今年が最後の騎乗となった中学生3年生。(西から東へ)

 

砥鹿神社の由緒・縁起・祭神が「三河国一宮砥鹿神社誌」と砥鹿神社の社務所から頂いた「パンフレット」では内容の相違点があるため、「三河国一宮砥鹿神社誌」より「やぶさめ神事」の由緒のみを掲載する。

 

東から西へ

 

5月4日 神幸祭:古来本社の例祭として最も盛大に行われ来たもので、明治以降当日が例祭となったので、今は之に付随する「神幸祭」や「騎乗式」が特殊神事として執行され、またその前後の行事もなるべく古儀が遺存されている。

貞享(1684~1688)の縁起に、5月4日毎年式日大祭礼也従朔日至4日是日御神体八握穂社行幸供奉諸役数百人帯刀還御之時競馬十二疋矢武佐目 と記されている。即ち本祭は1日から4日にわたり各種の行事が行われたのであった。

明治4年(1691)の記事に 神主禰宜一同馬乗馬引弓負人一同御社内へ揃う、之に於いて御大祭を始め御行幸、八束穂社に於祭詞御還御終て流鏑馬あり。其の模様は御庭前鳥居の内外を輪乗りするの例なりしも、明治4年大祭より今日に至は、東西馬場を颿走するの例となりたり。

騎馬は古く神主家から2頭、他の社家から各1頭合わせて12頭を出していた。其の中神主家からの1頭はっ神子馬として何も載せずに牽く。現在も同じく12疋で、氏子12組中から1頭宛て出すこととなっている。乗り子は十歳前後の子供で、当時の冠り物は十人が竹編笠、1人は烏帽子(戸賀里家より馬の乗り子)を被ったが、明治4・5年頃から33年迄は一斉に烏帽子となり、33年(1900)以後は現在の如く全て竹編笠となった。次に流鏑馬神事のの馬駆けは、古く本社正面から入り三ノ宮の前を過り、二ノ宮の正面を外に出て、本社正面へと一巡したのであるが、明治4年からは現在の如く社頭を東西に駆けることになり、そのため当日県道を通行止め立札を建て且つ馬場両側に埒を設備することとなった。明治以前の大祭には、毎年吉田藩の代官1名が臨場する例となった。

騎乗式

日時:5月4日午後4時半

神幸祭・神輿還御後引き続き行われる。花火の音と共に騎乗開始となるや、美々しく飾られた12頭の馬上に、同じく晴れの装束を着けた乗り子が打乗り、片手に鞭、片手に「布引」を持つ(布引とは5色の紙を幅1・5cm、長さ110cmほどを繋ぎ合わせて巻いたものを数本を合わせて持ち、馬上より靡かせる様を形容してかく呼ぶ)。合図を待って一鞭当てれば、逸り立った馬は直ちに馬場(約200m)へ駆け出す。手にした布引は風に靡いて5色の波を作り、乗り子馬共にさながら絵巻物を展開した様である。馬場は鳥居前から八束穂神社前迄で、その間を各馬が3往復(もともとは6往復であったがいつしか現在のようになった)する。両側木柵を埋め尽くした観衆は1騎手(乗り子)ごとに手を叩き声を揚げ、或いは布引を手に得んとひしめいて暫くは取り合いで賑わう。布引を飾って置けば魔除けになるという俗信があるからである。このようにして12頭全部の騎乗が終わると、日も暮れかかり、終式の花火の音を合図に乗り子一同打揃って末社津守神社へ参拝し退却する。

もとは流鏑馬式であったことは古記録に窺はれるが、今は神幸祭の中で形式的な流鏑馬神事が行われるのみとなり、還御後騎乗式の名称で、単に馬場を往復するに止まっている。然しながら本社に於いては単なる武技の上覧に止まらず、別種な信仰的行事が之に付随しているようである。それは本祭が挙行の日時が5月4日ということで、直ちに想起されるのは端午の節句との関係であって1日の相違は認められるが、相互に相関連する所があることは推定することに難しくない。

 

御神馬の鞍は総漆塗で磯に違杵の金紋を打ち、居木裏に「永禄3年(1560)2月日」の刻銘が見え、形状も上手に出来ており、和鞍の素晴らしさを感じることができる。

 

「鐙の端を挟んでいるため」馬に不慣れな乗り子は木柵にはみ出た指が当たり「痛い痛い」と叫んでいた。

 鐙の中に足を全て入れるのが正しい

 

 木曽馬が出場したが駆けることが出来なかった。

(養豚業経営者所有で趣味で飼っている)

 

小学校4年生の乗り子(最年少)

 

伝統を守って次の時代に繋げていく氏子の方々の熱意をひしひしと感じ、「やぶさめ神事」と言いながら「騎射」しないことが理解できたが、残念ながら「日本の馬」を使う難しさも痛感した。

 

※三重県 桑名市 多度大社5月5日の「馬上げ神事」で本来あった壁を撤去して行われた。事故を防ぐための方法を論じあったときに「日本の馬」を使用するという方法の有無があっかを神職に尋ねたところ「無かった」とのことであった。

 

 

引用文献

三河国一宮砥鹿神社誌

蒙古襲来絵詞(西尾市岩瀬文庫) 

 

 

              鈴 木 純 夫

 

 

 

       

2019年7月6日に、百舌鳥・古市古墳群がユネスコ無形文化遺産に指定された。拙著(過去と現在 そして未来の日本在来馬)を発行して4ケ月後のことである。これを機に自身の研究テーマを「馬を通して見るー3世紀以降の東アジアと倭国ー」に決め、現地取材・各特別展への参加・図録収集を行っている。

その一端を紹介する。

四条畷市歴史民俗資料館へは、2010年10月以降、現在に至るまで館長 野島稔氏にはお世話になっている。2012年6月に大阪府立近つ飛鳥博物館へ一度取材しているが、展示内容がかなり濃くなっているため改めて展示物で紹介する。

 蔀屋北遺跡出土の馬全身骨格

 骨格:遥馬(はるま)

 復元

(5世紀の四条畷の牧の様子)

