「退職までの8年間」

私は公的機関の非常勤として

勤務していました。

その間にあった出来事を綴っています。

 

 

3月中旬、父の施設から電話があった。

「尿路感染による敗血症性ショック」

致死率が高く医者からは覚悟してください、と言われる。

 

しかし・・また驚異的な回復力で4日後、一般病棟に移る。

入院中、父は91歳の誕生日を迎えた。

リハビリのため転院が決まった2日後、容態が急変した。

医師より『CO2ナルコーシス』と言われた。

酸素マスクをつけていたが肺は真っ白で時間の問題だった。

 

実は持ち直したとき、私はこれからのことを考え憂鬱になっていた。

転院先に主治医がいるが、私と主治医の関係は悪化していた。父を主治医(総合病院)に連れていくのが困難になったので、在宅医療に変更をお願いしたが拒否されたのだ。父はフォーレ(尿の管)をつけたまま歩行器か車椅子で移動。認知症になっているので目つきがおかしく、痩せてヨボヨボ! すれ違う人は必ず振り向いた。待てない父は「まだか!」と何回も騒ぐ。耳が悪いので私は大声で答える。主治医はそれが聞こえているはず。腹が立って仕方なかったムキー

つい私は亡くなった母に「連れて行って」と祈ってしまったお願い

 

急変したと聞いたとき、私があんなこと祈ったからかなあ、と思った。申し訳ないという気持ちはあったけど、どんなことがあっても蘇る父だったので、「時間の問題です」と言われてもピンと来なかった。「ピーー」となるその時まで、生き返るかもしれないと思っていた(怯えていた?)。私は父の耳元で「みんな待っているよ、祖父ちゃんも祖母ちゃんも〇伯母も△伯父も」と言った。そしてとうとう「ハハちゃんも待ってるよ」と言った。待ってないかもしれないけど、言えなかったことを最後に伝えた。父の目から涙が伝った(涙じゃないけど)。

施設から、母の死は伝えないで欲しいと言われていた。忘れていても急に思い出し不安定になることがあるらしい。

 

こうして父は息を引き取り31日に葬式。

一番忙しい年度始め、私は忌引きで1週間仕事を休んだ。年度末にお葬式・・・元教師の父は最後までキチンとした人だった(父の口癖→キチンとしなければならない)

 

この年の社会情勢は忙しくて書いていない。

台風19号による浸水被害・土砂崩れの他に、令和天皇即位とパレードがあった。

フィギュアスケートは見る暇がなかったが、母が亡くなった1週間後のカナダ杯は見た。羽生君優勝で田中刑事君が3位だった。不思議とフィギュアだけは気持ちが一致していて応援する選手は同じだった。

「ハハちゃん、ゆづるが出るよ、一緒に見ようね」

遺品整理しながら一緒に見た。

 

2020年2月、羽生君は四大陸選手権優勝しスーパースラムを達成した飛び出すハート