文喜進の死因は事故?(1)

 


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文喜進の死因は「事故?」「他殺?」・・・

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 文喜進(文鮮明教祖 戸籍上の第2子 1955年8月17日生まれ(母・金明煕が日本に密入国して日本で出産※詳細は下記に掲載)
1969年8月1日、中学二年の夏休みに開拓伝道に向かう途中列車にて死亡。
文鮮明教祖は喜進を「第一殉教者の立場」であるとした。

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<養育係 李貞玉の証> 
 (一九九九年)八月一日、喜進様の昇華三十周年である追慕の日を迎え、いつにも増して感慨深いものがあります。すでに、喜進様が殉教されてから三十年がたちました。私には、つい昨日のことのように感じられるのですが、月日というものは、早く過ぎ去るものです。私が、喜進様のお世話をさせていただくようになったのは、喜進様が七歳の時です。喜進様が、ソウルの青坡国民学校(日本の小学校)に入学されて、夏休みに入る十五日ぐらい前に、真のお父様が、「喜進を受け持って、育てなさい。」と、おっしゃいました。それで、私は、「そのようにいたします。」と申し上げ、中学校に入られる時まで、お世話することとなったのです。

その当時、真のお父様は、青坡洞の前本部教会のベランダで生活していらっしゃったのです。家もなく、洗濯物を干すベランダを修理して、そこで過ごしておられました。私たち教会の幹部も、本当にひどい家で暮らしていたのです。現在の青坡洞の前本部教会の両側に、板張りの粗末な家がありました。そこには、崔容碩氏夫妻、文成均社長夫妻、黄煥■氏夫婦などがいらっしゃいました。その中の一部屋に、喜進様がいらっしゃったのです。そのほかにも、池承道おばあさん、李起錫・池生蓮夫妻、金元弼氏夫妻が暮らしていました。

その家は粗末な小屋だったので、冬はとても寒く、夏はとても暑かったのです。そのような所に、喜進様とふたりで暮らすようになりました。
私が喜進様を受け持つようになったのですが、それまで皆、忙しくて、お世話をしてさしあげる人がいなかったため、喜進様は初め、正しい鉛筆の握り方も知りませんでした。それで、鉛筆の握り方から教え始めたのです。

喜進様は、大変度量があり、まだ幼いのに、とても心が広く、また従順でした。そして、顔立ちも、どれほど整っていたことか、とても美男子で、どこに連れて行っても驚かれ、このかたは、本当に偉大な人物になるということを感じさせてくれました。目が大きく、まつげがとても長いのです。あるとき、あまりにまつげが長いと言われるので、自ら、はさみでまつげを切るほどでした。そのような目で、ほほえみを浮かべているのです。どれほど格好がよかったでしょうか。夏休みの間、喜進様と共に過ごし、二学期からは、きちんと勉強を教えることができるようになりました。喜進様は、ご自分だけのために、いつも私がそばにいるので、とても喜んでおられました。そのようにして、勉強を教え始めたのですが、一年生が終わり、二年生になったころから、次第に成績が上がっていきました。とても目覚ましく成績が上がり、二年生の二学期には、最高の成績を取りました。そして、三年生の一学期を迎えたのですが、そのときは、青坡国民学校の教室は、生徒がすし詰め状態でした。一学級が七十人ほどだったのですが、それが十二学級あるのです。

あるとき、予告なく突然、十二学級全体で試験が行われました。十二学級で八百人以上の生徒がいたのですが、喜進様は、そこでトップになられたのです。

担任の先生も、とても喜んで、私の所に電話をしてきました。喜進様は、それほど頭脳も明晰だったのです。歌も、とてもお上手でした。音程が正確で、速いリズムの歌を、驚くほど上手に歌われるのです。四年生のとき、あまりに上手なので、担任の先生が喜進様の歌を録音しました。