準構造船埴輪

準構造船から馬を降ろす。

奈良井遺跡

  奈良井遺跡から出土された、日本最古の胃の結石。

(2020年にエルメス財団により銀座メゾンエルメス ホーラムで開催された「ベゾアール(結石)」シャルロット・デュマ展をきっかけに、1979年に奈良井遺跡の馬埋葬のそばから出土していた球状石製品が古墳時代の馬の結石であることが明らかになっった)

奈良井遺跡の馬から栄養分を持った結石が出来るということは、讃良(さららー四条畷周辺地域)の牧において渡来人が麦などの雑穀類を与えていた可能性が出てきた。(現在、和種馬でも乗用の力強い馬にするため、通常の餌に加え米糠(こめぬか)を与えることを考えれば、当時も乗用馬として使用するため牧草以外に麦を与えていたことは充分理解できる)

馬装した埴輪

ハミ

鞍(後輪ーしずわ)

   体高:約125cm(キ骨から床までの長さ)

讃良の牧はを考えるに、放牧のためでなく各地から集められた馬をヤマト王権に納めるために調教する牧であると言えまいか。

(御崎馬がいる都井岬の面積は約550haで、約100頭が、日本で唯一、15~20のハーレムを構成し周年放牧されている)

 

2023年1月24日(火)~3月19日(日)に九州国立博物館で行われら「特別展 加那」の図録 コラム/生駒山西麓の「牧場」に「蔀屋北遺跡出土の馬がモウコノウマ血を引く中型馬で」 と書かれているが、染色体数が66のモウコノウマに対し日本在来馬は64であるため誤りである。

モウコノウマ

御崎馬

 

取材    四条畷市歴史民俗資料館

      大阪府立近つ飛鳥博物館

      東京多摩動物公園

 

引用文献  四条畷市史 第五巻(考古編)

      四条畷市歴史民俗資料館発行資料

      特別展 加那 九州国立博物館 コラム/生駒山西麓の「牧場」岡寺 良氏

      在来馬の遺伝的背景 戸崎晃明氏

      牧の景観考古学ー古墳時代初期馬匹生産とその      周辺:馬の医療と治療ー四条畷市奈良井遺跡出土結石の再発見ー 野島稔氏

 

協力    四条畷市歴史民俗資料館館長 野島稔氏

 

イラスト  佐野喜美氏

 

 

 

 

 

 

         2023年12月30日

          鈴 木 純 夫

 

愛知県西尾市市制70周年・岩瀬文庫リニュウ―アル20周年記念特別展で、大永元年(1521)三河国幡豆郡饗庭郷(西尾市吉良町小山田)生まれの「松井忠次」の生涯が展示されている。

(資料)

通称は金七郎・左近尉、徳川家康のもとで三方ヶ原・長篠設楽が原など武田氏との戦において最前線に立ちその功績によって「松平姓」を賜り、大名・松平周防守の祖となった人物である。

天文20年(1551)12月、東条松平忠茂(甚太郎)に兄・甚二郎が織田氏と同調し謀反を企てたことに対し、忠茂を支持し今川義元へ謀反を報告し忠茂の同心となる。

弘治2年(1556)2月、忠茂の戦死に伴い甥・家忠を支持し、9月義元より家忠の名代として諸事異見を任された。この立場は、家康からも引き続き保証され、家忠および於次(のちの松平忠吉)の代の東条松平家家中に影響力を有した。

また、永禄7年(1564)以降は家康より東条城(愛知県西尾市吉良町)の城代・天正4年(1576)3月には牧野城(静岡県島田市)の城番を任された。

家康の駿河領有に伴い、駿河三枚橋城(静岡県沼津市)に入部し、同11年(1583)2月28日には河東二万五千貫文を与えられるとともに河東二郡郡代として河東二郡地域(駿河国境から富士郡吉原地域)に対する支配に携わった。同年に沼津三枚橋城主として6月17日に亡くなるまで、家康を「武」の面で支え続けた。法名・嵩輝

その後、忠次の子孫は譜代大名として老中2名を輩出するなど幕政を支え、丹波篠山城主・岩見浜田城主・などを歴任したのち、武蔵川越城主として幕末を迎えた。

元亀元年(1570)6月28日に近江国浅井郡姉川河原で、織田・徳川連合軍と浅井長政・朝倉景健連合軍の間で行われた姉川合戦図屏風(福井県立博物館所蔵)に、忠次が描かれている。織田・徳川連合軍の勝利となった。

 中図左に忠次が描かれている

姉川合戦図屛風としては現在唯一知られている。六曲一の中屏風というややイレギュラーな形状を持つ。躍動的なタッチ・遠近法を用いられ、徳川家康本陣が画面の前面に配され、特に強調されている。天保八(1837)丁酉三月 林義親画(花押)という落款がある。筆者の経歴など不明であるが浮世絵(錦絵)の武者絵や血みどろの絵などを意欲的に学んだ絵師であることがうかがえる。家康本陣の描写などから、岐阜県歴史博物館蔵「関ヶ原合戦図屛風」とはきわめて近い関係にあることがわかる。

この作品に示された姉川合戦像は、宝永2年(1705)に根岸直利が家康の前半生における4つの重要な合戦を描いた軍記「四戦紀聞」のうち「江州姉川戦記」にもとづいて構成されている。当初は織田軍と浅井軍との戦闘を描く右隻を伴っていたとみなす向きもあるが、この軍記とその家臣団の勇戦のみを画題とした作品であることが想像され、制作当初より一隻屏風であった可能性が高いだろう。制作主体や伝来などはいっさい不明である。(引用 図説 戦国合戦図屏風 学研)

 

戦国合戦図屛風(富山県個人蔵)

図:1

図:2

図:3

 

六曲一双 

この屏風は特定の合戦を描いたものではなく、戦国時代の合戦の持つ諸要素を組み合わせて図柄を構成した作品である。

図:3は、山砦をめぐる攻防・図:1は、平城の攻防戦が描かれている。大和絵系の絵師の手になる作品で、成立は江戸初期までさかのぼると考えられる。戦国合戦図屛風の遺存作品のうち、もっとも古い時期に属す作例として重要である。

(引用 図説 合戦図屛風 学研)

 

