Vol.110 『さかさのさかな』

くぬぎさんの家のお庭には、

陶器でできた、

おおきな金魚鉢がありました。


3匹の金魚を、くぬぎさんは大事に飼っていました。

ときどきはねこが来て、

金魚鉢のふちに前足をかけ、

狙うこともありましたが、

なぜかねこたちは、

ふうっと去っていきます。


飼われているのは、

一匹はらんちゅう、

一匹はめだか、

もう一匹はコメットでした。


くぬぎさんは金魚たちをとても可愛がり、

餌やりを怠らないのはもちろん、

お庭の金魚鉢も、

数ヶ月にいっぺんは、

金魚を別の、水の入ったバケツに入れ、鉢を清掃したあと、

金魚を鉢に戻します。 

いっぺんに水道水を入れると、

金魚たちは風邪を引いてしまうので、

少しずつ水を足して、

慣らしてやるのでした。


ところがある日、くぬぎさんが金魚鉢を覗くと、

くぬぎさんがいちばん可愛がっているコメットが、

おなかをうえにして浮いています!

「もしや死んでるの?」と、

コメットに触ると、 

コメットは勢いよく泳ぎだしました。


ところが翌日、コメットはまたおなかを上にして浮いています。


調べてみると、消化不良だとそうなることがあるとか。

『転覆病』というそうです。


くぬぎさんは老齢です。

この金魚鉢のある家で、

ほぼ一生を暮らしてきたと言ってもよいでしょう。

その間、姑、舅、夫、犬、ねこ、

たくさんの看取りをして生きてきました。


なぜ、金魚鉢のなかのコメットが好きかというと、嫁いできて、

初めての自分のお小遣いで買った金魚だからです。

らんちゅうとメダカは、

苦手だった姑が買ったものでした。 


だからくぬぎさんは、

コメットが可愛いけれども、

金魚まで長患いするのか、

と、ちょっと暗い気持ちでした。


何日も、おなかを上にしたコメットは、

えさを食べなくなりました。

くぬぎさんは話しかけました。

「おまえさんも苦労だねえ。いっそひと思いに逝けたら楽なのにねえ」

くぬぎさんは、なんだか自分の寿命と、

コメットの寿命を、

秤にかけているような気がしました。


そして、ある日くぬぎさんは、 ベッドから出て来ませんでした。

とうとうその日がやってきたのです。

くぬぎさんは老衰で亡くなりました。

家族はおらず、金魚だけがくぬぎさんの死を知っていました。


そしてコメットも、

殉死するかのように、金魚鉢の底に沈んで、

死んでいきました。


メダカとらんちゅうも、

えさをくれる人がいなくなったので、

相次いでいのちを失っていきました。


そうして、くぬぎさんの家は死の家になりました。

なんとも悲しいおはなしになってしまいました。

せめて、くぬぎさんや金魚たちの魂が、

安らかならんことを。