「戦時中の三船ちゃん ~蒲生野40号より 八日市郷土文化研究会~」 | ヲタが、三船敏郎に恋をした。

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「世界のミフネ」の航空兵時代

中島伸男 編


・ささやかな餞として

三船敏郎。大正九年(1920)四月一日、中国・青島の生まれ。
昭和二十二年に東宝第一期ニューフェイスとして登場、
谷口千吉監督「銀嶺の果て」でデビューした。翌年、黒澤明監督
「酔いどれ天使」の力演が評価され、以後、「羅生門」「七人の侍」「用心棒」など
黒澤作品のほとんどに出演した。
「太平洋の地獄」「レッド・サン」などの外国映画にも出演し、
国際俳優としての名声も高い。
三船の演技の特質の一つは、他の俳優に見られない動くのスピードにあり
立ち回りの豪快さなどで世界中の映画ファンを魅了した。
平成九年(1997)一二月二四日に死去。(『朝日人物事典』掲載内容要約)

世界的に有名な映画俳優・三船敏郎さんが戦時中に陸軍八日市飛行場・
第八航空教育隊(中部九十八部隊)に所属していたことは、比較的よく知られている。
しかし、三船さんがどのような軍隊生活を送っていたかについては、あまり分かっていない。
本人の口から語られた形跡はないし、同期兵等などの証言もほとんど見かけない。
陸軍八日市飛行場についての話を収集していく中で、最近私は、三船敏郎さんと共に
八日市で軍隊生活を送っていた二人から「世界のミフネ」の航空兵時代についての話を
聞く機会があった。すでに当時から三船さんは、普通の兵隊には見られない強烈な個性の
持ち主であったらしい。

・泊まり込み炊事担当上等兵

三船敏郎さんと同じ中隊の同じ班に所属していた林信一さん(大正十四年四月十五日生
大阪市住吉区在住)の話は次の通りである。
林信一さんは大阪・都島の出身である。昼間は関西配電(現・関西電力)で働き
夜は摂南重機工業学校で学んでいた。林さんは、昭和十九年八月十五日、
特別幹部候補生として、八日市の第八航空教育隊に入隊した。
三ヶ月の教育期間がすぎ、第七部隊に所属した。
第八航空教育隊には10中隊があって、それぞれ五十音の「ア・カ・サ・タ・ナ・・」
の頭文字が付されていた。防謀対策だったという。
「ア」は本部、「カ中隊」は第一中隊である。中隊ごとに「写真」「電機」
「機関(発動機)」「機関砲」などと任務が分かれていた。
一つの中隊の兵員は、当初は六十人程度であった。
しかし、昭和二十年に入ると「一月兵」「二月兵」「三月兵」と、毎月、現役兵が
入るようになり一中隊が10~15班で編成されるようになった。
一班は六十名ほどであったから、部隊では九千人ちかい兵隊がいたことになる。
林さんが入隊したころは寝台が与えられていたが、収容人員が急増したため、寝台が
取り払われ床に藁布団を直接敷いて起居するようになったそうである。
中隊ごとに上等兵(基幹兵)数名が、「特業」(特別業務の略)という任務についていた。
特業の内容は「炊事(航空兵の炊事担当)」「被服(同、被服の修理・洗濯)」
「靴(同、革靴の修理)」などに分かれていた。

三船敏郎さんは第七中隊の古参兵(現役兵の上等兵)であった。
三船さんは、特業の基幹兵として大きな蒸気窯がいくつもある炊事場に泊まり込み、
兵隊たちの食事づくりの責任者をしていた。
当時、林さんは十九歳、三船上等兵は二十四歳である。五歳年長であったから、まさに
「おやじさん」の印象であり、会話を交わす関係にはなかった。
三船上等兵は、しばしば同期の古参兵のために「特別料理」をつくってやっていた。
食事時になると、週番上等兵が各班の食事当番を引率し炊事場に集まってくる。
そのとき三船上等兵は食事当番の兵隊に「これを中隊の誰々に渡してくれ」と、白飯の
入った大きな桶や飯盒の副食などを言付ける。
週番上等兵は三船上等兵が先輩に当たるので、黙って見過ごさざるをえない。受け取った
食事当番兵は三船上等兵の命令通り、中隊に戻るとそれを古参上等兵に届ける。
古参上等兵は消灯後に仲間数名を集め、兵舎内で三船上等兵から届けられた白飯や副食を
囲み、車座になって酒盛りをはじめるという仕組みである。

