間としての妹紅を信用していない九尾藍としては、その咲夜の言葉は妄言にしか聞こえなかった。人間性を持つ特殊な妖怪である主は騙せても自分は騙せないと、藍はあくまで妹紅が裏切って幻想郷を滅ぼすシナリオを捨てない。
「このままお前の言葉を信じて何もしなければ、『万が一』妹紅が裏切った時は全て滅ぶ事になる。」
「『万が一』妹紅が幻想郷を滅ぼすとして、ならば貴女達は今どう対処しますか?」
 スキマが消失した以上、打つ手無しである。不死鳥転生の浄化の炎はこのまま自然鎮火を待つしかない。この炎が数時間で収まるならともかくこのまま何もしなければ数年、いや百年単位の時間を要するのではないかと思われる。仮に結界を100年維持出来ても、落下する要塞の核はあと1時間ほどで頼みの綱である結界を突き破ってしまうだろう。もはや幻想郷を切り捨てて逃げ出す事しか出来ない藍としては、咲夜の問いに逃げるという選択以外の代案はないと主張する。
「幻想郷を捨て、紫様の力が戻った折りにはまた新たな幻想郷を構築するまでのこと。」
 幻想郷再構築。それは容易な事ではないが不可能ではない。藍は敢えて簡単に出来そうな口振りで煽って見せ、幻想郷に取り残される咲夜の顔色がどう変わるか意地悪くうかがう。
 咲夜は幻想郷の再構築が出来るかどうかの問題以前に、スキマが消失した状況でどうやって外に脱出するのかが気になるところであった。旧地獄や冥界なら歩いて行けるが、他に瞬時に簡単に移動出来る手段があるのだろうか?
「(そういえば・・・。)」
 妹紅がラーニングしたスキマ移動の巻物を思い出した咲夜は、同様に外に出る為の巻物も存在しているのだろうと、藍の余裕の根拠を見抜く。
 スキマによる退避であるなら、それは一瞬で済む事であり、ならばギリギリまで幻想郷に留まる事が出来るはずだ。
 妹紅が盗んだスキマと魔理沙を利用した奇跡のフィナーレと終劇に立ち会う時間的な余裕は十分残されているはずである。その瞬間に立ち会った九尾がどんな顔をするのか興味が湧いて、心の中で邪悪な笑みを浮かべる咲夜。

「幻想郷を去るのは一瞬で済むのでしょう?では、それまでの時間、紅魔館主催の異変と言う名の演劇を存分に楽しんで行かれたらどうです?最期の想い出として・・・。」
 紫の力が失われていても、その力が既に付与されているスキマの巻物は紫の状況に関係なく有効に作動する。それを使えば幻想郷脱出は容易で、今すぐ行動しなくても要塞のコアが結界を突き破るまでの約1時間は余裕を持って留まる事が出来るであろう。咲夜の言う通りもう少しこの状況を楽しむのも悪くないのではないか?いよいよ幻想郷の最期となった時、この澄ました小綺麗な顔がどう変化するのか楽しみでもあり藍は咲夜の提案に乗った。
「悪くない提案だな。で、お前等は具体的にどうこの異変を解決するつもりだ?」
 自分達の方針が決まった藍としては、もはやこの幻想郷がどうなろうと関係なかったが、どんな手品で幻想郷を救うつもりなのか興味が湧いてくる。
「ショーを楽しむ秘訣をご存じありませんか?」
「種明かしを先に聞くのは流石に野暮と言うものか・・・。」
 咲夜の言はもっともだと大人しく引き下がる藍。
「あの黒い魔法使いの事はどうするの?」
 これまで2人のやりとりを黙って聞いていたショックから持ち直した紫が、結界の中に取り残され犠牲になった尊い命をどう会議のメンバーに説明するかを尋ねる。紫らの中では魔理沙は状況的に蒸発して消えて無くなっているという認識で、咲夜に従ってこのショーを楽しむにしても、魔理沙の生死の是非によってシナリオは変わってくるはずである。
「そうですね・・・生きている事にして話を進めましょう。」
 実は魔理沙は『まだ』生きているが、彼女を生かしている人物はトップシークレットなので、咲夜も状況的に魔理沙が死んだと共通認識で話しを進めるしかない。その上でスキマの力は未だ有効で魔理沙は未だ存命という嘘で会議の参加者を大人しくさせておくのが得策だと考える。
