inca rose*のブログ

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第8章 食の正義ー循環する飢餓と危害の修復

◆ 飢餓はどこから来るのか

食料システムは食料だけではなく、飢餓も生み出します。教育や医療などの他のシステムと同様に、食料システムも富裕層が有利になる傾向にあります。食料システムは経済システムと連動しており、経済システム自体が貧困層よりも富裕層を優遇しています。

これらのシステムは、より多くを持っている人々が、そうではない人々の仕事から利益を得ることを可能にします。
金持ちは、貧しい人々が充分に持っていないのは、彼らが無責任で怠け者だからだと言うかもしれません。

私は反対の方向を指差すべきだと思います。彼らの貧困の根本的な理由は、貧しい人々が疎外されてきたことです。我々が自分たちの利益のために、彼らを貧困に閉じ込めてきたのです。

食料は我々が貧しい人々から搾取して利益を得ている主要な分野です。貧しい人々とは一日中太陽の下で畑仕事をする移民や、搾取的な条件の下で食品加工に従事する工事労働者など、家族を養うのに充分な収入を得ていない人たちのことです。

この時代の技術の進歩を考えると、なぜ世界にまだこれほど多くの飢餓が存在するのか、表面的には非常に理解しがたいことです。非常に裕福な人の一食の費用で、貧しい人を数日も養うことができます。

先の第6章「社会改革活動」で、先進的な社会とは何を意味するのかという話をしました。恐らく、耽溺と貪欲は遅れていることの証明です。恐らく、他者を犠牲にして利益を得ようとする姿勢は「後進」の決定的な証です。

誰かを貧しいと言うのは正しくありません。我々が彼らを貧しくしたと言ったほうがいいでしょう。これは「アメリカンドリーム」暗部です。我々は貧しい人々を非難し、彼らが貧しいのは充分に働かないからだと責めます。しかし殆どの場合、富裕層がより多くを手に入れたために、貧困層のそれはより少なくなるのです。

まず、貧しい人々は過度な労働にもかかわらず、生活費を賄うのに精一杯です。そのため、自分や子供がより報酬の高い職業に就くための高等教育の費用を支払うことができません。多くの貧しい人々は、健康保険に入っていないため、もし家族の誰かが健康上の問題に直面した場合、彼らはその医療費の負担が一生続くかもしれません。

このように、我々の社会、経済システムは、貧しい人々を積極的に貧困に閉じ込めています。その上で我々は、彼らを遅れていて、怠け者と呼ぶ厚顔さを持っているのです。
飢えた人を見た時に、彼らの食物不足の苦痛から自分は切り離されていると感じないためにも、これらの力学を心に留めておくことは重要です。

充分な食物がある我々が彼らの飢えに不可欠な役割を果たしていることを覚えておけば、我々が彼らの苦しみに参加していることをより簡単に認識でき、それを和らげる責任もより容易に受け入れることができます。

自分の富を意識的に責任として扱うように訓練することで、自分自身に影響を与え始めることができます。皿が一杯の時、特に実際に必要以上の食料を手にした時、自分は貧しい人々と世界を共有しているのだと思い起こすきっかけにすることができます。

あなたの食料を生産するのと同じシステムが、彼らの飢えを生み出していることを思い出させるのです。彼らの状況を思い起こす習慣を育てることで、彼らの苦しみを分かち合い、飢えを和らげる機会を探すことを促されるでしょう。

あなたはそれほどの苦労もせずに必要以上の食料を手に入れるたびに、それを必要としている他の誰かを助けることが可能なはずだと意識することができるのです。
このことを深く感じられるようになれば、あなたは行動する気になるでしょう。これは素晴らしい第一歩です。





◆ あなたが食べているもの

第7章「環境保護」では、その第一歩として、肉類を断つことを検討するように勧めました。このように、菜食主義者になることは、食の正義に大きく貢献する方法です。これらの議論の全ては理論的には説得力があるが、適用することはできないと感じる人もいるでしょう。

理屈は分かるが、個人的にはなかなか踏み出せないと思うかもしれません。あるいは、肉類を断とうとしたが、しばらくするとその約束を守るのが難しくなったという人もいるかもしれません。この章では、できる限りのサポートをしたいと思います。そのために、肉類を減らすという決断の支えとなるような、幾つかの考えを共有したいと思います。

自分自身が受けている恩恵を心に留めながら考えてください。食肉産業は環境や動物そのものに害を与えるだけでなく、我々の社会の「普通」レベルの食肉消費も人体を傷付けています。

多くの人は健康を維持するために多大なエネルギーを費やしています。アメリカや他の国でも、ジムやヨガ教室などに膨大な時間を使って運動しています。では、肉を食べることで健康になれるでしょうか? 肉を食べるということは、その動物の体内に入ってきたものの全てを食べるということです。

あなたは成長ホルモンや抗生物質、予防接種も摂り入れていることになります。
大量殺戮のために育てられる動物に与えられる飼料が「オーガニック認証」の可能性は殆どないので、あなたは生涯に渡って殺虫剤を食べていることにもなるのです!

動物の殺され方がもたらす影響を考えるまでもなく、これは充分に不健康なことです。
アドレナリン、ストレス、恐怖の身体的影響については多くのことが知られていますが、動物がその前に殺された仲間の血の匂いを嗅いだ時、屠殺場での恐怖とパニックに陥っている様子が想像できます。

肉を食べる時、あなたは動物に含まれる多くの化学物質だけでなく、動物がその生涯を通じて、また屠殺の瞬間に経験する感情的、身体的ストレスも摂取しています。そのストレスもまた、あなたの肉の一部なのです。

中国とチベットの両方でヨーグルトを食べた人は、チベットのヨーグルトの方がおいしいとよく言います。その違いは、チベットの牛は自由に動き回っているからです。動物がリラックスして幸せであれば、牛乳やヨーグルトの味は良くなります。虐げられた動物から摂れる牛乳や肉はどんな味がするでしょうか?