・栄倉入りの上等兵を連れ出す

林さんが上等兵(若い基幹兵)に進級し、週番上等兵につくようになってからのある日の
ことであった。
少尉任命間近の見習週番士官が、この酒盛りの「現場」を見つけてしまった。
若い週番士官はその場の全員を激しく叱責した。そのとき、松本という古参の上等兵が
週番士官の態度に腹を据えかねたのらしい。週番士官と松本上等兵はとっ掴み合いの争い
をはじめた。さらに松本上等兵は将校室に入ってゆき、立て掛けてあった軍刀を手にして
週番士官に斬りかかった。あまり刃の立っていない軍刀ではあったが、週番士官は眉間や
腕に切り傷を受けた。
軍隊での「対上官反抗」は大罪である。
ただちに松本上等兵は衛門の横にあった重営倉(陸軍懲罰令に基づく兵営内の拘置施設)
に入れられた。松本上等兵の営倉入りは終戦の日まで続いた。
もとは頑健で浅黒かった松本上等兵であるが、ボタンも紐もない汚れた衣服を着せられ
長い営倉生活のために顔面は蒼白になっていたという。
きっかけとなった「酒盛り」の飯や副食を届けたのは三船上等兵である。
その三船上等兵は、一週間から十日おきくらいに、営倉にいる松本上等兵を連れだし
彼を風呂に入れたり、みんなと一緒に食事させたりした。
もちろん、営倉に入れられ服役中の兵隊を外に連れ出すなどということが、
許されるはずはない。林さんは
「三船上等兵は、営倉の衛兵指令に裏から手を回しているのだろう。だから営倉の松本
上等兵を連れ出すなどということが出来るのだろう」
と思っていた。重営倉服役中の松本上等兵は、林さんたちと一緒に食事をしながら
「おまえら、腹が立っても俺みたいなバカなことするなよ」と言っていたという。
林さんは、三船上等兵の大胆な行動や暖かな人柄を、いつまでも忘れる事ができないと
いわれる。

・背広姿で兵舎を闊歩

兵隊たちには「日曜外出」というものがあった。
しかし、実際に外出できるのは一年に二、三回くらいしかない。
外出ができないとき兵隊たちは、兵舎内で自由時間を過ごす。そんなとき三船上等兵は、
軍服を背広に着替え、短靴を履いて中隊のなかを歩き回っていた。
短靴のコツコツという音が兵舎の床に響く。週番将校が来たのかと皆が緊張する。
ところが、それは同年兵のところへ遊びきた背広姿の三船上等兵であった。
彼は「おう、おう」などと鷹揚にみんなの顔を見回した。
大きなよく通る声で歌を唄っていた事もしばしばであった。
その背色姿は、のちに颯爽と銀幕に登場した俳優・三船敏郎を彷彿とさせるものであった。
背広などの私服は兵舎内の「陣営具倉庫」に隠していたものと推測されるが、いつそれら
を持ち込んだのかを、常々不思議に思っていたという。
当時の三船上等兵がとっていた行動は、いうまでもなく軍隊内で通用するはずでなかった。
しかし、それを咎めたり密告したりするものはなく、彼の行為が問題になったことは
一度もなかったとのことである。

・将校に扮し出演

所属の中隊は異なるが、同じころ第八航空教育隊にいた寺井善七さん(京都市出身)には
昭和十九年十一月に行われた「部隊祭」での三船上等兵の姿が鮮やかに記憶に残っている。
部隊祭は飛行機の格納庫で行われた。浪曲・漫才などがあり、つづいて演劇が始まった。
サイパン玉砕をテーマにした内容であった。米軍の猛攻撃にあって疲弊し意気消沈の
兵士たち。そんな中で、一人の将校が傷つきながらも立ち上がる。彼は、兵士たちに最後の
突撃を呼びかける。
「あの将校はなかなか立派やないか。誰がやっとるのや」
「兵隊がやっとるらしいよ。ミフネとかいう上等兵らしいぜ。」
こういった会話が見学中の兵隊たちの間で交わされたという。終戦後の同期会席上でも
しばしば当時の部隊祭の演劇について話が出てきたそうである。
「映画俳優になる人間がやっとったのやから、上手で当たり前じゃ」
と、みんなで納得しあったとか。
「世界のミフネ」も、第八航空教育隊在隊中は一介の炊事担当上等兵にすぎなかった。
おそらく彼は、軍隊内の栄達にはほとんど関心がなかったのだろうし、自由闊達な個性は
旧陸軍の「軍律」には収まりきらなかった。しかし個々、人の能力が尊重される戦後社会の
到来により、その才能は一挙に銀幕で花を咲かせたのだった。

