自分が泥沼の世界にどっぷりと浸かってもがいていたころは、いわゆる「心の世界で」のスーパースターに憧れた。



今も


身体には泥がドロドロに付いているかもしれないが、おれは陸に這い上がった。


原因というか、きっかけを問われたら、そりゃあ、

心屋からの一義流だ。心屋は、沼ばっか見てないで周りの地面の方を見ようよ



と言ってくれていたわけだが、



じゃあ、余裕がなくて目の前の泥土ばっか見ている人に、目線を変えて地面に、地上に這いあがろうよと言ったとして




それに気づいて這い上がれる人と、あいも変わらず泥土の中でもがいている人がいると思いませんか?




その違いは、何に由来するのか?






それは、重いから這い上がれない




です。




あっちの方に行ったら、行きやすくなるのは分かっているし、行けないと思っている自分の思いは勘違いなんだから行けばいいんだよ



と、いくら言われても、2kgを抱えた人が頑張って向き合って岸に辿り着いて這い上がったのを見て30kgの重りを抱えた人が真似をしようとしても、途中で「苦しくて」挫折したり、苦しくて挫折したのを誤魔化して泥土の中で生きることを諦めたり


するわけです。





一義流は、その重りをぶっ壊して身軽にする手助けをするものです。




何を言おうか



私も泥土の中で、岸辺を遥か遠くに眺めては途方に暮れていたたちですが、

心屋に接しても、方向は分かるけど、その距離感に解決できる希望の光が見えそうで見えない日々を過ごしていたのですが、


一義流に接して



自分にまとわりつけていた重りが、時と共に少しずつ崩壊し、だんだんと身軽になって、ついには岸辺にたどり着いて這い上がったという





そんな感じです。





陸の世界でも



まだまだ修行が必要なことが多いですが



少なくとも、泥土の中でのものとは、方向性は同じでも感じ方がまた違います。



あいみょんの歌は



あくまでも、陸の世界


その世界の共通分脈を、学び直していく必要がある。

そんな風に思っています。



陸の上から泥土の方に向けて、


おーい、こっちこいよーと叫ぶ泥土のカリスマの言葉は



たまに弱って聴きに行くこともあるけれど、




でも、陸の上の世界でおれを感動させてくれる人の話を聴きたいなと思うのだ。