そして、私の所にそれを持ってきて、「聞いてみてください。」と言うのです。それを聞いてみると、とても正確に、美しく歌っておられました。また、喜進様は、私が言うとおりに、本当に従順に、よく従われました。そして、聖進様に対して、「兄さん。兄さん。」と呼んで、絶対的に従ったのです。聖進様が、「こっちに来い。」と言われれば、ついて行き、「あっちに行け。」と言われれば、そちらに行かれるほどでした。最初は幼いので、「兄さん」と言っていたので、私が、こう言いました。「聖進様は、喜進様と年齢が十歳ほど離れているのです。ですから、ただ『兄さん』と呼ぶのではなく、『お兄様( ヒョンニム)』とお呼びし、必ず尊敬語を使わなければなりません。」それ以後は、そのとおりに尊敬語で、「お兄様」と呼び、聖進様の言うことに、とてもよく従い、とても尊敬しておられました。そのようなお姿を見るにつけても、私は、“真のお父様のご家庭は、やはり完成している家庭なのだな。”と思いました。
 その後、孝進様が大きくなっていかれるのですが、孝進様の下の興進様をはじめとする弟、妹のご子女様がたも、孝進様のおっしゃることならば、絶対的に従い、服従していかれました。ですから、“本当に、真のお父様のご家庭は、やはり違う。弟、妹たちが、幼いときから上下の秩序を理解して、兄に対しておられる。”ということを、私は感じるのです。
 聖進様は、外出されるとき、よく喜進様を一緒に連れて歩かれました。聖進様が作られたおもちゃを、すべて喜進様に与えられました。喜進様は、本当に喜ばれ、それを使って、よく遊んでおられました。あるとき、聖進様が、金元弼先生と二人で、どこかに外出されるときに、「喜進よ。お前は家にいなさい。」と言われたことがあります。「ついて来るな。」という意味です。そのとき、喜進様は、「はい。」と言って、部屋に入って行かれたのです。それで、私が部屋に入って行って見ると、“ついて行きたい。”という心を抑えようとして、部屋の中でじだんだを踏んでおられるのです。聖進様には、「はい。」と言ったのですが、「お兄さん、私もついて行きたい。」と言って、甘えて当然な年齢です。それを見て、どれほど心痛かったことでしょうか。幼くても、お兄さんにこのように服従し、“ついて行きたい。”という心を、このように自分独りで抑えようとして、どうすることもできないので、じだんだを踏んでおられるのです。喜進様は、三年生の時には、級長になられました。私に、「僕、きょう、級長になった。」と言って、とても喜んでおられるのです。それで、「何が、そのようにうれしいのですか?」と聞くと、「僕が、『ならえ。』と言えば、一斉に“ならえ”をして、『休め。』と言えば、休み、命令一つで、学級全体が思いどおりに動くので、それを見ると気分が良い。」と言われるのです。それで、真のお父様の所に伺って、ご報告申し上げました。「自分の命令一つで学級全体が一斉に従い、ぱっぱっと動くのを見て、気分が良いようです。」と、申し上げると、真のお父様も、大変に喜んでいらっしゃいました。
 喜進様が、三年生の夏休みのとき、私は、巡回伝道に出ることになりました。そのときは、男性二人と女性一人で、六か月間、巡回をしながら伝道する期間でした。特別伝道です。ですから、喜進様のお世話をしてさしあげることができませんでした。私が、しっかりと勉強もさせ、きちんと軌道に乗せていたのですが、六か月の巡回伝道から戻って来て、ある日、答案用紙を見てみると、なんと、算数が三十点でした。そのとき、喜進様は、まだ幼く、とても遊びたい時期です。私がいなかったので、ひたすら遊んでしまったのでした。それで、真のお父様に、その答案用紙をお見せしながら、「これではいけません。もう一度、私が指導しなければなりません。」と申し上げて、また、喜進様を受け持つことになりました。
 その時代は、中学校に入るのも試験が難しく、高校に入るのも、大学に入るのも難しく、家庭教師などをつけて勉強をしなくては、到底入ることができない状況でした。その当時は、私立の学校に入ることが、とても難しかったのです。喜進様が五年生になられた時、私は、真のお父様に申し上げました。「喜進様を、このように青坡国民学校に置いておかれてはいけません。私立の学校に移したらよいと思います。」と申し上げたところ、真のお父様は、「そのようにしなさい。」と、おっしゃいました。その当時、私立の学校がたくさんありましたが、景福国民学校は、勉強をとてもしっかりと教える学校でした。それで、多くの私立の学校の中から景福国民学校を選び、私が行って、そこの校長先生に会いました。「五年生で転学するということは、難しいことかもしれませんが、入れていただけないでしょうか」と。そのとき、喜進様を連れて行っていました。最初は、校長先生が「難しい。」と言っていたのですが、喜進様を見て、「いやあ! とても賢そうだ。君は、大統領になる人材だ。」と言って、喜進様の、その人物にほれ込み、入学を許可してくれたのです。それで、喜進様は五年生から、景福国民学校で勉強をするようになりました。

