子どもの幸せを願うこと

孫の幸せを願うこと

子どものため、孫のためにエネルギーを使うこと

全ての生物に当てはまる、当たり前の法則だ

 

その当たり前のことをしているだけ

ただ、それだけ

 

頭ではわかっていても、心が納得しなかった

けれど、

BさんやCさんが応援してくれているから、がんばろう

そんな気になれなかったから、そのままにした

がんばらずに、マイペースを貫こうと決めた

 

 

後にになって、思い返すと

「どんなことをするのが好きなの?」

「何に安心するの?」

「何がキライで、イヤなの?」

「こーゆー時に、どう感じるの?何を考えているの?」

あの時、BさんとCさんが

わたしにたくさん質問をしていたのは

わたし自身を知りたかったわけではなく、

わたしを通じて

Bさんの子どもであり、Cさんの孫のことを理解し、受け止め、

その子にふさわしい愛情を注ぐためだったのかもしれない

 

 

 

 

数ヶ月後、

わたしが少し落ち着いたときに

ある用事があったので、BさんとCさんの家に行った

 

すると、

Bさんがいきなり

「名前に使っている一文字があまり良くないから、

 ○○○ちゃんと呼ぶことにするね」

と、わたしの名前を一文字変えた名前で呼んできた

Aさんはわたしの名付けをしてくれた人でもある

 

わたしは状況が全く飲み込めず、唖然としていたら

Aさんが登場して、Bさんと二人で

「名前と命式の関係上、云々…」

と、わたしに説明していた

 

 

その二人の姿を見て、

いつにもなく、興醒めしている自分がいた

 

用事を済ませて、

ひきつった笑顔のまま、その家を出た

 

帰り道、

興醒めしている自分にも驚いたけど

尊敬していたAさんにも違和感を感じた

Bさんにも違和感を感じたまま、運転をした

 

その時、ふと

Aさんが、わたしによく言っていた言葉を思い出した

“親を恨んだらいけない”

 

それを思い出したら、

この人たちとは、しばらく距離をおこう…

そう、思った

 

同時に、

「切っても切れない、血のつながった親だからこそ 

 好きなだけ恨んでも憎んでもいいんじゃないか!」

抑えられてた何かが爆発したみたいだった

相手を尊敬していた自分もバカらしくなった

 

それを機にわたしは、

母親に抗うことを思う存分すると決め、

父親に心配させて、頼りまくることを思う存分すると決めた

 

今までとは違う娘になり、両親は戸惑ったようだけれど

わたしの貫き通す性格と長年鍛えた忍耐力が幸いとなり、

今もそれは続いている

 

 

宗教活動に行かなくなったことへ対する大きな罪悪感も

「あなたの生まれる日が

もう一日早いか遅ければ、良い日だったのにねぇ」

そう、言われた時から、ズキズキしていた傷の痛みも

 

「うるさい、ほっといてくれ!」

と、いう怒りで吹き飛んだ

 

 

「魂が、生まれる日も名前も身体を選んでくる」

と、言われているけれど

その通りだと思う

あの時の怒りは、わたしの魂の怒りだったんだ

 

意図せず、自分の名前まで変えられた時に

魂の叫びのようなものを感じた

 

好きな人を言いたくなかったのも

わたしの魂が気づかないところで

わたしを守ってくれていたような気がする