「残り物には福があるからね」…少し萎れて安くなっていた苗を、そう自分に言い訳をし、それほどの期待を持たずに買った小さな苗・テッセンでありました。

陽当たりは良いベランダではありますが、ツルを伸ばさせるほどの広さもなしで、体(てい)の良い行燈仕立てのような囲いの中に植え替えて置いときました。それがまぁ~ここ連日、ポポンのポンといった按配で景気よく花を…いえ、ガクを開かせ、わたくしまるで己の姿を見るようで、あんぐりと口をポーン!

わたくしの幼きころ…幼稚園に通い始めてまもなく、小さないじめに遭ってから行けなくなって、それから小学校の2年生まではベソベソと泣き虫の登園・登校拒否児童でありました。

小学校はいじめられた子と同じ学校でしたから、またいじめられると思っただけで怖くて行けなかったり…

けれどもクラスが違っていじめられることが少なくなって、好物の給食…クジラの竜田揚げと春雨サラダを食べたさにナフキンだけを持って登校していました。

母親も「あぁ、行っついで!しっかり食べて来るんだよ」

先生も「あぁ…今日はクジラか?春雨か?」などと昭和30年代は、まことにのんびりとしたものでした。

ですから…親からも先生からも叱られたり、妙な慰めもかけられずに済みましたが、世間の大人たちからは「なぁ~んか萎れた子」として映っていたのではないでしょうか?

ところが、小学校の2年の終わり・8歳になり、ここからが人生捨てもんじゃないと、わたくし・自分でも言うのもナンですが、ホントそう思っております。

深川の小学校から千代田区の小学校へと親戚に頼り越境入学をしてから、わたくし・それこそ雨ニモ負ケズ風ニモ負ケヌで毎日都電に乗って通いましてございます。

越境した先の小学校は図書室の蔵書が実に多彩で豊富!教室で過ごすよりも図書室にいる時間の方が多くなり、まさに水を得た魚のように生き返りました。

この歳になれば体のあちこちにガタが来るのは仕方のないことと諦めも付き、季節の変わり目の体調不良も、また然りであります。

麗しき乙女・17歳のとき、赤坂・弁慶橋のたもとで交通事故に遭ったことは、人生最大の大事(おおごと)でしたが、それからは手術するほどの大病もせず、滅多に風邪もひかぬほど丈夫に育ちました。

「萎れた苗」も、きれいな水と少しの情けと楽しみで生き返るものだと、改めてわが身と照らし合わせ…頷いております。

丈夫に産んでくれ、その上・着させて食べさせて親の下で育ててくれた両親と世間の方々に深く感謝を申し上げなければなりません。

で・見事に咲いた、テッセンよ!この育ての親・わたくしに何かひと言、ないのかな?

「いやいや…こんなきれいな花を見せてくれて、ありがとう」

わたくしの方からテッセンに申さねばならぬでしょう!

さて…30代から60代へと過ごして来た平成でありますが、夫との辛い別れがあったものの、友人・知人たちの優しい心根に触れ、それだからこそ実りのある豊かな人生になったかと思います。

皇居の新緑は雨に洗われ、しっとりとして光を放っているようでした。

雨音を聞きながら迎える『令和』…良き時代であるよう、静かに祈るばかりです。