足助(あすけ)城の歴史

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あの戦国の現場へ行こう!


【足助城レポ 1/18  】




 じつは荘園だった足助 




足助城(あすけじょう)がある足助は、もともと皇室領の荘園だった場所。



お隣の尾張国に清和源氏の血を引く、『浦野重長』という人がいました。



この浦野さんが足助荘の荘管職、つまり管理人に任命され、この地に赴き、『足助重長』と名乗り、足助一族が代々続きます。



さて、治承四年(1180)、この頃、源氏と平氏が闘っていました。



足助重長は源氏方に味方しましたが、美濃国墨俣で平氏に討たれてしまいます。



しかし源氏方となり戦ったので、平氏が滅びた後も足助氏は足助の地に根付く事になりました。






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そして飯盛山城、真弓山城をはじめ、後に足助七城といわれる諸城を築く事になります。



現在でもこの足助七城は城跡として残っており、地図に位置を落とすと、飯盛山城、真弓山城をぐるりと取り囲む様に配置されていることが分かります。






 ハイパー武将・足助重範 



時は流れ元弘元年(1331)、【元弘の変】の時。



六波羅探題に攻められた後醍醐天皇は、笠置山に移りますが、それを守ったのが足助氏七代目の当主・足助重範(しげのり)。






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太平記によると彼は3千余騎で笠置山を守りましたが、対する六波羅勢は十余万。



この時、重範は櫓の上に登り、大音声を上げ、2弓で数百メートル離れた敵将2名を見事に居抜きます。



たぶん伝説っぽい気もしますが、ともあれ弓の名手だったみたいです。



しかし重範の奮戦も虚しく、笠置山は落城。



重範も捕らえられ斬首。



その後、足助氏は急速に衰退し、いつの間にか歴史から消えてしまいます。





 鈴木さん登場 



戦国時代になると、新興勢力・鈴木氏が台等し、足助周辺は鈴木一族が支配します。



しかし世は戦国。



大永五年(1525)、岡崎の松平清康(徳川家康の祖父)に攻められ松平氏に従属するという条件で和解。



その後は松平氏に従いますが、松平清康が暗殺され松平氏勢力が弱まると、



天文二十一~二十三年頃(1552~54)、今川氏から攻められ、今川氏傘下に。



また桶狭間合戦後、松平元康(後の徳川家康)の攻撃を受け、松平氏傘下に。




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さらに元亀二年 (1571)、今度は甲斐の武田が攻めてきて、この時無血開城。



この頃、足助城は【松山城】と呼ばれていたみたいです。



しかし信玄が亡くなると、また徳川が攻めて来て鈴木さんは徳川に従います。



攻められまくった足助城ですが、この理由は、



・交通の要所



・もともと荘園があったので、米が結構取れたのではないか?



という説があります。



ともあれ真田昌幸も、うなづきそうな処世術で、見事乱世を生き抜きました。






 本多忠勝がキライだった? 



天正十八年(1590)、家康の関東移封に従い、鈴木さんも関東へ移住。



足助城はこの時に廃城となります。



しかしその後、浪人してしまい、歴史から消えてしまいます。



この鈴木さんが浪人になったのにはいろんな説があります。




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一説によると、関東移封の時、本多忠勝の配下に付けられたそうですが、忠勝とウマが合わず、浪人してしまったとか。



でもホントの理由はよく分かっていません。






さて、その後の足助城は、廃城のまま近世まで単なる【山】のままでしたが、平成四年に発掘調査が行われ、それをもとに城址公園として整備されました。



またこの【足助場】は、谷を挟んで2つあります。



ひとつが紅葉で有名な香嵐渓(こうらんけい)にある飯盛山(いいもりやま)城。



そしてもうひとつが公園整備された真弓山(まゆみやま)城。



飯盛山城が本城だったともいわれます。



今回のレポでは、その2つの【足助城】と、周辺の見どころをチェックしてみましょう!




※ 続きを読む → 足助城へのアクセス (電車&バス編)




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