 会議には魔理沙に縁のある河童と人形使いがおり、更にフランドールやパチュリーなども魔理沙と強い繋がりがある。死んだとことにするシナリオを選択すれば面倒なリアクションがくるのは必至である。
 裏の事情を全て知っているパチュリーは特に問題ないだろうが、魔理沙が死んだこととした場合、彼女がどうリアクションをとるのか興味があり、恐らく語りぐさになってしまうであろう彼女の幻の名演技を想像し可笑しくなって笑いを堪える咲夜。


「それでは、私は先に戻っております。頃合いを見てお戻り下さい。」
 幻想郷が滅ぶか滅ばないかは別として、それがわかるタイムリミットまで八雲紫と藍を共犯という扱いにし、今後の会議での立ち回りで口裏を合わせる確約をとった十六夜咲夜は、それ以上の質問が無いことを確認してから一礼して来た道を戻り始める。
 先程この通路に入ってきたドアの前で止まった咲夜が、もう一度紫等を見て深々と頭を下げるとそのまま姿が消える。
 先程までいたもう一人の咲夜が居ない事に2人の妖怪は同時に気付くが、その事はあまり気に留めていない。
 ドッペルゲンガーという存在に既に予備知識があった2人としては、先程の咲夜の分身もそれと似たような存在だと認識しているのだ。しかし、どのように発生して今に至るかまでは流石に分からなかった。ただ一つ分かる事は、今ここで話しをしていた人物は、自分達の知る以前の十六夜咲夜ではないということである。
「全く人間というものは・・・。」
 咲夜の姿が消えた通用路に佇む八雲紫の斜め後ろで苦々しく吐き捨てる藍。
「藍・・・本当に幻想郷を去らねばいけないの?」
「不死鳥に浄化されるのはそこに住まうゴミ共だけです。幻想郷の土台が無くなるわけではありませんし、能力が単純に倍化した今の紫様にはこの幻想郷はもう小さすぎます。この際ですから今の幻想郷は一旦リセットし、月の世界にも劣らない、誰にも制約されない新たな幻想郷を創りましょう。」
「・・・そうね。何れはそうしなければならないし、いい機会なのかもしれないわね。」
 大言を吐いて主を勇気づけようとする藍の心情を察して笑顔を振り絞る紫。藍の言うとおり妹の力を取り込んだ今の自分ならもっと大きく、そして完璧な世界を構築する自信がある。しかし、だからといってこの不安定で未熟な小さな幻想郷を切り捨てる事にはやはり抵抗がある。
 藍はそんな主の揺れる心情を察し、この異変で巻き添えとなる異世界の住人達の退去に気を回す。
「幽々子や四季映姫など冥界の者には関係ない事です。ちょうど居合わせておりますし頃合いを見て彼らを先に冥界に送りましょう。」
「・・・そうね。私達もその時一緒に移動しましょうか。しばらく白玉楼にでも逗留して休みましょう。」
 紫の力ない笑みに僅かに優しい空気が漂い安心する藍。この時、幽々子の従者魂魄妖夢の事はすっかり頭から抜け落ちている2人。
「では、幽冥結界を経由しましょう。あそこが白玉楼に一番近いですから。」
 藍はそう言って幽冥結界行きのスキマの巻物を探し、懐をまさぐり始める。
「これでしょ。」
 紫が妹紅に盗まれた事に気付いていない同じ巻物の予備を渡す。
「ああ、そう言えばこの前妹紅を白玉楼に案内する時に・・・。」
 三賢者会議に妹紅を案内する際に使用してしまった為、同じ巻物のストックが無かった事に気付く藍。紛失や盗難の恐れがゼロというわけではないので、いつでも戻れる帰還の巻物以外、予備は与えていないのである。
 手渡された巻物を懐にしまいタイミングを見計らって幽々子ら冥界の住人を連れ出す計画を立てる藍。
 先程の妹紅が裏切っていないという咲夜の話は個人的には有り難い事であったが、スキマが消失した今、この状況を挽回出来る方法はもうない。未練はあるが幻想郷はもう諦めなければならない。せめて大切な友人達が巻き添えにならないようにしなければならない。
 紫もここに来てようやく腹をくくり、そして同時に重責から開放されて気持ちが楽になった。