それから、譽進様、孝進様、興進様と、真のご子女様たちが景福国民学校へ入学され、それが契機となって、今の仙和学園の景福初等学校を真のお父様が後に買われたのです。喜進様は、学校にきちんと通われました。そして、勉強も一所懸命にされて、中東中学校に入学されるようになりました。
 その後、私は上道洞(ソウル・銅雀区)に行って暮らすようになり、喜進様は、以前、喜進様のお世話をしていた金元弼先生が、再び受け持つようになりました。中学校では、高校入試の準備をしなければならないので、夏休みも遊ばないで、勉強をさせなければなりません。しかし、二年生の夏休みに、七月二十日から八月末までの四十日特別伝道期間がありました。
 その伝道期間が来る前に、約二十日間の修練会があったのですが、喜進様は、その修練会に参加されました。もちろん、私は、真のお父様が、どのようなおかたであられるのかということを、お話ししてありましたが、そのとき、喜進様は、ただ“そのようなものなのか。”と、軽く考えておられたのです。しかし、正式にこのような修練を受けながら、多くの友人と一緒に、真のお父様がいかなるおかたであられるのかということを講師から聞いた後には、“私のお父様は、そのようなおかたなのか。私のお父様が、主であられるのか。再臨主なのか。それならば、私が伝道に行かなければならない。”と、思われたのです。喜進様は、修練を受けたのちに、「伝道に行く。」と言われたのでした。私は、いったんお世話から手を引いていたので、喜進様が修練会に参加しておられるということも知りませんでした。
 そのころは、李京■博士(現、鮮文大学校総長)と私とで、土曜日は本部教会に来て、そこで寝て、朝、真のご父母様との敬礼式に参加して、朝食を食べ、礼拝をささげて、午後、家に帰るという生活をしていました。ですから、一週間に一度、本部教会に来ていたのですが、そのとき、土曜日に本部教会に行ってみると、喜進様が、「伝道に出掛ける。」と言われるのです。私は心の中で、“もちろん伝道も大切だが、今、喜進様は、勉強をされなければならない時なのに、夏休みに伝道に行かれれば、勉強に集中できなくなるのではないか?”と、少し心配になりました。それで、その日の晩、
真のご父母様、崔元福先生がいらっしゃるときに、真のお父様に、「今回の休みの期間は、喜進様に勉強をさせなければなりません。伝道に出て行けば、勉強をする時間がありません。」と、申し上げました。
 しかし、喜進様は、すでに伝道に出掛けることに決定されていたのです。私が、その時になって、そのようなことを申し上げたので、真のお父様も、お母様も何もおっしゃらず、崔先生(※崔元福)が私に、「そのようなことは、言ってはいけない。」と言われました。
 不思議にも、その土曜日の晩は、一睡もできませんでした。眠気が来ないのです。翌朝、食事をするときに、喜進様が何と言われたかというと、「おばさん。きのうの晩、一睡もできなかったのですか?」と、聞かれるのです。「えっ、何で知っているのですか?」と聞くと、私が寝床で、ごそごそしていたと言われるのです。喜進様も、眠ることができなかったのです。そのような話をして、朝食を取ってから、真のご父母様にごあいさつに伺うと、伝道に出発するということで、お金も下さいました。そのとき、私は、“特別にお供するかたがいるはずだ。”と思っていたのですが、喜進様は、お独りで出発されたのです。喜進様が乗られた汽車は、普通列車でした。駅ごとに止まる列車です。その列車の中は、人でいっぱいで、空席も満足にありませんでした。そのような列車に、修練生全員が乗ったのです。喜進様は、暑いので、汽車の入り口の所にある取っ手を手でつかんで、風に当たっていたのです。風が吹いてきて、どれほど涼しかったことでしょうか。そのようにしていたところ、電信柱にぶつかって、事故が起きたのです。午後に、その悲報が届きました。私は、少しけがをした程度だと思っていました。昇華されるとは思いもしませんでした。
