今日は、お寺の法要です。
年に三回、お寺にて法要があるらしく、お昼から夕方まで、本堂でお話やお経を聞きます。仕事はお休みして、家族でいってきます。

毎日、子供たちの通った小学校の横を通って、出勤してます。夏休みは、学童保育に行く子や、児童館に行く子とすれ違ったりして、健太の小さい頃を思い出します。
夏休みは、毎日、遊んでたなぁ…
もともと、いろの白い子なのに、夏の間だけ、真っ黒になって、だんだんまた、元に戻っていく…
夏は、プールやら、自転車、何やらかんやらの外遊びで真っ黒、汗だくで帰ってきてました。
家に帰ったら、トランクス一枚。上半身裸…
あの頃は、ほんとに元気いっぱいだった。
夏が似合う子でした。
大きな声で、ハキハキして、いつも笑ってました。
厳しく言っていたわけではないのに、挨拶だけはきちんとできる子でした。誰に対しても…
買い物に連れていっても、お店の人に、買ったあと、「ありがとうございました。」と、頭を下げるし、近所の人にも、「こんにちは」「おはようございます。」を、大きな声で言える子でした。
出かけるときは、「いってきます」だったし、朝も「おはよう」と、大きな声で…
今でも、家のどこかで声が聞こえてきそうです。


お盆は、いま以上に健太を感じられるのかな?それとも、宗教上そう言われてるだけで、あまり関係ないのかな?わからないけど、今もお盆も、私にとっては、感覚は一緒なのかもしれない。
いつも一緒。

健太がお腹に宿って、生まれて、元気に育って、病気になって、呼吸器つけておうちで過ごして…常に、いつでもずっと健太と一緒。
亡くなって、身体は亡くなっても、私の記憶のなかで、私の身体のなかで感覚として、健太は生きている。

私が笑ってるとき、健太も笑ってるんだろうなとか、私が悲しんでるとき、健太も家族恋しくて悲しんでるんだろうなとか、私が出かけるときは、目にしたものに、私と同じく健太も感動したり、その時その時の感情を健太と共感してるのかもしれないと思うようになった最近。

いつか、健太と会えたら、思い出話をいっぱいしよう。共感したこと、覚えておかなくちゃ。

寂しさ、悲しさは変わらないけれど、私自身は、少し変わった気がします。

暑い夏、いろんなこと思う夏、健太の記念日でもある夏。

今日の法要でも、何かを感じるのでしょうか?

健太の思いも感じながら、午後からいってきます。