姉川合戦図は、267年も後に描かれてたものであるため、合戦そのものをを全く知らない時代の絵師によるものである。日本の馬・甲冑を纏った騎馬武者の使用する武器等々全く考えられない描かれ方がなされている。その一部を紹介する。

本多忠勝の名槍蜻蛉切の刃長:43・7㎝で柄の長さを含めても全長約:230㎝であるが、描かれている槍は徒歩兵が持つものである。

関ヶ原合戦図屏風 彦根城博物館蔵 狩野貞信(1597~1623)江戸時代前期の絵師 本多忠勝が乗る「三国栗毛」が、島津軍の火縄銃で撃たれ死亡したため、顎から落馬した

 

㉑:朝倉義景の臣・真柄直澄(?~1570) 戦場で常に大太刀を振って活躍した。姉川合戦で家康の士・➉向坂式部に討たれた。

 

真柄直澄が使っていたと言われる「大太刀」が、現在、愛知県名古屋市 熱田神宮 剣の宝庫に展示されている。

長さ:221・5㎝ 反り:3・4㎝ 元巾:4・5㎝ 重さ:6㎏ (写真撮影禁止)

天正4年(1576) 家康士・山田吉久が熱田神宮に奉納したと伝わる。

 

 

 

長巻(野太刀)演技、長さ約:75㎝ 全長約:180㎝

 

➉向坂式部

向坂は、匂坂(ともさか・こうさか とも訓んでいる)

初め六郎左衛門、また、常陸介と言った。家康の臣のちに井伊直政に属した。姉川の戦に朝倉の勇士・真柄十郎左衛門直澄を討った。(俗説に本多忠勝が討ったとするのは誤り)のちに放逐された。

 

引用   図説 戦国合戦図屛風  学研

     彦根城博物館蔵 関ヶ原合戦図屛風

     地歴高等地図  帝国書院

     戦国人名辞典  戦国人名辞典編集委員会編

     戦国人名辞典  吉川弘文館

     騎馬武者 サムライの戦闘騎乗  新紀元社

     拙著 過去と現在 そして未来の日本在来馬

 

     熱田神宮 剣の宝庫

 

     紅葉台木曽馬牧場

     甲州和式馬術探求会

 

     写真提供  林佳夫氏

 

 

                   鈴木純夫

     

 

 

 

 

2022年10月29日(土)、紅葉台木曽馬牧場にて,

直垂・水干を纏い、在来馬に乗って古の世界に、いっときタイムスリップした。

平安時代~鎌倉時代の演武が、在来馬に騎乗した単重ねの公家女房の篠笛の音と共に始まった。

公家武官夏束帯(平安時代)

大鎧をつけた武将

単重ねの公家女房と、狩り装束の武士

狩装束をつけた武士(鎌倉時代)

 

初心者たちが、在来馬に騎乗してお散歩。

 

武器を持って、ハイ・チィーズ

皆さん、とても「さまに」成っていますよ。

 

初心者ながら、弓力30㎏の弓を射る強者

 

晴れ渡る秋空は、絶好の乗馬日和。

参加者たちの笑顔・笑い声がいつまでも続き、非日常の世界を存分に満喫した。

 

今回の企画に参加された方々に、在来馬の存在と体験を認識して頂き、多くの知人語って頂ければ幸いです。

皆さん、お疲れ様でした。

 

協力 紅葉台木曽馬牧場 (時代考証・演武内容には関知し       

             ていません)

 

参考文献 日本服飾史 男性編・女性編

 

 

                

          令和4年11月2日

           鈴 木 純 夫

 御崎馬の「駒追い」が、10月1日(土)・2日(日)に行われた。

 江戸時代、高鍋藩の飛び地の串間では、毎年秋のころ「駒追い」が行われ、馬の検査を兼ねて2歳の牡馬を捕らえる行事として始まった。牡馬を牝馬20頭につき1頭くらいに調節し、その外の牡馬は払い下げられていた。

 現在は、寄生虫駆除・健康診断・保護活動などをするために、都井岬牧組合・宮崎大学獣医学部(40人・留学生5人・タイ・インドネシア・マレーシア・アフガニスタンを含む、)農学部を中心にして、串間市職員・岐阜大学獣医学部・岡山理科大学獣医学部・鹿児島大学獣医学部・監視員・一般等の約120人ほどが集まった。

 1日は、都井岬牧組合長・迫田幸四郎氏の指示により、小松ヶ丘・扇山を中心に、その外都井岬の山間部にいる馬達を見つけ、小松ヶ丘・扇山近くに設置された柵に追い込む作業が行われた。

動画1:駒追い参考

 2021年度の飼養頭数は88頭であった。

 3月28日~8月末に29頭(牡:17頭、牝:12頭)の子馬が産まれが、9月末に確認されたのは17頭(牡:11頭、牝:6頭)である。

 成馬の死亡があり、9月末で102頭にまで増え、今回の「駒追い」で柵に追い込めた数は72頭である。

動画:檻に入らない16歳の牡馬参考

 

 2日は、馬たちを檻に追い込んだ後、獣医学部生の実習を兼ねて宮崎大学獣医学部准教授・小林郁雄氏の指示のもと、採血・馬用駆虫剤・牝馬の糞採取・出産馬の乳採取・5頭の1歳馬にマイクロチップ挿入、液体窒素による焼き印・などが行われた。

 檻の中に馬を順次入れ、1頭づつ丸太で仕切る。

 

 マイクロチップ挿入~マイクロチップ認識確認測定器を使用。2015年度より実施され、現在のところ約半数の馬に埋め込んである。

 

 馬用駆虫剤挿入

 

 25gを採血(DNAなどの検査をする)

 現在、15~20組のハレムがあり、各組の系図作成が行われている。

 

 焼き印を押すためにバリカンで毛を狩り、22番の焼き印を入れる

 動画3:バリカン参考

 動画4:焼き印2番参考

 

 鼻の粘液を採取

 

 牝馬約40頭の糞採取(細菌・妊娠の有無を確認)

 

 母乳の採取(細菌などの検査に使用)

 

 事故もなく2日間の「駒追い」は終了した。

 

 宮崎大学獣医学部からは、毎年1人がJRA(日本中央競馬会)に採用されており、諸先輩方の中には著名な獣医として活躍されている方がいると聞いた。

 