 そのころ、真のお父様は、毎日のように、水澤里の工場に行かれていました。真のお父様に連絡をすると、戻って来られました。真のお父様は、うわべは泰然としていらっしゃり、涙一つ流されませんでした。み旨から見て、“涙を流してはいけない”と考えられるので、ぐっと我慢していらっしゃるのです。真のお父様は、み旨であれば、絶対的です。お父様は、恐ろしいものがありません。真のお父様は、そのように大胆で、勇敢なおかたですが、“ひょっとして、み旨に支障があるのではないか、み旨が延長されるのではないか。”ということに対するお父様の恐れは、言葉で言うことができないほどです。ですから、み旨から外れることは、みじんもありません。ですから、子女も天にゆだねられ、何事も天にゆだねられ、“カインを先に伝道してから、アベルを伝道しなさい。”というみ言を、真のお父様ご自身が実践していらっしゃったのです。真のお父様が、私たちに下さる一つひとつのみ言は、すべてお父様が、あらかじめ実践されたものです。必ず実践されてから、私たちに語られるのです。ですから、真のお父様は、偉大であられるのです。そのような指導者が、どこにいるでしょうか。それゆえに、真のお父様は、「わたしは、自分の父母が何をしているのか分からない。わたしのお兄さんは、わたしの言うことならば、何でもすべて聞いてくれ、従ってくれた。しかし、わたしは、お兄さんにも、このみ言を語ることができなかった。」と、いつもおっしゃっています。それは、事実でした。金英順氏を通した忠母様のメッセージがありました。真のお父様は、ご自分の両親、兄弟には、ご自身が何をしているのかということを、一切、語られなかったのです。なぜでしょうか? カインを先に伝道し、カインがアベルの前に屈伏した後に、初めてみ言を語ろうとされたからです。真のお父様は、そのようなおかたでいらっしゃるので、この喜進様の昇華を前にしても、私たちが見るに、悲しんでいらっしゃらず、泰然自若としていらっしゃいました。しかし、毎日のように水澤里に行かれるお父様が、三日間行かれず、家にいらっしゃったのです。その夏、真のお父様は風邪を引かれました。どれほどのどが痛かったのでしょうか、私に向かわれて、「こののどを、少し見てみなさい。のどが痛い。」とおっしゃり、お父様が口を開かれたのですが、見て、びっくりしました。へんとうせんの近くに、ぽんと、穴が開いていたのです。それで、「お父様、これは大変なことになりました。このような状態で、どれほど痛かったことでしょうか。病院に行かなければなりません。病院に行きましょう。」と申し上げたのですが、「絶対に病院に行かない。」とおっしゃるのです。私に向かって、「何とか、少し治療してみなさい。」とおっしゃるのです。それで、私が薬局に行って、薬を買ってきて塗ってさしあげ、やがて治りました。ここにいる祝福家庭の皆さんも、皆、子供を持っているので、分かるでしょう。その胸の張り裂けるような、喜進様の死に対する言うに言えない悲しみと胸の痛みを、何をもって比較することができるでしょうか? それで、のどに穴が開いてしまったのです。
“真のお父様は、このように耐えていらっしゃる。このように歯を食いしばり、涙を流さないように努力していらっしゃる。”ということを感じるとき、涙が止まりませんでした。真のお父様は、それが天のみ旨ならば、絶対的であられるということを、再度、感じ、私は、こうべを垂れて、尊敬してやみませんでした。
 喜進様は、修練を受けられてから、“私のお父様が、このような素晴らしいおかたであった。”ということを意識するようになったのでしょう。それで、“私が伝道に行かなければならない。”と思われて、伝道の道に出発し、事故に遭われたのです。どれほど痛ましいことでしょうか? そのようにして、喜進様は、その一生を高潔に終えられました。逝かれるときも、ただそのまま逝かれたのではなく、そのように余韻を残され、多くの人に模範を見せてくださいました。四十日伝道というものが、どれほど重要かということを自ら実践されながら、死をもって見せてくださった喜進様の精神を、私たちは見習わなければならないと思うのです。今、真のお父様は、“統班撃破”や「訓読会」をするようにとおっしゃっています。私たちは、喜進様のことを思っても、真のお父様のみ言に従って、これらのことを実践し、実績を上げなければなりません。私が、喜進様のお姿を、すべて完全に紹介できたかどうか分かりませんが、そのように元気で、常に明朗で、美しい容貌を持っておられたのです。そして、幼くても、真のお父様に似て、体格がどれほどりっぱであったか分かりません。その骨格は、本当にお父様に似ていらっしゃいました。それで、小学校でも、ひときわりっぱに見えたのです。そのような喜進様でした。
 きょうは、私が見た喜進様のお姿を、簡単に皆さんに紹介いたしました。ありがとうございました。

