明治になってもテロを辞めなかった博文 | 気になるニュースチェックします。

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この頃秋晴れのいい天気が続いています。
秋は足早で行ってしまい、すぐ寒い冬がやってきます。
朝晩は寒いですね、風邪をひかないように、気を付けましょう。

首都圏など都市部で、子供の声がうるさいと保育園や児童施設の子供たちが
園庭で遊べる時間に制限を設けられたり、防音壁で囲まれた園庭で遊ばされています。
子供の声はうるさいんでしょうか。

昼間、園庭で元気に遊ぶ子供たちの声をうるさいと感じる、、、、
なんかうすら寒く感じます。
子供たちの元気な声を聴くと、こっちまで元気になりうれしく感じるんですけどね。

人それぞれだから仕方ないのかもしれないけど、なんか心淋しいですね。





「伊藤博文」もそろそろ終わりに近づいてきました。

★明治になってもテロを辞めなかった博文
 
 伊藤は大物を惨殺するたびに、名前を変えました。
 9回目にやっと博文を名乗ったわけですが、そのとき伊藤は
 「自分は吉田松陰の門下生ではない」と宣言しました。

 これは国家の元老となった伊藤が自分のテロリスト時代を反省して
 かつて殺し屋の下忍として自分を養成した中忍、松陰と絶縁したかったためらしい。
 伊藤はテロリスト時代を反省したというが、維新後も相変わらず人を使って
 暗殺を続けています。

伊藤が明治政府の重鎮になってから、孝明天皇暗殺の口封じのため大判振る舞いの
華族制度というものを確立しました。
そして大日本帝国憲法とか皇室典範、衆議院議員選挙法などを公布しました。

その後、朝鮮を植民地にしたいと考えるようになります。
ところが国王の王妃、閔妃がロシア寄りで権力を握り中々の強硬であったため
殺し屋生活の総決算として、伊藤は閔妃殺害を決意するのです。

そこで白羽の矢を立てたのが、殺し屋として抜群の実力者、岡本柳之助でした。
岡本獲得のため伊藤は紀州藩士、陸奥宗光に接近します。
このとき陸奥宗光は、大久保暗殺を計画し失敗して宮城刑務所にいました。

ところが陸奥宗光は牢の食事係の女を妊娠させていました。
この事実を知った伊藤は、陸奥宗光を仮釈放させて海外に留学させ
帰ってくると外務大臣に任命したのです。

明治28年10月8日ソウルの景福宮に侵入した岡本らによって、43歳の
閔妃は惨殺されました。
当時のマスコミは閔妃殺害を「日本民衆の自発的愛国心によるもの」と宣伝するため
与謝野鉄幹を朝鮮人民軍の総裁に祭りあげました。

しかし、与謝野鉄幹は実際には閔妃殺害には参加していません。
実際の実行部隊は第18大隊450人、警察隊、傀儡軍800人、それに主に熊本県人の
民間人でした。
岡本の墓は池上の本門寺にあります。

殺し屋生活の総決算、閔妃殺害はこうして終わりました。


それでは孝明天皇暗殺に入っていきます。
孝明天皇の暗殺は今では広く世に伝わっています。
けれどその暗殺のされ方、毒殺か刺殺かは日本史上極めて重要な事件であるにもかかわらず
我が国の歴史家はこの問題を避け、今日まで歴史教科書には一行も書かれていません。

慶応2年12月に起こった孝明天皇の急死は、世に言われる疱瘡による病死なのか
毒殺なのか、刺殺なのか、、、、、

太平洋戦争終戦後、言論の自由が保障されたため革新派のねずまさし氏は
「孝明天皇は病死か毒殺か」と題して歴史学研究173号誌に暗殺説を発表しています。
古来、この国には皇族や貴人を暗殺する際には刃物を用いずに行うという約束事があった。

天保7年長州藩の忍者たちによって、藩主3人斉熈、斉元、斉広が暗殺されたのも
毒殺であったという。
忍者は上忍、中忍、下忍と分かれていて明治維新のなかで大きな役割を果たしたのも
これらのウラ毛利忍者と呼ばれる忍者たちです。

吉田松陰は中忍でした。

将軍家茂の妻は、孝明天皇の妹、和宮です。
なので家茂と孝明天皇は義兄弟です。
家茂も孝明天皇も和宮もとても仲が良かったのは事実で、固く協調している限り
尊王攘夷派は策を施す余地がない。

だから薩長と公家の策士らは、ひそかに共謀して天皇と将軍を除こうと策謀する。
慶応2年7月、毒の盛られた茶を飲みにわかに苦悶し死去した家茂。
遺骸は江戸に送られ、和宮は遺骸に礼拝することを望むが毒殺の痕が顔に気味悪く
あったため老中は納めてある棺を開くことを許さなかったという。

そして12月孝明天皇も暗殺されます。
この暗殺は当時、噂としてすでに多くの日本人は知っていました。
最近になって歴史家もそのことについて、多くの史料を発表しています。
(遠山茂樹著 明治維新)