 

 2011年7月の御崎馬の取材から11年が経過し、都井岬の様変わりに圧倒された。

 駒止めの門で通行料400円を支払う。

 

 一般社団法人串間市観光物産協会が運営する、軽飲食・土産店と「野性馬ガイド」2人が常駐している。

 有料で御崎馬の行動・歴史など実際に馬たちがいる場所で説明をしている。

 また、都井岬馬保護対策協会(県・市が出資)が設立され、3人が県外から移住してきた。

 毎日、原動機付きバイクで岬の中を巡視し、馬たちの体調の様子・道路に落ちた糞の処理・馬たちが道路を塞ぎ渋滞しないように気を配っている。

  馬たちが道路を塞ぐため渋滞

 

 喧嘩する牡馬

 グルーミング

 

 動画:グルーミング参考

 

 生涯学習の一環として御崎馬などを、小学4年生で「串間学」で学ぶ。

 

 灯台から見た都井岬。

 串間市の総面積は295・16㎢であるが、そのうち都井岬が55㎢を占める。

 

 ソテツの北限地である。

 

 扇山

 小松ヶ丘

 馬たちは主にこの二つの丘に棲息する。

 毒草:たますだれ

 毒草:ぼんてん花

 毒草:ゲンノショウコ

 

 他にもヒガンバナ・紫陽花は、馬たちは食べない。

 

 猿は馬の守り神と、鎌倉時代に中国からの信仰が入った。

 

 県道440号から車を走らせると、突き当りに、右・都井岬(馬の絵)、左・幸島(猿の絵)をみて驚いたことは、2011年8月のブログに掲載した。

 

 高鍋藩秋月家の城跡と墓が、西林院にあることがわかった。(ご住職は、常駐されていない)

 右:種実 中央:種守(種実の5男) 左:種実公室

 

 櫛間城跡の堀跡とみられる。

 

 秋月種実あきづきたねざね(1545~1596年)(筑前の守、剃髪宗闤)

春種の子、筑前大隅城主で属城に豊前岩石城があった、併有。はじめ大友宗麟と戦って敗け、居城古所山を失ったg、毛利元就の援助で所領を恢復、しばしば大友氏と戦ったが利がなく、一度は降参もしたが、再び反抗して島津義弘に合流し、筑前六郡、筑後四郡、豊前一郡を手に入れた。なかなかの策略家。天正15年(1587)秀吉の九州征伐のとき屈服し剃髪して降参。子種長(1567~1614年)同前。檜柴の茶入れと国俊の刀を献じ、服従を誓い本領を安堵した。慶長元年(1596)9月26日死す。52歳(武家事紀・上井覚兼日記・寛政譜、他)

 秋月種長あきづきたねなが(1567~1614年)(三郎、長門守)種実の子、天正15年(1587)6月7日秀吉から日向財部城(高鍋、児湯郡を与えられる(寛政譜)。16年閏5月従五位下長門守(高鍋藩実録)、8月5日領所日向新納院、櫛間諸県郡898町9段8(2,696,700坪、898,9ha)を安堵(秋月家文書)文禄元年(1592)朝鮮の役に弟高橋元種と朝鮮へ出動、8月平昌城主を捕虜とした(寛政譜)。慶長2年(1593)2月再び朝鮮へ出動、12月蔚山城救援に活躍(浅野家文書)、翌3年(1594)帰朝、外地にあること7箇年。同年8月秀吉の遺物大原実盛の太刀を受領(高鍋藩実録)。5年(1600)の関ヶ原の役には西軍に属し、7月近江瀬田橋を警備、ついで美濃大垣城の防衛に移ったが(真田文書・慶長見聞書)、味方主力が関ヶ原で敗戦の後、弟元種、相良長毎と共謀して同城の同士垣見一直等を斬って東軍に降った(9月18日)。戦後所領を安堵。19年(1614)6月13日死す、48歳(秋月氏過去帳・寛政譜・他)

その後、2代:種春、3代種信、4代:種政、5代:種弘と続く。

 

 

協力:都井岬牧組合

   串間市役所

   串間市商工観光スポーツランド 推進課 秋田 優氏

   宮崎大学獣医学部准教授・小林郁雄氏

   一般社団法人串間観光物産協会

   浅井元康氏

 

引用:戦国人名辞典(豊臣秀吉)

 

                鈴木純夫

 

 

 

 

 

 

名古屋市博物館で9月10日から開催されている。

中国で秦・漢両王朝の中心地だった陝西省の出土品を中心に、約200点の貴重な文物が紹介されている。

古代中国では、死後の世界での生活を考え、人や動物のの姿を写し取った俑と呼ばれる像を故人とともに埋葬した。本展では統一秦時代の等身大の兵馬俑10体をはじめ、時代により形状の異なる計36体を展示。青銅の祭器や武器など、さまざまな遺物から古代中国の歴史を感じることが出来る。

1965年、前漢を樹立した高祖劉邦の陵墓、長陵の近くの楊家湾漢墓の陪葬坑から3,000体近い兵馬俑が出土した。つづく1974年、始皇帝陵の東1・5㎞の場所から、井戸掘りの最中に偶然兵馬俑が発見され、その後、地下にはおよそ8,000体も埋まっていることがわかつた。秦の兵馬俑の発見は中国の文化大革命(1966~76年)中のことであり、発掘がすぐに始まったわけではなかった。兵馬俑1号坑の正式の発掘は1978年に始まり、兵馬俑3号坑は1988年、兵馬俑2号坑は1994年に正式な発掘が始まった。出土した武器に秦王(始皇帝)の年号相邦呂不韋の名が刻まれていたことから、これらの兵馬俑坑が始皇帝陵の陪葬坑であると認識された。

 

秦王期と前漢王期に分けて「馬・馬具」を考察する。

始皇帝陵から馬骨が発掘され、その長さから体高が約155㎝、DNA分析により中央アジアや欧州由来の系統が確認されることから、それまでの大きな頭・ずん胴で脚の短い馬から、秦人が北方遊牧民との活発な交流を介して早くから西方の品種を入手していた可能性は高く、その後、漢王朝が興ると、シルクロードの開拓とともにさらに新たな品種が求められ改良が進んでいったのであろう。