(李貞玉の証(喜進様を追慕して)より)
(※李貞玉は1956年に統一教会に入教。1998年6月13日文鮮明教祖からマホメットの妻として霊界祝福されている)
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<草創期からの古参教会員の文喜進の死因について言及>
[334]題名:Re: 詳しい方に質問 投稿者:itiro
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戦後まもなく崔先吉という女性と婚姻届を出すこの女に生まれたのが文聖進この方は日本在住という話だが昔お目にかかったことはあるがもの静かな方という印象ただ実の妹と結婚させられた、次に婚姻届を出したのがツルコ(韓鶴子)である他はどのようなことかよく知らないが
文鮮明と金明煕との間の子が文喜進この子は14歳で列車から突き落とされて殺された、ツルコとの結婚の時はすでに大勢の女と関係を持っていた、ご本人曰く16歳の生娘から80歳の老婆までと豪語している、ツルコとの世界路程とやらで海外旅行並びに日本洗脳をおこなった、どういうことかというと西川先生の下独特の雰囲気中性的というか新約的聖家族主義を作り上げていた日本の教会の空気をブンセンメー流な(性)行為中心の気風に作り替えた、そのご一行とは三人でホテルの一室を借りて楽しみにふけりながらの世界路程であった、その三人とはブンセンメー、ツルコ、と崔元福先生であった、崔元福を先生というのはこの世では梨花女子大の教授であったからである、この崔先生はなかなか如才ない方ですっぴんのブスくれた教会の女性ばかりみていた私には全く異質の女性であった、化粧はばっちりしているし高価なイヤリングや首輪をしてきているものも一流品ばかりと見えたまたお話が好きで、三人の性生活まで話してくれた私とするときはもうすでにツルコとは終えて長丁場でいろいろ話しながら楽しみますが、脇ですっかり疲れはててぐっすり寝ているツルコをみながら「私も悪い男だよなあ」などとおしゃるのですよ。などという話を半分わからず聞いていました。・・・
(ブログ「統一教会 最下層信者」の再開を願う掲示板より)
http://co.koroweb.com/b/r.cgi?nan=90&log=threadobserver
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私が教会にいたころ「喜進様は列車事故で亡くなった」と聞かされていました。私はてっきり話の内容から「電車に轢かれて亡くなった」と思っていましたが、養育係の李貞玉さんの証を読むと、「汽車の入り口の所にある取っ手を手でつかんで風に当たっていたら電信柱にぶつかって死亡した」とあります。状況からいって「無理がある説明」に感じます。私は、古参教会員itiroさんの証言(教会内の噂だったとしても)の「列車から突き落とされて殺された」という内容のほうが説明がしっくりくるように思うのです。養育係の李貞玉さんの証の中に「喜進様は頭脳明晰で性格もよく文鮮明教祖によく似ていながら美男子で、どこに連れて行っても「大人物になる」と言われるくらいすばらしい」と褒め称えています。まあ、このことが崔元福先生や(韓鶴子)真のお母様の危機感を抱かせてことが、文喜進の死亡につながったかは教会側としては真相は闇の中に葬り去るでしょう。


