私は今カルカッタにいます。


5度目のインド。



それほど、私にとって、この地は特別な土地なのです。


私は以前、ここのマザーテレサの施設で計3カ月ほどボランティアしていました。



マザーのお墓に行っては泣き、以前お世話していた子供のお墓に行っては泣き、シスターが2年ぶりに来た私の事を覚えていてくれてたことで胸がいっぱいになって泣き、


どこに行っても、あの3カ月の色々な思いでがよみがえり、来たときから泣いてばかりの私です。




本当に私にとってここは特別な土地。


何度でも絶対に戻ってくるんだろうなと思う。


あと、数年は行けなくなると思うと、もう仕事なんてしたくなくなっちゃう。笑



常に世界中からのボランティアであふれかえるこの場所で、施設のインド人も私の事を覚えていてくれて、私のもう一つの居場所があるような気がして、少し強くなれる。

そう思わせてくれるこの土地に感謝。





そして、ここマザーハウスは本当に、「奉仕の原点」を私に教えてくれる、そんな場所です。

いろんなところでNGO活動とかしてきて、大学でも開発学とか少し勉強して、「与えるだけの援助は良くない」って口酸っぱく教えられてきた。



与えるだけの援助は甘えを生むから。

だから「物乞いされてもおかねはあげちゃいけない。」


それは先進国側の人間に当たり前のように存在する方程式。



でもマザーたちが60年近くずっと続けているのは、与える支援。

町で死にかけている人を無償で引き取って、食べ物を与え、死をみとる。

障害のある子どもや孤児を引き取って無償で住む場所と食事を与える。




そんな時、ある外国のジャーナリストがマザーにこう聞いたそうです。


「あなたはあげてばかりだ。開発学には、「魚を与えるのではなく、竿を与えて魚の釣り方を教えるべきだ」という話があるのはご存知ですか?」と。



するとマザーはこう答えました。

「私は釣ざおを持つ力さえない人たち、貧しい人達の中でも最も貧しい人達の支援をしているのです。」と。




本当に、その通りだと思った。



確かに、与えるだけではなく、自助努力を助長するような援助の仕方を試行錯誤するのは大事なこと。



だけど、その前に、今、苦しんでいる人がいる。

今、死に耐えている人がいる。




そんな先進国側の人々が言う、もっともらしい方程式を提示する前に、私達は彼らに何かができているのだろうか。


そして、マザーが与えるのはお金やモノではない。


マザーが与えていたのは、それよりも大きな愛でした。


人を大切にしたいと思う愛情の前に、難しい理屈は必要ない。






そう思って、私は明日も笑顔を届けにマザーハウスに行ってきます!




そして、いつの日か、マザーのように強くて美しい女性に少しでも近づけるように…





















I’m in Kenya AGAIN!




2年ぶりにケニアに戻ってきました。


2年前のちょうど今頃、私はナイロビから1時間ほど車で走ったところにある、スラムに住むHIV/AIDSの女性や子供達を支援するNGOにて、5ヶ月間インターンシップをしていました。




その同じNGOに2年ぶりに帰ってきました。




今回は両親と姉を連れて。



私がこんなにも旅好きになったのは父の影響が大きい。

父は昔から台の旅好き。でもアフリカに一度も足を踏み入れたことがなかった。

そんな父をアフリカの地に連れて行くのが2年前からの夢でした。



父を誘うと、なんと、途上国に免疫の無い母も「私もいく!!」といいだし、

そしてギャルの姉も「私も!!」



。。。。

どうなることやら、と最初はハラハラしたものの、とても素敵なアフリカ訪問となりました。







初めは皆でサファリへ…




2年前、初めてアフリカの野生動物を見に行ったときは、本当に感動した。



野生動物は、気高く、凛々しく、美しく、力強かった。

私が動物園で見て知っていた動物とは違う生き物にすら見えました。



そんな動物たちを家族にも見せたかった。





そしてその後は、私の働いていたNGOに行って、スラムに住む女性達の家を訪問しました。




彼らにとっては初めてのスラム。


そして次々と語られる彼らの壮絶な人生。



両親はすごくショックを受けていたみたいだけど、同時にとても忘れ難い1日になったと思います。







私がこんなにも多くの経験ができたのは、間違いなく両親の深い理解があったから。



そんな両親に何らか形でのお礼がしたかった。




だから今回こうやってみんなでアフリカに来れてよかった。


こうやって普通の旅行では見れないようなディープなケニアを案内することで、少しは借りが返せたかな?






でも、パパは旅好きとはいえ、やはりもう62歳で結構な年だし、初めてのアフリカで体調も崩しちゃったりして、、、

そんなたいへんな思いまでして来てくれたことが本当に嬉しい。

みんなそれぞれ下痢だったり熱だったり出してて、そんな思いまでして来てくれて。

なんかすごい嬉しい。







家族はもう帰ったんだけど、私はあと1週間ほどここにステイして、NGOがその後どうなったかを見ようと思ってます。



2年ぶりのNGOはというと、、、




まず2年ぶりの再会がありました。


YUI KADOGOとも再会しました。




YUI KADOGOとはスワヒリ語で「小さいゆい」の意味。

そう。ここには私の名前を取ってゆいと名付けられた、ケニア人の赤ちゃんがいます。

ちょうど私が2年前にいた時に、支援していた女性の一人が出産をしたのです。

そしてそれから私にはケニアに自分の小さな分身ができました。



そのYUIとの再会。



そして一緒に働いていた女性たちとの再会。








とても素敵な再会と共にやってきたのは、自分の無力感。




私がケニアをとても好きだったのは、彼らが底抜けに明るかったから。

彼らの明るさが私を常に明るく照らしてくれた。



でもその明るさの陰にはそれぞれ壮絶な人生があり、彼女らは常に多くの問題を抱えている。


私には到底対処しようの無い大きな問題を。



そして、いくら私が彼女達を大切な大切な友達だと思っても、そこにはどうしても越えられない「貧富」という名の壁があるということを知らされる。





彼女達の生活には私達には想像もできない多くの困難が存在する。


昨日訪問した女性は、元々マサイ族でした。

しかしHIVに感染したことで、コミュニティーの繋がりをとても大事にする彼らはHIVが他の親族に移ることを恐れ、彼女の実の息子がNGOに彼女を引き取るようにと電話をしてきたのです。