1:秦の始皇帝、前221年に中国統一。前206年秦が滅 ぶ

2:前202年、前漢が中国に成立。前141年に武帝が即位し前104年、西域のオアシス地域に遠征。前102年、大宛を破る(註1)

前8世紀~前7世紀、南ロシア平原~中央アジアに延びる広大な草原地域に、スキタイ等のような遊牧騎馬国家が成立し騎馬による機動力で騎射戦術で西域へ侵入した。中国が春秋時代(前770年~前403年)、戦国時代(前403年~前221年)に彼らとの戦の中から、中央アジアやギリシャの豊富な文化を受け入れ、秦国家が成立した。

秦は素朴な文化の一面、積極的に他国の優秀な人材や高い技術を受け入れた。現代の漢字に直接つながるのも秦の文字で東方の国々の文字は統一とともに消滅した。

イ:秦、兵馬俑(等身大につくられている)

2号銅車馬(複製品)高さ106・2㎝、長さ317㎝、幅176㎝

2両の銅車馬は木の箱に収められており、あたかも埋葬されているかのようであった。地下8mと浅さかったので、木箱は腐り、銅車馬の車体部分は細かく粉砕された状態であった。

銅車馬の馬

2号坑の騎馬

4世紀後半に、朝鮮半島から日本への輸入が始まったが、大阪府四条畷市の蔀屋北遺跡から出土した「馬の前身骨格」は体高は125㎝である。「在来馬の遺伝的背景ー戸崎晃明著」には、ゲノム情報から日本在来馬はモンゴル在来馬と同じであることを証明している。が、日本在来馬を研究している者として、いつ、どのような経緯で変質してしまったのかが納得出来ない。

鞍(軟式)の確認

軟式鞍が導入されたたのは戦国時代の趙の武霊王が前4世紀に「胡服騎射ー筒状の短上衣にズボン・靴という乗馬に適した、遊牧民の服装として馬に乗りながら矢を射るー」を採用したのと同じ頃であろう。漢字の「鞍」という字は「革へん」であるが、このことは中国に鞍が入ってきたとき、それが「木製」ではなく「革製」であったことを物語っている。

馬の背には単なる敷物ではなく、前後端がわずかに盛り上がり(ただし、後世の硬式鞍の前輪・後輪ほど高くはなっていない)腹帯・胸繋によって固定されている。2枚の大きな革を繋ぎ合わせて中に鹿の毛(まれにスゲ科の草)を詰め、詰め物が偏らないように縦方向に毛・麻・髪をより合わせた紐、あるいは革紐で3本刺し子縫いが施されている。

鎧甲騎兵俑(がいこうきへいよう)

騎馬軍団が、左手で長柄の武器を立て、右手で手綱を引く。

秦・漢の時期、鐙は無かったといわれており(スキタイ革鐙装着推定復元があるため、有機物のため埋土中に消滅したのかもしれない)履先で馬の腹部を押さえながら制御する。上着の下半分も乗馬に支障がないように正面に襞がつく。鎧は肩部分なく、腕を動かしやすいようにしている。袖口も短くて筒袖で手綱がもちやすくしてある。下肢部分は、厚みのあるズボンの裾が履先まで伸びている。

青銅長刀  長さ90・3㎝ 刃の長さ71・9㎝

将軍(高級武官)ほか、限られた兵士に帯剣が許された。剣身の長いこのような剣は秦の特長である。中央に鎬が走る錆のない刃先の鋭さは、使用された痕跡もなく本来の姿を良く残している。(和鉄製の刀剣を数本持っているが、その鋭さには驚いた)

 

ロ:前漢 兵馬俑(縮小)

騎馬俑 

前201年、漢皇帝の劉邦みずから率いる漢軍が匈奴の冒頓単于の40万もの騎兵部隊と戦って惨敗した。平城白登山で7日も包囲された。総勢32万の漢軍の敗因は歩兵が多かったことが原因であった。匈奴の馬は西に白馬、東に青毛馬、北に黒毛馬、南に赤毛馬であったという。

彩色騎馬俑

高さ33・2㎝ 長さ34・6㎝ 幅11㎝

楊家湾陪葬坑の騎馬俑のちょうど半分の大きさであり、両手でしっかりと手綱を持つ。

女性の騎馬俑

高さ52・5㎝

頬のふくよかな独特の顔つきが印象的である。楊家湾陪葬坑の騎馬俑は、脚先は馬の腹に押し付けるようにしている。

鎏金青銅馬(りゅうきんせいどうま

高さ62㎝ 長さ76㎝

武帝の姉が持っていた。この馬は明らかにこれまでにない西域の汗血馬(かんけつうま)であり、武帝が李広利将軍を大宛(註1)に使わせて、大宛の馬を手に入れるのは、陽信長公主の死後、前101年のことである。長さ76㎝の鎏金青銅馬、中は空洞で重さは25・5㎏、両手で抱えることが出来る。臀部が発達しており強い脚力を持っていたことが想像される。

左側:始皇帝の騎馬俑の尻尾の位置

尻尾には尾椎という骨格があり、胸椎・腰椎・仙椎から連続して曲線つながっているので、この位置が正常であり、鎏金青銅馬の尻尾の位置は不自然である。尾の付け根は尾嚢という袋で束ねられ、その先を三つ編みにしている。去勢されていない雄馬を従順にするためかと思われる。尾の処理は鎏金青銅馬も似ている。

(註1)大宛は、固有名詞を漢字に転写したものではなく、広大なオアシスという意味らしい。「宛」という文字は誤りで、苑・園と同音である。おそらく「苑」を誤ったものであろう。特定は難しいが、おそらく中央アジアのオアシス都市で、馬とブドウの名産地であると思われる。

武帝が目指した弐師は、きわめて優れた馬の産地で、その飼養には冬ごもりのための山の南斜面と夏の牧地として高原が必要で、水の不足しないオアシスが多く存在する。匈奴の西南、漢からみれば正面にあたる、

この国は、定着・農耕社会で人々はオアシスに城郭を築いて住んでおり城郭の数は70余り、人口は数10万人を数える。武器には弓と矛を使用し戦いには騎射戦術を主とする遊牧国家で、兵数は8万人~9万人である。