・航空兵「ミフネ」の写真

(ちなみに写真は著作権云々の問題でないですよー。本誌ではきちんとあります。
滋賀報知新聞の記事には写真有
http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0000382
http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0000273

平成二十年一月二十一日、八日市郷土文化研究会では東近江市が生んだ映画監督・出目昌信
さんを招いて、講演会を催した。
講演会のあとで、出目監督の実兄で当会前会長・出目弘さんなど数人が出目監督を囲み
ささやかな会食兼懇談の場をもった。そのとき私は、出目監督に生前の三船敏郎の
「軍隊生活」について、かいつまんだ話をさせて頂いた。
なぜなら、出目監督は黒澤明監督の愛弟子で、生前の三船敏郎さんとも懇意であったと
聞いていたからである。出目監督は
「確か、ご子息の三船史郎さんが、八日市飛行隊時代のお父さんの写真を残しておかれた
と思う。貸して頂けるよう私から頼んであげよう」とおっしゃった。
半月後、出目監督から待望の宅急便が届いた。三葉の写真が同封されていた。
一枚目の写真は陸軍機の傍らに立つ航空兵姿の三船敏郎さん。
左手を腰に当て右手は軽く尾翼に触れている。どこか遠くを見つめたその姿はどこか
男性的で、映画の一コマではないかと錯覚してしまう。
つぎは、脱いだ飛行帽を右手にして立つ一葉。
背後に小さく航空機が写っているので、飛行場の雰囲気が伝わってくる。
この写真も、視線はやはりカメラのレンズには向かっていない。
何気ないようでありながら、スマートな写され方を「無意識のうちに身につけている人」
という印象である。
三葉めの軍服を着た上半身の写真は、あるいは八日市の写真館で撮影されたのかもしれない。
澄みきった目が一直線に相手を見つめている。こんな情熱的な瞳で見つめられたら、女性
ならずとも、ついふらふらとしてしまう。襟には「98」の文字が付いている。
まさしく中部九八隊(第八航空教育隊)の襟章である。
これらの写真はいずれも戦時中の陸軍八日市飛行場時代のものであるが、三船さんが
天性の映画スターであったことを伺わせる出来栄えである。
出目昌伸監督のお蔭で、ご子息の三船史郎さんから写真を『蒲生野』誌上に掲載する
お許しを頂いた。三船さんの軍隊時代の話をして下さった、林伸一さん・寺井善七さんと
あわせ、貴重な写真を本誌に掲載させていただく事が出来たことについて、出目昌伸監督
ならびに三船史郎さんのご好意に心から御礼を申し上げたい。

・三船敏郎さんの背後の航空機について


陸軍八日市飛行場における三船敏郎さんの写真の中に、飛行服は着けているが飛行帽を
脱ぎ坊主頭の立写真がある。
三船さんの背後には、小さく航空機の機首部分が写っている。これだけで航空機の機種が
判定できないものだろうか。
私にはまったくその方面の知識がないので、写真をコピーし東京の小杉弘一さん(『蒲
生野』40号「掩体壕づくりに参加して」執筆者)にお送りし判断をお願いした。
旬日後、小杉さんから「細部が明確に写っていないので断言はできないが、三菱九七式
軽爆撃機(キ30)もしくは三菱九九式偵察機(キ五一」ではないか」とのお便りを
頂いた。いずれも日中戦争時に活躍し、太平洋戦争初期まで使われた航空機だという。
小杉さんが、三船さんの背後の航空機機種判定で根拠とされたのは、つぎの三点である。

①固定脚であること
②車輪にカバーがついているが、外側から車輪が見えていること
③プロペラは、I型でなくY型と推定されること。I型であればプロペラはもっと長いはずで
あること

小杉さんは『世界の翼』(朝日新聞社)を参考に、以上の三点をもとに機種判定をして
下さったということであった。当時の八日市飛行場の配備機を推定する資料にもなると
思われるので付記し、あわせて小杉さんにお礼を申し上げたい。


※以上の記事の著作権は中島会長にあります。今回のブログ掲載に快諾を頂きました。
本当にありがとうございます。

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