最近の雨に、何か異様な感覚を覚えたことはありませんか。
まるで空から攻撃を受けているかのように、以前よりも激しく、
破壊的な降り方をする雨。
その正体を知れば、単なる気候の変化として片づけることなどできません。
今、私たちの頭上から落ちてきているのは、もはや水だけではないのです。
科学者たちが「永遠の化学物質」と呼ぶ有害物質──自然界では決して分解されず、
環境にも人間にも蓄積していく毒。
それが、雨とともに確実に降り注いでいます。
そして驚くべき調査結果があります。
現在、地球上に降る雨の90%にはマイクロプラスチックが含まれているのです。
これは未来の懸念ではなく、すでに始まってしまっている現実なのです。
私たちは知らぬ間に、毎日「水ではない何か」を浴び続けています。
それにもかかわらず、テレビも新聞も、
この深刻な事実を大きく取り上げることはありません。なぜでしょうか。
なぜこれほど重要な問題が黙殺されているのでしょうか。
私はある記録を読んで、この疑問に強く突き動かされました。
1950年代、北欧で原因不明の大量死が発生しました。
その背景にあったのは、大気と降雨の変質でした。
当時は謎として扱われた事件も、今にして思えば「〇の雨」の始まりを告げるサインだったのです。
人類と雨の関係は、いつからここまで歪められてしまったのか。
雨はかつて恵みであり、命を支える存在でした。
しかし今、その雨が静かに私たちの体を蝕み、
未来を奪い去ろうとしているのです。
この見えない脅威の正体を知ることこそが、私たちが生き延びるための第一歩なのです。
☆〇の雨──北欧で始まった沈黙の異変
1952年の春、私はスウェーデン南部の湖を訪れていました。
地元の漁師が案内してくれたその湖で、私は信じられない光景を目にしました。
水面一面に、無数の魚の死骸が浮かんでいたのです。
サーモンも、トラウトも、。
種類を問わず、あらゆる魚が命を落としていました。
病気の痕跡も外傷もなく、ただ生命活動が突然止まったかのように見えました。
その場に居合わせた漁師は「昨日まで元気に泳いでいたのに」と呟き、
私自身も言葉を失いました。
最初は局地的な偶然と考えられていました。
しかし、数か月も経たぬうちに、同じような報告が各地で相次ぎます。
湖ごとにバラバラに発生するなら理解できますが、
不可解だったのはその広がり方でした。
数百キロ離れた湖で、同じ時期に魚が消えるように死んでいく。
汚染源があるなら中心から外へと広がるはずです。
しかし現実には、地図に点を打つように、
同時多発的に異変が起きていたのです。
1955年頃には、もはや「偶然」では説明できない規模となっていました。
漁師の証言も残っています。
「祖父の代から続いてきた漁が、ある日を境に成り立たなくなった。
湖底まで見えるほど水は澄んでいるのに、魚の影ひとつ見当たらない」。
その言葉には、生業を奪われた悲しみと、理解を超えた恐怖が入り混じっていました。
1957年までに、スウェーデンとノルウェー合わせて約1万の湖から魚が姿を消しました。
これは両国の湖のおよそ10%にあたります。
日本に置き換えれば、琵琶湖や十和田湖といった主要な湖
すべてで魚が絶滅したのと同じ規模です。
水は透明で、美しいまま。
しかし命は消えていた。
その不自然な静けさが、事態の深刻さを物語っていました。
ところが、異変は魚だけにとどまりませんでした。
北欧各地で、歴史的建造物や教会に異常が起こり始めたのです。
何百年も風雪に耐えてきたブロンズ像が、わずか数年で緑色に変色し、
鉄の装飾品は急速に錆びていきました。
とりわけ象徴的だったのが、ストックホルムの王宮近くにある17世紀の教会です。
そこにあった美しいブロンズ製の鐘が、
短い年月で見る影もなく腐食してしまったのです。
教会関係者は「これは神の怒りなのではないか」と語ったといいます。
信仰の拠り所を持つ人々が、本気でそう思わざるを得ないほどの異常だったのです。
さらに不気味な現象が森林を襲いました。
針葉樹の針は黄色く変色し、広葉樹は季節を無視して葉を落としました。
北欧の森が、まるで終わりなき秋に閉じ込められたかのように変貌していったのです。
農業への打撃も深刻でした。酸に弱い作物が育たず、
収穫量は年を追うごとに減少していきました。
牧草地も衰え、牛の乳量まで減るという影響が出始めました。
農民の中には「大地が病んでいる」と嘆く者もいました。
この一連の出来事を前に、科学者たちはついにある結論に辿りつきます。
「何かが空気中に混じっている」。
湖を殺し、魚を消し、金属を腐食させ、森を枯らし、
作物を衰えさせる正体不明の存在。
それが空から降ってきているのではないかと考えられたのです。
そして1957年、一人の科学者がこの謎に正面から挑みました。
彼は湖の水を採取し、大気中の成分を調べ、雨水を分析しました。
そこに浮かび上がったのは、人間の産業活動によって
生み出された「酸性の雨」という事実でした。
当時はまだ、その危険性を正しく理解する者は少なく、報道もわずかでした。
しかし彼の研究は、やがて世界中の科学者が共有する警鐘へとつながっていきます。
私はこの記録を知ったとき、単なる環境問題の一端だとは思えませんでした。
魚が同時に死に、金属が腐食し、森が枯れ、作物が衰え、
人々が途方に暮れる光景は、まるで予言の一節を現実がなぞっているかのようです。
雨はかつて恵みであり、命を育む存在でした。
しかし、その雨が人間の営みを映し出す鏡となり、
毒を降らせる存在へと変わってしまったのです。
「死の雨」という言葉は、その後世界に広がりました。
北欧で始まった沈黙の異変は、やがて国境を越え、
他の地域でも確認されるようになります。誰も逃れることはできない。
空の下に生きる限り、私たちはその影響を受け続けるのです。
なぜ、この深刻な現実が長い間大きく報じられなかったのか。
誰が意図的に隠したのか。
それとも私たち自身が、知ろうとしなかったのか。
確かな答えはまだ出ていません。ただひとつ言えるのは、
雨が私たちに突きつける問いを無視することはできないということです。
魚が消えた湖、錆びついた鐘、色を失った森。
それらはすべて「空からの警告」だったのです。
私はその記録を読み返すたびに思います。
この異変は過去の出来事ではなく、今も続いている現実なのだと。
なぜなら、私たちは今も日々、雨を浴びながら生きているからです。