 博麗神社の存在が幻想郷構築の鍵となっていたこれまでの仕組みはここで潰える事になるが、今の紫にとって博麗の存在はただの足かせでしかない。いずれどこかで旧幻想郷と離別しなければならないと思っていただけに、その時が今なのだと自分に言い聞かせる紫。
「(霊夢・・・ごめんなさい。)」
「それにしても、何故スキマが・・・。」
 状況を動かす立場から開放された藍は、今後の反省とするため、不明点の解明に入る。
「・・・妹紅が滅びの道を選択したと言うのなら答えは簡単よ。スキマ爆弾を不死鳥の浄化の炎以外の方法で爆破させたのよ。」
「はっ!そう言えば魔理沙が魔法を撃つ瞬間・・・。」
 呪文に反応して魔理沙の身体に貼り付いていた呪符の一枚が、ミニ八卦炉の先端に滑り込んで、その後に魔理沙との交信が途絶えた事を思い出す藍。
「やはり・・・。」
 紫は妹紅にスキマ爆弾を渡す時の事を思い出し、魔理沙の安全祈願と称して体中に貼り付けたお守りの呪符に細工していたことを何の疑いもなく眺めていた事、この油断が命取りになったと今更ながら知る。
 藍に言わせれば『紫様は甘い!』と言う事になるが、これまで信用した対象にここまで見事に裏切られたという記憶がない。妖怪ではあるが人を見る目だけは人並み以上にあると自負しているだけに、この結果は堪える。
「スキマが働かない以上、あの不死鳥の炎を外に逃がすことは出来ません。あと1時間もすれば要塞コアが結界にぶつかりますね。そうなれば・・・。」
「霊夢の結界は不死鳥の浄化の炎の様な霊的な力を帯びた存在には無類の力を発揮するけど、物理的なものを防ぐ硬度は恐らくないわよね。」
 神の力でパワーアップした霊夢の結界なら防げるかもしれないが、そのことを知らない2人。
「直径数キロの高密度の物体が加速しつつ高速で落ちてくるのです。それを跳ね返す強度を得るとすれば、今空にあるあの結界は、高密度な物質で総質量が天体クラスになっていなければ到底無理です。それを支える支柱もない。仮に重力を遮断して浮いているのなら、衝突の力で結界ごと押し下げられ幻想郷の地表全てを結界が磨り潰す事になるでしょう。何れにしても幻想郷が物理的に大きな被害を被るのは必至です。」
 いつも通り冷静な藍だが、語気が荒く怒っている様に聞こえる。実際腹立たしく、終始余裕の表情だった咲夜や不覚をとったドッペルゲンガーの顔を思い出すと腑が煮えくりかえる。
「・・・。」
 咲夜のあの態度は、明らかに勝算有りからくる余裕だろう。しかし、どう思考を巡らせてもこの土壇場をひっくり返す秘策などどこにも見あたらない。しかし、あの余裕の態度が気になって頭から離れない。
 怒気を吐き出した後、紫に倣う様に押し黙り下を向く藍。
「とにかく、考えるのは止めましょう。彼らのショーとやらを今は楽しみましょう。ね?」
 手をパンと叩いて藍の思考を遮り、客席に戻る事を提案する紫に大人しく藍は従う。
「お手並み拝見・・・だな。」


「おおおおーーい!スキマババアァー!」
 何度も紫の名前を呼び、応答がないので禁句を叫んで強制召喚を試みるも見事に失敗する黒い魔法使い霧雨魔理沙は、数億度の獄炎の中でしぶとく生き残っていた。
 マスタースパークを放つ瞬間、妹紅の呪符の一枚がミニ八卦炉の手前に滑り込むと、何か小さな袋の様な物に変わるのを見たが、咄嗟に止める事も出来ずそのまま魔法に巻き込んで消し飛ばしてしまった。その直後に衣服に大量に貼られた妹紅の呪符が発動し、どこから出てきたのかゼリー状の液体の様な物質と混ざり合って、自分を中心に球形の壁を形成したのだ。
 これが無ければとっくに消し炭になっていたところだろうが、何故紫のスキマの防御壁が消えたのか分からない。こうなることが初めから想定されていたなら事前に説明されているはず。何か突発的な事故に伴って自動的に安全装置が働いた様に見えてしかたがない。だとすると、これはかなり大変な事態ではなかろうか?