健康のためやたんぱく質を摂取するために、肉を食べなければならないと言う人もいます。しかし、これは全く事実ではありません。世界中にいる何百万人もの健康な菜食主義者が、その事実を証明しています。

タンパク質源は豆類や我々の体と環境に良い他の食物にも豊富に含まれています。実際には、どこからタンパク質を摂取するかの問題なのです。それは、我々が食事をするたびに選択することだと認識するのが重要だと思います。





第9章 対立の解決ー問題は怒り

◆ 正義感を手放す

考えてみれば、我々人間というのは本当に不思議な存在です。自分の意見が他者と対立すると、自分の方が正しいに違いないと、いつも思い込んでしまいます。それぞれがどういう立場を擁護しようとも、どちらも同じように間違いは完全に相手の側にあるという疑う余地のない確信に固執します。これは本当に理性的ではないですよね?

我々の利益に関しても同様です。我々はいつも自分の目的へ推進することに自信を持っていて、まるで自分が良いと思うものは、自動的に全世界にとっても最善であるかのようです。

全ての人間には個人的な見解と個人的な目標がありますが、我々は誰でも、自分の目標が最も重要であり、自分の見解が最も合理的であることを絶対的に確信しています。我々は目的を追求する強烈な関心に完全に捕らわれ、他のことは本当に意味をなさないように見えます。これは全く自己中心性です。

もし自分の目的を達成するために他者が邪魔になるなら、たとえ親切にしてくれた親しい人でも、我々は躊躇なく彼らを切り捨てます。何かが我々のものだという理由だけでそれが最善だというのは、全ての理屈に反します。それに、たとえ我々の目的が最善だとしても、他者を犠牲にしてでもそれを追求する権利があるのかどうかを自問する必要があります。

私の考えでは、怒っている人や頑固な人に会う時は、もっと深い理解を持つべきです。閉鎖的な人や頭が固い人のように見える相手ほど、心を開いて穏やかに接する必要が多くなります。怒りや狭い視野で生きることがいかに困難で苦痛であるかを認識することで、相手に対する思いやりを感じることができるのです。

私は怒りを、精神的苦痛の一種と述べてきました。我々が正気でない人にどう対応するかという例えは、心を閉ざした極端なケースに対してより親切に対応するためのモデルになるのではないかと思います。

我々は振る舞いが正気ではない人に遭遇した場合、彼らが正常な状態ではないことを認識し、それに応じて対応します。我々は彼らが我々のように物事を見ているとは主張しません。彼らが自分の心をコントロールできていないのを見ても我々は怒りません。

むしろ、我々は冷静さを維持し、彼らが苦しんでいることを見抜けます。もし彼らが我々の話を全く聞いていないように振る舞ったり、あるいは我々が穏やかに話している時に大声で叫んだりしても、我々はそれを一種の正気の喪失の兆候と見なし、彼らに対してもっと強い思いやりを感じます。その結果、我々は彼らの状態をさらに心配し、敏感になります。

このような思いやりの精神を持つことは、明らかに正常であるにもかかわらず我々の意見に耳を傾ける気がない、あるいは傾けることのできない人々と、より生産的な関係を築くのに役立つと私は信じています。それを個人的に受け止める必要はなく、愛情と感受性を持って彼らを見ることができるのです。

私の提案としては、あなたの理解力を用いることです。理解力は人間のあらゆるコミュニケーションにおいて非常に重要です。自らの意見に柔軟性がない人に直面した場合は、あなたがより柔軟で親切になり、全ての知恵と慈悲を発揮する時なのです。




◆ あらゆる課題に立ち向かう

どんな困難な状況でもバランスを保つ決意を強めるのに役立つ仏教の言葉があります。
「もし状況を変えるために何かできるのなら、なぜそれを心配するのか? もし状況を変えるために何もできないのなら、なぜそれを心配するのか?」

この言葉は、人生のあらゆる状況に関連します。もし問題を改善するために何かできることがあれば、素晴らしいことです。悩んでいる理由はありません。

一方で、変えられないことを心配しても仕方がありません。このアドバイスは、自国の政府が他国の対立に介入する方法に影響を与えようとする場合にも適用できます。また、あなたが他者の対立を解決しようとする時にも適用できます。自分自身が他者と対立する時にも適用できます。

実際、このアドバイスは人生のあらゆる状況をカバーします。殆どの状況は変えることができますが、中には変えられない場合もあります。いずれにせよ、動揺したり不幸を感じたりする理由はありません。

もしあなたが本当にこのことについて考えるならば、自分自身が動揺したり、不幸になることをあなたが許す時、それは他の誰かや何かがあなたにそうさせていると言うことはできません。自分自身の不幸を引き起こしているのは、あなたです。

なぜ自分自身を支えきれない立場に閉じ込めるのでしょうか? 変化が可能な状況では変化のために努力し、不可能な状況ではその事実を受け入れ、可能な範囲内で努力するのです。

要するに、動揺して不幸になっても意味がないのです。それは自分を傷付けるだけで、状況を解決することも、他者のためになることもありません。あなたはただ、自分自身の心の中にある健全な資源にアクセスすることを難しくしているだけです。
あなたはただ、自分自身の崇高な心へのアクセスを拒否しているだけなのです。












『崇高な心  内側から世界を変える』
著 . カルマパ17世 チベット仏教カギュ派の最高位 
から抜粋。