文鮮明教祖が一番、与えたことを決して忘れない陰湿な人!
(「純潔」は日本人拡大の為の表向きの教義・・・、現実は教祖なんて妾に隠し子淫ランだったのにも驚いたけど・・・、息子は六マリア「INRAN」を認め教祖自身、数百マリアと告白!)
・・・だったとは!改めて絶句!
転載。加工あり。
NO.8291
2011年11月5日土曜日 22:27 メイ
祝福封建制
「天国は家庭から成される。家庭からでなくては駄目なのだ。」
そう文鮮明は熱く語っていた。
ならば、家庭を窮地に追い詰めて
次々と破綻させておきながら、救済の手を差し伸べない組織的な姿勢は、スジが通らない。つまり、表向きとは別の意図で動いている。
原理講論には、王という言葉が367回出てくる。
王政時代に編纂された本でもない、李王朝の復興運動でもないのに、原理講論では王という言葉が頻繁に登場する。王権を志向する文鮮明の思いは並々ではない。
彼が王の王として人々を服従させるには、この手法が用いられる。
手法 典型
恩を最大限に売りつけておく → 祝福
罪悪感を最大限に植え付けておく→ 歴史
達成不能な目標に駆り立てる → 摂理
良心を最大限に歪めておく → 天の事情
こうして霊感商法、清平参り、歴史問題などを駆使し、大金集めに能動的、動的、積極的、外向的、創造的に勝利すれば、中心的な主体として称えられる。
しかし大金集めの劣等生は、受動的、静的、消極的、内向的、保守的で依存的な対象として貶められる。
こうした組織の相次ぐ要求を理解すれば、いや理解できなくても、きっと深い意味があるに違いないと信じて協力すれば、心情的で基準の高い人とされる。
ただし、組織の実体があまり露骨では世間の風当たりが強いので、あくまでも保守的、家庭的な姿を前面に出して、
人寄せパンダとしている。
統一原理は、姿を変えた階級史観、変異した階級理論として、労働者と資本家の代わりに、選民とサタン民族、韓国と日本という闘争史観に立脚している。
それは、対立、闘争が主な要因であり、協力、提携した関係は副次的な面に過ぎないという歴史観だ。
過去の恨みに満ちた闘争心に立脚するので、どんなに日本人を苦しめても良心が痛むことなく、蕩減の一言で済まされる。
過去に対するそうした基本認識から、平和統一の未来が誕生するなど、狂った妄想に過ぎない。
真の父というが、文鮮明が日本から来た食口達の前に出てきても、延々と話す一方だ。その時間の約95%は、一人で話し続ける自己陶酔の説教だ。
4%は、イエィとか手を上げて賛同の言葉を叫ばせる。
対話らしきことは、1%あるかないかだ。質疑応答の時間は設けられていない。
はるばる訪ねて来た子がいれば、子の様子を尋ね、質問に答え、子との対話を楽しみ、心を通わせたいと願うのが、親の関心事というものだ。
何か困っていることはないかと。たとえ解っていても、きっかけとして尋ねてみるだろう。
しかし、文鮮明ほど一方的な人間を真の父として崇め奉る人達が、また同様に、人々の窮状に無関心で、直視せず、聞く耳を持たず、知ろうともしない態度なのは、まさに文鮮明気取りだ。
与えて与えて、与えたことを忘れよと統一教会では教えている。
しかし実際は、与えたことを決して忘れない組織だ。
祝福という恩を与えたことで、これでもかこれでもかと、何かあるたびに祝福泥棒という罵り言葉が日常用語となっている。
それは、与えたことを決して忘れない陰湿な人だという自己証明に他ならない。
与えたことを忘れよという教えと平気で逆行する二重人格の自己証明に他ならない。
嘘は泥棒の始まり。嘘の常習犯は、すでに泥棒常習犯か候補者になっている。
ともに神に祈った上での、神の祝福という神聖な祝い事を、教祖の与えた祝福として恩着せの常套手段にし、詐欺師と泥棒の世迷いごとにしてしまう。
祝福泥棒という言葉は、文鮮明から発せられて蔓延した。
韓日闘争史観に立脚する外来の原理を日本人が持ち上げれば持ち上げるほど、異様なほど闘争的な人間になり、攻撃や勝利の為には手段を選ばぬ卑劣漢になる。それは、統一原理主義者に典型的に見られる。
そうした後ろ姿を知らず知らずに見せ、それを許容しながら、どんな伝道に励んでも、自ら行く末を暗澹とさせ、責任転嫁にいそしむ現状を拡大する一方だ。
そう言って説明しながら、友人は深呼吸を繰り返しました。
~~~~~~~~転載終わり。