 

※鞍の存在は明かされたが、騎馬戦術を考える上で「ハミ」の存在も不可欠であるため資料を捜した。

アルジャン古墳出土のハミ

右側に、前9世紀~前8世紀のハミ留金具・ハミがみられることから、秦・漢にも伝えられたものであると思われる。

 

引用文献:兵馬俑と古代中国 秦・漢文明の遺産

     文明の十字路=中央アジアの歴史 岩村 忍著

     中央ユーラシア         小松久男著

     鞍 と 鐙           林 俊雄著

     在来馬の遺伝的背景       戸崎晃明著

 

聞き取り:名古屋市博物館

 

 

               鈴木純夫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1:北海道和種馬

  1、014頭 前年比 △69頭

2:木曽馬

  134頭 前年比 △4頭

3:野間馬

  48頭 前年比 △3頭

4:対州馬

  41頭 前年比 +2頭

5:御崎馬

  88頭 前年比 △23頭

6:トカラ馬

  79頭 前年比 △28頭

7:宮古馬

  49頭 前年比 0

9:与那国馬

  117頭 前年比 +12頭

 

計 1,570頭 前年比 △113頭

 

2021年度飼養頭数は、2019年度の飼養頭数1,574頭を下回り、1975年度以降の飼養頭数値の最低を記録した。

原因は、飼養者の高齢化・疾病による死亡・餌不足・S字周期減等が考えられる。

 

トカラ馬:減少についての考察。

二桁の数字になったのは、2,006年度の96頭依頼である。

トカラ馬は、鹿児島大学入来牧場(薩摩川内市)・開聞岳山麓自然公園(指宿市)・十島村中之島の三か所で飼養されており、中之島で飼養されているトカラ馬が鹿児島県の天然記念物に指定されている。

中之島のトカラ馬

 

拙著の聞き取りによると、2021年度の中之島の飼養頭数は22頭、開聞岳山麓自然公園は48頭であった。鹿児島大学入来牧場は聞き取りさせていただけなかったが、上記の事からすれば自ずと9頭になる。(2017年度の飼養頭数は130頭。中之島、総頭数:25頭・子馬の出生数:牡2頭・牝4頭 開聞岳山麓自然公園、総頭数:66頭・子馬の出生数;牡8頭・牝3頭、鹿児島大学入来牧場は聞き取りできず差し引きで総頭数39頭)

元来、鹿児島大学入来牧場は「牛」を研究する牧場で、馬は「種の保存・良質な牧草の維持」として飼養されてきた。人間の存在を察知すると一目散に逃げていく「野性ーwildness」である。人間の手が入るのは一年に一度の「馬伝生成貧血症ワクチン接種」のみで牡馬同士の喧嘩・過度な近親交配により激減してしまったのであろうか。

今後が気にかかる

上記の表は、公益社団法人日本馬事協会「登録規程事務細則」の日本在来馬の体高標準を表したものであるが、「御崎馬」と「トカラ馬」には無い。日本馬事協会への聞き取りでは、「御崎馬」は[国の天然記念物]、「トカラ馬」は「野性ーwildness]のため、2種には血統登録が出来ないからであるとのことであった。

 

2021年10月5日に発行された「日本の馬 在来馬の過去・現在・未来」の「トカラ馬 孤高に生きる」で下記の様に結んでいる。

これまでトカラ馬は、社会の流れに逆らうわけではなく、求められれば素直に応じながら、生をつないできた。それが家畜の使命だといわれれば、言葉を失う。トカラ馬は、われわれの社会に足を踏み入れてから、その本能に「ともに生きる」ということをしっかり刻んだにちがいない。

トカラ馬は、人との絆を保つという心情を秘めながら孤高に生きて、これからもその美学を貫いていくであろう。われわれは、この孤高に生きるトカラ馬を理解し、慈しむことができなければ、トカラ馬の未来はないように思える。

 

慈しむことだけで、トカラ馬の未来が開けるであろうか!

 

引用;公益社団法人日本馬事協会

   日本の馬 在来馬の過去・現在・未来

 

協力:鹿児島県十島村

   開聞岳山麓自然公園

 

                鈴木純夫

2022年3月27日、山梨県笛吹市石和町の笛吹川左岸河川敷に、石和八幡神社の神棚をお迎えし、恒例の流鏑馬神事・馬上武芸が行われた。

石和八幡神社由緒によれば、笛吹市石和町市部は甲府盆地の北縁に位置し、笛吹川・鵜飼川に画された平坦地。中世には石和御厨の中心地域で、甲斐守護武田信光(武田始祖・源義光 別名・新羅三郎義光 1057年~1127年 の5代目)の屋敷跡が残されている。近世には市部が成立し、市部村は甲州街道・鎌倉街道が通過する交通の要衝で、石和宿や石和代官所が置かれていた。中世には甲斐国守護武田氏の歴代当主が尊崇し、源氏の氏神である八幡信仰の神社となった。鎌倉時代には甲斐源氏の一族である武田信光(石和五郎)が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという。甲斐国では当社のほかに、韮崎市神山町北宮町の武田八幡宮や山梨市北の大井俣窪八幡神社が知られる。戦国期には大永5年(1525)に、18代・武田信虎(信玄の父)が甲府開府にあたり当社を勧請し甲府に府中八幡宮が成立した。

また、永禄4年(1561)には甲斐国内の諸社に対し府中八幡宮への参勤が命じられているが、一宮浅間神社をはじめ当社を含む10社が勤番を免除されている。

「社記」に拠れば、天正10年(1582)3月の武田氏滅亡後は、織田信長により諸堂や宝物が焼き討ちされ、社領も没収され衰えた。

近世には、天正壬午の乱(1582-本能寺の変)を経て甲斐を領有した徳川家康により、新たな社領を安堵されており歴代甲斐国主による尊崇を受けた。

また、昭和36年(1961)に山梨交通が保養所の建設のために、ブドウ畑を掘削したところ温泉が湧き出た。この湯が川に流れ込み小屋がけの「青空温泉」が誕生した。その後、多くの投資家が進出して一帯で温泉が掘削され、旅館・ホテル・保養所などが急増してブドウ畑が温泉観光地域へと一変した。単純温泉が毎分2500ℓほど湧き出している。

