転載。加工あり。

NO.8623
2013年6月27日木曜日 10:20 メイ

落第生としての文鮮明


文鮮明は、原理講論や統一原理が日本に投下された原爆よりずっと強大な力を持つと自慢していた。武器商人と呼ばれた人物らしい例えだ。

善なる方向で強大なら良いのだが、何しろ強大な権力を志向し、王の中の王だと言って誇示し、しかも前科ある人物だけに、その意図するところが気になる。

偏った歴史観を世界中に拡散することで、核兵器以上の影響力を日本に対して行使できることを、彼は大いに期待していたようだ。

偏ったイデオロギーの数々が世界に与えてきた執拗な影響力と、その歴史的な教訓を見ても、これは看過できない問題だ。

原爆による破壊力や後遺症に比べ、穏健を偽装した極端なイデオロギーによる破壊力や後遺症は、更に広範かつ長期に及ぶのだろう。

それに対しては、元食口も現役も、一人一人がまさに責任ある立場になる。


以前言ったことを、より正確に言うと、こちらから否定するまでもない現実が
ある。
つまり、真の父母だと宣言する当人こそが、真の父母たることを完全否定する
結果を如実に示している。
表向きの宣言を否定しているのは、文鮮明夫妻自身の裏行動に他ならない。

平和統一を否定しているのは、統一原理の熱心な信奉者自身であり、彼等は決して平和統一できない集団であることを、その裏行動で実証して見せている。世の中の諸問題を解消するどころか、延々と厄介な問題を作りだし、対抗意識を煽り、こじらせて行く。

基督教統一どころか、内部統一さえできない集団であることを実証しているの
は、統一原理の信奉者自身、統一教会自身だという厳粛な事実が山ほど累積している。

だから、わざわざこちらから、真の父母や統一原理や統一教会を否定するまで
もないのが実状だ。

ただ、真の父母や統一原理や統一教会の美辞麗句に隠された姿が表に現れさえすれば、鏡に映し出されたように本当の姿が鮮明になってくる。

脱会者や反対派や分派が否定するからどうこうという問題ではない。

ちょっとした、率直な一文を通してでも、実像が鮮明になって行く。
美辞麗句に包まれた不鮮明な姿とは違う実体が、そこに顕現する。

真の父母や統一原理や統一教会を、どんなに熱心な食口が擁護しても、到底擁護しきれないことになる。たとえ誰かが真の父母や統一原理や統一教会をせっせとかばったとしても、かばいきれないほどのボロが出てくるだろう。

そのことを熱心な食口も内心で解っているから、言葉数で相手を圧倒したり、
話を歪曲して責め立てたり、裏で嫌がらせに励み、実力行使で鬱憤を晴らすの
が、彼等の行動パターンになっている。

それは、真の父母や統一原理に問題の原因や責任があるからでなく、あくまで
もサタン側に問題の原因と責任があるというご都合主義の発想だ。
そして、サタン側に対しては何をしても許される、という自己正当化に徹する
姿勢だ。

サタン民族日本の法律を犯してでも利益を勝ち取ることは、選民側の権利だ、マンセイ、という発想に、日本人まで麻痺させられ、霊感商法を擁護するのが信仰心だという錯覚が横行している。この先、どんな錯覚や錯乱が横行しても何ら不思議のない組織が統一教会だという懸念が深まっている。

ところで、統一教会には、先に打ってくるのがサタン側だという定義がある。
だから、先に打って来たのは相手だという口実さえ掲げれば、あらゆる反撃行
為が正当化される仕組みになっている。

先に心情蹂躙してきたのは相手だという都合の良い口実さえ付ければ、相手に何をしようと心情蹂躙ではないという裏の逃げ道が統一教会には備わっている。

それは、問題を解決する方向ではなく、問題を解決すると見せかけて解決しな
いことによって自己を有利にする、冷徹な功利性の集団構造になっている。

先に法やルールを破り続け、人権を侵害し続け、心情を蹂躙し続けたことは完全に無視し、やれ批判された、叩かれた、最初に叩いて来るのがサタンだ、と言うのが統一教会流の陰険な理屈になっている。

そうした集団の中で、虚心坦懐な対話による問題解決は、望むべくもない。
その絶望的なパターンは、信仰の二世までも自殺に追い込んで行くほど、悪循
環と偽善にまみれている。

ところで、文鮮明は、こう言っている。

「落第した人たちは、人よりもっと寝たり、もっと食べたり、
とにかく人より一つでももっと楽に過ごした人たちなのです。」
「文鮮明先生マルスム選集」第19巻

人よりもっと、もっと、一人でも多くの異性達と寝たり、朝からリッチな食事をしたり、高級ゴルフクラブ、カジノ、高級リゾートホテル等を満喫した教祖自身、「一つでも」どころか、あれもこれも、たっぷり「楽に過ごした」以上、人生の万年落第生であると自己証明したようなものだ。

こうした自縄自縛の姿を隠すために、脱会者のことを「堕ちた」と言って見下し、相対的に自らを高みに持ち上げるのが、統一教会流の思考パターンになっている。その思考方法にはまることを、罠にはまったとは思わず、信仰基準が上がったと思い込む。その自己陶酔は、豊かな理性や心情の妨げになっている。


そうした友人の説明に、今も一理あるかどうかのご判断は、皆様にお任せしま
す。