(継母の鶴子夫人と喜進)


(左から聖進、文教祖、誉進、孝進、鶴子夫人、喜進)


(左から文教祖、誉進、西川勝先生、喜進、鶴子夫人)

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<金明熙さんが文喜進を出産したときの状況>
 金永姫(金明熙)を妊娠させたことに気付いた文鮮明は、自分の立場が危うくなることを怖れ、彼女を同じ大学の学生で食口になった純粋な青年、呉昇澤と一緒に日本へ行かせることにした。外国での生活を保障すると約束して、釜山から漁船で密航させたのである。密航資金は文鮮明が手渡した。日本での二人は言葉も通じず、密航者の身で入院もできないため、ひどい環境の中で出産した。若い呉昇澤は、赤ん坊のヘソの緒を自分の歯で噛み切って、子供を産ませたそうである。
 持ってきたわずかな金を使い果たしてしまい、文鮮明からの生活費もこなかった。待ちくたびれた呉昇澤は、日本へ密航させられるとき、文鮮明が呼ぶまでは韓国に戻らない約束をしてはいたが、文鮮明のところへ戻るために再び密航した。言葉も通じない場所でたいへんな苦労をしていた二人は、まず呉青年が韓国へ帰って直接文鮮明に話し、生活費などをもらうつもりだった。
 呉昇澤は、文鮮明に会って自分たちの窮状を話し、生活費を求めたのだが、文鮮明はこれを一言で断ったのである。こんなひどい話は聞いたことがない。普通の人でも、こういう状況に置かれた人に、こんな仕打ちはしないだろう。まして「再臨メシア」ともあろう人が、自分で責任をとるのが当然であるにもかかわらず、こういう非道な裏切りを平然とされたので、呉昇澤は、怒った。彼はただちに、それまで再臨メシアと信じ仰いできた文鮮明と訣別した。
 実はこのとき、文鮮明は「そんな金はない。自分たちで考えてやれ!」と言ったのである。私は文鮮明の隣にいたのでよく覚えている。文鮮明の言葉に呉昇澤は怒り狂い、「何を言うか。よし覚えていろ!貴様はサタンだ!」と、床を蹴って飛び出していった。
呉青年が怒って飛び出したとき、その場に七、八人いたが、誰も内心ではひどい話だと思いながら、何もしてやれなかった。私は、今でもその事に、良心の呵責を感じる。
 西も東もわからない日本で、金永姫はひたすら、金を持って戻る呉昇澤を待った。待てど暮らせど帰らぬ日々、赤ん坊をかかえた金永姫の苦労は大変なものがあった。
そんな金永姫の母子を、九州の大村収容所で発見した韓国人の黄某が、彼女を韓国に連れて帰った。金もパスポートも持たない金永姫は、大村収容所へ入れられてから、三ヶ月が過ぎていたそうである。
金永姫が子どもを連れて帰ってきたので、文鮮明は仕方なく子どもだけは自分の籍に入籍した。
子どもの名前は文喜進という。
(中略)
 それ以外にも「小羊の儀式」を挙げるという口実で、処女の李聖礼を復帰し、彼女にも子どもを産ませた。その子も、ある幹部の息子として養育されているという話だ。こんなことが許されていいのだろうか。

(「六マリアの悲劇 真のサタンは文選明だ!!」朴正華P.247より)


「文喜進の死因は事故?(2)」へ続く
もう少し詳しく検証しています。


※初回更新日 2010-12-31 06:25:50


~~~~~~転載終わり。

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喜進が亡くなったのは、誕生日前の満13歳。

文鮮明の子供で、開拓伝道に行かせられたのは、喜進だけ・・・。

しかも13歳の時・・・。