曽野綾子 続 | miguel664のブログ

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曽野綾子についてもう一つ。

この人はスポーツがお嫌いらしい。

より詳しく言うとスポーツを否定しているのではなく、見るスポーツを、競技を嫌っているようだ。

オリンピックでメダルを取った日本人が
「自分をほめてあげたい」といったことがある。

これについて自分に対しては「上げる」は日本語の用法としておかしいとおっしゃる。

それはその通りであろう。

この選手はすでに全盛期を過ぎていると目されていたし、予選会もややレベルの落ちる大会で勝って代表に選ばれていた。

この選考はおかしいという声がいくつもあったし、正直あまり期待されていなかった。

そんなこんなの経過を経てのメダル獲得である。

我々はその台詞に万感の思いを聞き取った。

言葉遣いなぞこの際どうでもいい。

いまやNHKのアナウンサーでも花に水を上げ、犬に餌を上げ、ただの通行人をいらっしゃいますといい、挙句は犯人の方も早く捕まっていただきたい、なぞという。

文句をいうなら話し言葉の専門家であるその方面に言うべきである。


もうひとつ、曽野氏のいうには競技者は自分一人の力でメダルを取ったのではない。

周囲の大きな物心両面の支えがあって初めて練習に打ち込めるはずであり、それに対する感謝がない、ともおっしゃる。

これを書いた時にはそういう風潮もあったかもしれない。

しかし、現在のアスリートはマイクを向けられると必ず真っ先に
「皆様のご支援のおかげでここまで来ました」などという。

よほど周囲に教育されているのだろう。

これに関して曽野氏の発言が契機となっているならそれは有意義な発言であった。


さらにこの人は
「為せば成る」という言葉がお嫌いらしい。

言うまでもなく、米沢藩の中興の祖上杉鷹山の言葉であり、「為さねばならぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」と続く。

64年東京オリンピックの時に女子バレーを優勝に導いた大松博文監督が「為せば成る」といった。

曽野氏は世の中には為しても成らぬものがあり、それを認識することが大事だという。

この人はこの種の思考原理をもっていて、たとえば話し合いで戦争が回避できるなどという幻想を持ってはいけないという。

それはそうであろう、特に曽野氏の詳しい中東ではそんな夢物語は成立しない。

しかし、東京オリンピックの東洋の魔女に関しては文字通りに為せば成ってしまったのである。

当時はオリンピックはアマチュアのスポーツ祭典であり、例外としてソ連をはじめとする共産圏諸国だけは国で丸抱えにしてスポーツ強化に当たっていた。

東洋の魔女たち(他チームの選手も参加していたが、主力はニチボウ貝塚)は昼間は普通にニチボウ貝塚で働き、職務終了後に体育館に集まり練習した。

夜中になりお腹がすくとインスタントラーメンをすすって練習を続けたという。

およそ科学的練習法などというものとは程遠い。

おそらくスポーツ史においても猛練習と根性のみで勝ち取った最後のオリンピック優勝であろう。

為せば成るという言葉には多分に精神論の色彩がある。

大松監督のような戦前派はあるいは精神至上論を持っていたかも知れないが、現在のアスリートも指導するコーチはそうではあるまい。

それでも今も「為せば成る」という言葉は生きている。

思うに、これは苦しい練習を続けるための動機づけの標語であろう。

くじけそうな自分を奮い立たせるための。

陸上競技短距離の日本人:例えば期待の桐生クンにしても猛練習した暁にはウサイン・ボルトを破る日が来るとは思っていまい。

それでも最大限の努力をするためのスローガンとして「為せば成る」という。

少なくとも為さねばならぬのは本当である。



と、曽野綾子に対して批判めいたことを書いてきたが、この人のエッセイに書かれていることの多くには賛同する。