6年前の3月だった。健太の発病…
微熱に始まり、病院受診のときは、8度越えてた。風邪と言われ、お薬もらい、でも、いつになくきつそうで。
次の日は、次女の高校入学説明会。制服採寸待ってる間に、次女が倒れるハプニング…長く立ってること、苦手なんだよね。
落ち着き、終わるともう夕方。
こんなに時間かかるものなのかと、タクシーにて帰宅。
健太をみてくれてた長女から、健太の熱下がらんよって、言われ、心配になる。
夜遅くに、お腹減ったと、ご飯を食べて、こたつに座り、お薬が効いたんだと思ってた…でも、下を向くと頭が痛いと言ってたな。
あのとき、もう少し気をつけてみておくべきやったんかな。
念のため、和室に二人で布団敷いて寝た。様子が気になったから。やはり、夜中、高熱と頭痛で、健太が動いてた…うなされてた。

旦那を起こし、近くの小さい頃からかかったことのある救急病院にすぐ連れて行きたいと電話するが、コンピューターの故障とかで、断られ、初めての救急病院を紹介される。一応、小児救急ては、有名なとこだったので、安心はしてたが、行くと、患者多いし…健太は、比較的元気で歩いて車から降り、待ち時間も、普通だった。でも、少したってから、言葉が乱暴な感じ、いつもと違う。体重計るときに靴が履けない…どうもおかしい。看護師さんに話し、早めに診察室へ。
先生が、名前を聞くと、答えた。でも、年を聞くと、気を失い、大急ぎで処置室にて点滴…親は、廊下へ出された…
どれくらい待っただろう。

看護師さんが、バタバタしてる。
患者が痙攣起こした…とまらない。
まさか。
健太だった。

朝になり、痙攣が落ち着くと、いろんな検査が始まる。時々、発語はあるが、意識は戻らない。なんの菌もみつからない。インフルでもない。MRIの結果がでた。
急性散在性脳脊髄炎(ADEM)らしい。
夕方、40度越えてた熱は、37度に下がり、この分じゃ2、3週間で退院できるでしょう。後遺症も、そんなにないはずとのこと。眠ってる健太をみて、安心してた。

そのはずが、9時すぎから、ピクピクとまた軽い痙攣が。薬でおさまったけど、夜中、1時になり、今度は酸素が下がる。痰を吸引したが、サチュレーションは80台まで下がる。当直医が、アンビュー押し出し、レントゲンとるけど、そこまでひどくないと。
あのとき、挿管するとか、すぐにICU移動するとかしてくれてたら、結果は違ってたかも。結局、主治医がくるまで二時間アンビューおしてただけ。

ICUに入ったのは、3時…呼吸器つなぐ。でも、そのときは、呼吸停止だったらしい。

私が部屋に入れてもらったのが、6時。
健太の目にはテープが貼られてた。
顔もむくんで、身体は、身動きしない。

なんなの?これ。
その後も、肺が水浸し…だの、輸血が必要だの、何十本の点滴やらなんやらの線に繋がれ、眠ってる健太がいる。15日もたないかも。そう言われ、涙をこらえ、朝から夜まで私はICUのベッドサイドにいた。身体を拭くときも、シーツ交換も、一緒にさせてもらった。毎日が地獄だった。とにかく必死で、食べるものも食べてたかわからない。服は全部ブカブカになってたから、おそらく10キロくらいはおちてたかも。春休みの娘たちに家のことはまかせ、とにかく現実の厳しさと向き合ってた…
健太、ごめんね、どうにかならなかったのか、私が代われたらいいのに。そればかりだった。

健太は、頑張った…脳死状態と言われても、頑張った。1ヶ月で一般病棟へ。3ヶ月を経て、療育センター転院。二ヶ月の母子入院を経て、在宅へ。

5年の在宅生活。頑張ったよね。楽しかったよね。散歩も行ったよね。ヘルパーさんや、訪問看護師さん、訪問リハの先生、訪問入浴の方たち、みんなで楽しく過ごせたよね。お友だちも来てくれたよね。

いろんなこと、思い出す…
辛いときのことも。でも、病院にいたときのほうがつらかった。家での日々は、寝てなくても、お世話が大変でも、つらくはなかったよ。
そばにいて、そこに日常があったから。家族は一緒にいるべきなんよ。健太も表情よかったもんね。懐かしいよ、あの日々が…

3月になると、あの急変した日を思い出すんだ、毎年。