東京から特急で90分という立地条件から、バブル経済ピーク時の平成元年(1989)には宿泊客数が177万人を数えたが、平成21年(2009)には105万人へと減少した。そこで、石和温泉観光協会は、川中島合戦戦国絵巻、花火大会・笛吹川石和鵜飼などを主催して誘客を図っている。

また、温泉旅館組合は日本初の厚生労働省の「温泉利用プログラム型健康増進施設」の認定を受けて、新たな対応をしている。

 

1:蟇目の儀

神事を行う場所を祓う儀式で、矢の先に「鳴鏑」を付け天に向けて放つと空洞部分から「ヒュー」と言う音がする

著者所有の「鳴鏑」は、桐製で16㎝の長さ

 

2:馬上舞

桜花 散るごとく 雅なり

 

3:口上流旗

往路・復路で「甲斐駒流鏑馬 奉納仕り候」の発声は力強い

 

4:流鏑馬 神事射手

見事な「神事射手」の技により割られた「的中的」は石和八幡神社の「お札」に使われる

「神棚」に向かい射手は鐙から足を外し「礼」をする

 

 

5:平騎射(神事射手と同じように3的を射る)

初参加の方による日頃の「稽古」を披露

 

6:4騎の流旗

 

初参加・龍神による、馬間・交差・旗の流れは見事である

 

7:馬上舞、2

大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜かな

初参加、龍神の馬上舞

上記の太刀を佩刀するもよし

白拍子(平安時代末期から鎌倉時代にかけて始まった歌舞

諸説あるが、男装した遊女や子供が今様などを歌いながら舞ったものを指す)が舞うときに佩刀した太刀(岐阜県関市 有限会社・濃州堂に特別受注。柄は白鮫の本革を使用している。著者、牧場に寄贈)

 

8:長巻

剣道四段の腕前であるが、このような極超絶迫真演武が出来るのは、男性でも演じられる方は稀である

 

9:弓手横ー弓手横(ゆんでよこ)

2的連射的中

 

10:追物射ー弓手横(おものいーゆんでよこ)

初参加ながら、見事な連射的中

 

11:追物射ー押捩(おものいーおしもじり)

長巻に続き、大変難しい技を見事に連射的中

 

12:弓手横ー追物射(ゆんでよこーおものい)

見事に連射的中

 

13:追物射ー馬手追物射(おものいーめておものい)は

馬手追物射は、弓を馬の首を跨いで「右側」に射る難技であるが、流石に経験豊富な射手は余裕で連射的中

 

14:長槍

長さ、328㎝の長槍をこの様に馬上で自由に扱う極超絶演武は見る者を圧倒させる

 

合戦絵巻に描かれいる槍の長さは、二軒~三軒(360㎝~540㎝)である。しかし、この長さの槍を持つのは徒歩兵であり、騎馬武者はこの限りではない。友人の刀鍛冶に聞いたところ、騎馬武者が使用した槍の長さは、強者で一軒半(270㎝)位とのことであった。

 

上記の槍は著作のもので、長さ一間二尺七寸・230㎝である。

(銘:兼重 文安年間 1444~1449 制作)

 

武器は長すぎず、短過ぎず、自分にとり一番使い易い武器を使うべしと古書にある。

 

集合写真

 

公益社団法人日本馬事協会 登録規定事務細則

(ウ)日本在来馬

北海道和種馬・木曾馬・野間馬・対州馬・トカラ馬・宮古馬・与那国馬

a 同一の純粋種どうしを交配して生まれたものは、その品   種とする。

b 北海道和種馬・木曾馬・野間馬・対州馬・宮古馬・与那国馬にあっては、それぞれの原産地で生産されたものであって、血統上3代前までの間又は原産地で過去15年間にわたり他の品種が混血していないと認められたものは、当該品種とする。

c 御崎馬・トカラ馬にあっては、それぞれの原産地で生産されたものであって、血統上3代前までの間又は原産地で過去15年間にわたり他の品種が混血していなく、外貌体系上品種の特性を備えているものとして品種判定委員会において認められた場合に新たに登録を開始する。

d (品種名)系種として登録された馬に同一の品種名の純粋種を連続2代にわたり交配して生まれた馬であって、外貌体系上その品種の特性を備えているものは、当分の間、その品種名の純粋種とすることができる。

 

上記をクリヤーし、公益社団法人日本馬事協会の「血統登録証」が交付された「馬」を「日本在来馬」と規定されている。

 

そのため、今回の掲載で疾走している「馬」たちは、西洋種との交配は祖先を遡ってもなされていない「北海道和種馬・木曾馬」を交配、繁殖、馴致・調教された「馬」である。これを「和種馬」と呼ぶ。

 

 

協力:石和八幡神社 

   甲州和式馬術探求会

   紅葉台木曾馬牧場

   龍神の皆さん

写真・割れ的提供:愛馬の会・林 佳夫氏

引用:歴史群像・図解 武器と甲冑

 

 

                     鈴木純夫

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の小田原城

小田原城古絵図

系図

伊勢・盛定(1432~1496)ー宗瑞(新九郎盛時・1454~1517)-北条氏綱(1487~1541)ー氏康(1517~1571)ー氏政(1539~1590)ー氏直(1562~1591)

盛定の家系は、備中国荏原郷(現在の岡山県井原市)を所領とした、備中伊勢氏に位置づく。嫡流ではなかったが伊勢氏本家の伊勢貞国の娘を妻にしていたため、室町幕府政所の頭人を務める重臣の立場にあった。盛時はその間に生まれ、伊勢氏本宗家の外甥の立場であった。また、盛定は伊勢氏の中でも、本宗家当主に次ぐ地位にあった備中守を称し、駿河国守護今川氏の取次(外交窓口)を務めていた。その娘で盛時の姉、すなわち北側殿は、今川義忠に妻になるが、それはそうした盛定と今川氏の関係に基づいたものであると位階出来る。盛時は京都に生まれ、文明15年(1473)10月11日に、室町幕府9代将軍足利義尚の申次衆となり、将軍側近の役割を果たすものであった。長享元年(1487)4月、32歳まで同地で過ごしたことがうかがえる。その後、盛時は伊勢宗瑞として今川家中にあって、遠江・三河の攻略、甲斐への侵攻、駿河・遠江の領域支配などの一躍を担う。明応2年(1493)伊豆に侵攻し、堀越公方足利茶々丸を敗走させた。同4年8月に韮山城、7年8月には八丈島などの伊豆諸島の支配にも着手し、扇谷上杉家重臣大森藤頼の拠る相模小田原城を手中にした。