「暑いよー魔理沙ぁー。」
 背中にくくりつけていた氷の妖精チルノが、明らかにバテた口調で魔理沙に苦情を訴える。
「確かにムッとしてるけど、それほど暑くはないんじゃないか?」
「いや、すごく暑い!」
「むー・・・あ、そうだ!パチュリーのお守り貸してやるよ。」
 魔理沙はパチュリーから貰った、いや借りた炎熱を防ぐ魔法のお守りを背中のチルノに手渡す。
「うわ、アチー!」
 お守りが手から離れた瞬間、今まで感じていなかった暑さが突然襲って来て、思わず大声を上げる魔理沙。それと同時にチルノは体感気温が急激に下がり嬉しそうに冷気を放つ。
 この空間内の温度は既に30℃を越えている様に感じる魔理沙は、今自分たちが置かれている状況がかなりやばいことを改めて認識する。
「ま、マジかよ・・・。」
 暑さによる脂汗が冷や汗に変わるのにさほど時間を要する事はなく、チルノとくっついている背中だけが異様に冷たく感じる。
 丸い球形の呪符の張り子の中で足を着けて立っていた魔理沙は、足下がジリジリと熱くなってきている気がして、逃げるように箒に乗って宙に浮かぶ。
 先程の紫の空間は重力が無く天地左右がわからなかったが、紫の姿の九尾の藍が直接ナビゲートしていたので特に不安はなかった。しかし、今はここがどこなのかどこを向いているのかすら全く分からない状態である。空間移動してどこか知らない場所に移動しているわけではなく、引き続き同じ場所だろうと確信はしているが、それを証明する材料は全くない。一つ分かるのは、高温の世界でかろうじてその熱を防いでいる妹紅の張り子の中にいるという事だけである。

「くそ!出口はどこだよ!」
 どこをどう飛んでいるのかわからないが、どこかに出口がないものかと彷徨う魔理沙。重力を感じないので飛んでいる実感がなく、本当に飛んでいるかも分からない。完全に外が見えない空間で、相対的に自分の位置を計る目安がない。仮に外が見えていても先程と同じまっ白の空間なら同じ事である。
「やばい、私・・・死ぬのかな・・・。」
 確実に上昇している室温に比例してどんどんと膨らむ死の恐怖。
「うっ!」
 死というものを意識した魔理沙は突然強烈な頭痛に襲われる。しばし、頭を抱えていた魔理沙は急にすっきりして顔を上げる。
「あ、あれ?私今何をしてたんだっけ?」
 死の恐怖を一瞬で忘れてしまう魔理沙。これは魅魔の呪いの一環で、自分が一度死んだ事を思い出さない為に、死を意識した瞬間にそれを忘れさせようと激しい頭痛を発生させるのである。魅魔はそれ以外にも魔理沙がその時の記憶を思い出さない様に様々な仕掛けを魔理沙に施していた。
「魔理沙ぁー暑いー!」
 耐炎熱のお守りも効果は未だ変わらず有効だが室温が上昇し相対的に効果が薄れてくる。元々熱に弱い氷の妖精チルノはすぐに根を上げ始める。
「我慢しろよ!こっちはもっと暑いんだ!」
 ぜーぜーと大きく呼吸しながら魔理沙は冷却装置のチルノによって何とか涼を得ている状態で、チルノの存在が命綱になっていた。もしチルノを連れてこなかったら今頃どうなっていただろうか?寒気がする。