氏綱は、大永3年(1523)6月から9月までの間に、名字を「伊勢氏」から「北条氏」に改めている。いうまでもなく鎌倉幕府執権北条氏に由来するものであり、同氏は代々相模守に任官されて「相州太守」と称されていた。氏綱が着目したのは、この「相州太守」北条氏としての政治的立場にあった。

天正18年(1590)4月、、氏政52歳・氏直29歳の時、豊臣秀吉が小田原合戦に22万人を動員し、自然の要害・難攻不落といわれていた小田原城も、同年7月5日降りしきる雨の中、氏政は切腹、氏直を赦免(家康の娘を妻としていた)した。明応2年(1493)宗瑞43歳で伊豆を平定してから5代・97年間、有力戦国大名家として活躍した「」が崩壊した。

 

2022年3月13日(日)

春の陣

小田原城北条馬揃えが、二の丸にて、騎馬:10騎、徒歩:20人で各団体が初めての演武を披露した。

 

市長・市議会議長挨拶

「歴史ある、北条氏5代を是非、NHKの大河ドラマに」

 

口上・1

お集まり頂きありがたき幸せに仕り候

北条家に使える御馬廻衆(おうま まわりしゅう)筆頭の漆沢太でござる

春の供覧と銘打ち、小田原城を御前に、御馬廻衆20名と、御馬10頭による御馬揃えをご披露致す

短い刻限にてはあるが最後までご覧願いたもうぞ

これより、開会に先立ち、蟇目の儀を執り行います

蟇目

演武の無事と、世界中が安全で幸せに暮らせる事を祈念する迫真の技!

 

馬上舞・馬場祓いを巧みな馬技で披露(天女の舞)

 

木曽系和種馬で、和式馬術にて、スペイン乗馬学校留学経験者による、5分間の馬場馬術披露(乗馬クラブ ウナパルテ代表・清水健介氏)

前肢旋回・後肢旋回・斜め横足・後ろ巻乗・スペイン仕込みのパッサージュ等々・圧巻の演技

 

武芸 弓手下(ゆんでした)

 

武芸 騎馬武者2人が薙刀を用いての迫力演武

薙刀が折れました

 

口上・2

これにて春の供覧、北条馬揃えを終了いたす

ご観覧ありがたき幸せに存じ候

これからも皆で力を合わせ「小田原」を盛り上げていこうぞ

 

 

主催:小田原市観光協会

協力:(株)サドルバック

    紅葉台木曾馬牧場

    乗馬クラブ ウナパルテ

    甲州和式馬術探求会

    里山武芸舎・生田覚通氏

 

 

 

 

                       鈴木純夫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2点疑問があり、ご本人に確認した。

1:和種馬

2:流鏑馬

「和種馬は北海道和種馬の血を濃く受け継ぐが、品種登録されていないために北海道和種馬とはいえない個体を供試動物として用いたためである。体格面では北海道和種馬としてもほとんど問題ないであろうが、学術的には適切である」

※上記に対して私の質問

1枚目の写真の親子は、母:日本馬事協会に血統登録されていない北海道和種馬。子馬:2枚目の写真、日本馬事協会に血統登録されていない種牡木曽馬の子供で、いわゆる「F1」である。この他に、血統登録されていない「与那国馬」も含めて「和種馬-(拙著、「過去と現在 そして未来の日本在来馬:項目12 和種馬の概念)」と言えるのでは。の問いに、松浦氏も同じくそのように解釈していると言っていただいた

 

「流鏑馬競技は、競馬と同じく数ある馬の競技のなかで襲歩が要求される競技である。さらに流鏑馬の調教の現場では、馬は短距離の襲歩を繰り返すことにとなり、競技とはまた違った運動負荷を強いられる。(中略)和種馬に全長140mの直線走路上の往路を襲歩させた後、いわゆる返し馬となる復路で①常歩のみ、②速歩→常歩、③速歩のみの3種クールダウン処理を設定し、襲歩運動後回復過程を評価した」

※流鏑馬競技はの、①襲歩②和種馬③140mについて伺った。

まず、流鏑馬を行っている以下の団体に、競技場の歩様、走路の長さを問い合わせた。

流鏑馬競技場

馬溜・A点・始点 走路 一の的・二の的・三の的 B点・終点 馬止場 馬溜

小笠原流流鏑馬

ホームページにて問い合わせたが返答無し。

武田流 流鏑馬保存会

①駆歩維持、②馬の取り決め無し、③走路:210m

始点→一の的:55m、的間:50m、三の的→終点55m

流鏑馬連盟

ホームページより

①駆歩維持、②和種または和種系とする、③走路:170m

始点→一の的:35m、的間:50m、三の的→終点:35m

馬の疾走時間

一の的の中心から前の地点5m→三の的の中心から後の5mまでの計110mを駆歩により、16秒以内で騎射を完了する(時速:24.75㎞)

甲州和式馬術求究会

①駆歩維持、②和種馬、③走路:155m

始点→一の的:25m、的間:53m、三の的→終点:24m

A点より前で待機し、奉行の合図で駆歩発進し、B点で停止させる。

松浦氏の返答

「日本の馬」に掲載された「在来馬運動能力は、論文ではなくただの文章であるため、流鏑馬競技についての内容も、3的を置かず・140mが走路を表すものでも、タイムを計測したものでもなく、馬の運動後の回復過程を検証したものである」と言われた。

であれば、わざわざ「流鏑馬」と言う必要はないと私は考えると疑問をなげた。が、話は堂々巡りで終わった。

 

読者の皆様は如何お考えになりますか?

 

協力 武田流 流鏑馬保存会

    甲州和式馬術探求会

 

写真提供 林 佳夫氏

 

 

                           鈴木純夫