 大量の汗が噴き出して頻繁に目に入ってくるのでそれを袖で拭う。服を脱ぎたいがアリスがチルノを固定するためにしっかりと紐でお互いを結わえ付けていたので、脱ぎたくても脱げないし、冷却装置が身体から離れるのは得策ではないと現状維持を最良とした。
 片眼に汗が入り染みるが、もはやぬぐうのも面倒でそのまま飛行し続ける魔理沙。大量の汗がチルノによって冷やされ背中がとても冷たく気持ち良かったが、次第にその冷たさが和らいでいく。このままだと自分より先にチルノが溶けてしまうかもしれない。
 何度も何度も死を悟っては頭痛に襲われ、何が何だか自分でも分からなくなり、意識が朦朧としたまま条件反射的に後ろで苦情を漏らすチルノをなだめている魔理沙。
 どれくらいそうしていただろうか?
 突然胸に貼られたまま残っていた妹紅の呪符が発動し、閃光を放つ。
「うわっ!」
 暑さによって体力を奪われ緩慢になっていた身体も、この突然の閃光には機敏に反応して腕で光を遮る動作をとる。背中のチルノはほとんど虫の息で、この突然の閃光に全く反応していない。
 閃光は一瞬で収まったがその光源だった呪符は既に跡形も無く消え去っており、替わりにその呪符のあった胸元から禍々しい黒い帯状の何かが大量に溢れ出していた。
「あ、あわわわわわ!な、なんじゃこりゃー!」
 血が噴き出している様に見えた魔理沙は咄嗟にそれを手で押さえ止めようとしたが、隙間を縫うように止めどなく溢れ、勢いは収まるどころか増している様に見える。
 人間の血液は赤いが、妖怪や妖精はその限りでは無いことを知っている魔理沙。この黒いものが血だとするなら自分は一体何者なのだろうか?人間の魔法使いと他からは言われているが、自分自身あまり自分が人間であることを強く意識したことがない。いつの間にかアリス・マーガトロイドのように妖怪化していたということだろうか?
 自分が既に人外となって流れている血液がたとえ赤くないとしても、ある意味しょうがないと何故か諦めの境地になる魔理沙だが、よく見てみると胸に傷も痛みも無く、手も黒く汚れていないので、自分の血液ではないと確認する。そもそもこれは液体ではなく黒い帯状の薄い布、あるいはゴムの様に感じる。少なくとも液体ではないようだ。
 時々、身体の内側で何かが蠢く脈動を感じるが、それは自分の心臓とは別の位置から感じる。その脈動は最初は気付かない程小さなものだったが、次第に大きくなり、やがて身体が大きく波打って視界が歪む程激しくなっていく。
 まるで走馬燈の様に記憶の断片が頭の中を通り過ぎ遠ざかっていく様な不思議な感覚に襲われる。いや、良く見ると遠ざかっているのはなく、遠くにある記憶の断片が自分の在るべき所に戻って来ているのだ。
 記憶にない光景が目の前を通り過ぎ自分の中に入ってくると、それは確かな記憶となって蘇り自分のものとなる。
 失われた記憶が断片が次から次へと押し寄せ再構築されていく。
「わ、私は・・・ぐあああああああああああああぁぁぁっ!」
 これまで経験したことのない激しい頭痛が押し寄せ、絶叫を上げて頭を抱える魔理沙。
 突然何かが切れる様な凄まじい音が鼓膜を叩く。生きている人間の手足を強引に引きちぎった様な無慈悲で無惨な断末魔の様な音だった。
「はっ!」
 突然頭痛から解放された魔理沙は、身体を仰け反らしそのまま気を失った。