実の息子に捨てられることの辛さ…

それがどれだけ辛いのか、私には想像することすらできない。

そして彼女は、今はスラムにある小さなトタンでできた箱のような家に一人で住んでいる。

でもベッドはなく、地面に段ボールを敷いて寝ているため、雨が降った日には一晩中立っていなきゃいけない。

この孤独と辛さは、私が日本で抱えている辛さとは比較にもならない。









もう一人の女性は、HIVに感染したことが分かると、夫に逃げられ、家族にも捨てられ、3人の子供と共にスラムにやってきた。

その時彼女は「私には神は存在しない。」と気づき、生きることへの希望を失いました。







ある女性は元々ナイロビ一高級な3星レストランでシェフとして働いていたのに、HIVに感染したことで、解雇され、夫にも逃げられ、その後2人の子供を抱えてスラムの住人となってしまった。

それまで最高級レストランで誇りとプライドを持って働いていた彼女が、一転スラムで物乞いをしなければ生きていけなくなった彼女の気持ちが、誰に理解できるだろう。







ケニアではHIV患者は非常に多いが、依然患者に対する偏見が根強く残る。

HIVになったとたん家族からも友人からも夫からも捨てられる。

そんな事態が非常に多い。






そして、私と彼らとの間に存在するギャップは計り知れないほど大きくて、大切にしたい人との間にも、今の私には越えられない壁があることに愕然とする。







初めは戻ってきたって、今回はただ訪問して懐かしい人との再会を楽しむだけ、と思ってたから1週間ちょっとの滞在も長いかな、と思ったけど、


来た瞬間からやることはいっぱいあって、むしろ一週間では全然足りない。



でも、これは前回も感じたけど、たとえ何十年いたってきっと私は満足することはないんだ。





だからいるときめたこの1週間、できることをやるのみ。







頑張ろう。




















































ブログの更新が遅くなりましたが、14日にゴール地点であった、本土最北端の宗谷岬に到達しました!!!!!

美しき日々へ


前日は稚内市内に泊まっていたので、宗谷岬まではわずか30キロほど。



途中で何度も止まっては海の景色を眺めて音楽を聴いて、



泣いちゃダメ、泣いちゃダメ、、、、


って思いながらも、走りながら涙をこらえることができなかった。





あーーーー、終わっちゃうなんてさみしすぎる。


途中、本気でやめたいと何度も思った。



きっとしんどいことのほうが多かったこのたび。



なのに、なんでこんなさみしくてしかたないんだろう。










合計日数 53日間、

総走行距離 3246.1キロ

たった一人でひたすら激走。




本土最南端の鹿児島、佐多岬を出発し、15日に最北端の宗谷岬に到着。





いやーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



本当にいろんなことがありました。


もうこの旅で何度泣いたかわからない。



自転車なんかで旅してると、きっとしんどいことのほうが多くて、

号泣しながら台風の大雨の中、峠を超えたこともあった。

自分を勇気づけるために歌ってた歌も、涙で声がかすれて歌えなかった。




そんな日があると思えば、普段は何ともないような景色にも、

自分の足で、自分の力で来たんだ、っていう達成感から涙が出たり。




永遠と思える道の連続。

「本当にたどり着くんだろうか」っていう果てしない不安と闘いながら、


でも結局、目的地にたどり着かない日はなかった。



「峠越えまであと2キロ」

そんな看板を見た瞬間、「やっぱりゴールは絶対そこに存在する」って思ったら馬鹿みたいに一人で泣けた。




少しずつでも絶対ゴールにたどり着く。


そんなシンプルなことを教えられる。





初めての野宿はめちゃめちゃ怖くて全然眠れなかったけど、

朝、テントから出て、朝一のひんやりとした空気を吸い、朝日を浴びながら缶コーヒーを飲む。


そんな最高のぜいたくを味わうことができた。







途中は本当にいろんな人に出会い、助けられました。


知らない人のお家に泊めてもらったこともあったし、

「がんばってね」と一言言ってお金をくれる人もいたし、

改造したヤンキー車の中から、「がんばれーーーーー!!!!!」
とぶっとい声で叫んでくれる人、

「一緒によるごはん食べませんか?」と誘ってくれる小学生、

取れたての野菜を分けてくれるおじいちゃん





本当1日に一度は何かしらの人々の優しさをもらっていました。





私がこの旅を完結したって、社会に貢献できるわけじゃない。

何にもためになることなんてできないのに、

ただの自己満の私の旅なのに、、、




なんで、なんで、

なんでこんなに多くの人が助けてくれるのか、応援してくれるのか、

ひたすら不思議でなりませんでした。







途中、何度も本気でやめることを考えたけど、


なのに、なぜか最後はやめたくなくてしかたなくて、また泣けた。


もう宗谷岬ついたらこのまままた南に向かって走り出そう。

そう思った。

内定も蹴ろうと思った。




だって、こんなに素敵な人との出会いがあって、きれいな景色との出会いがあって、

新しい発見がある。

もっともっと、出会いたい人もいっぱいいるし、みたい景色もいっぱいある。


自転車で行きたいところがまだまだいっぱいあるのに、


私は今20代という若くて健康な貴重な時間を、一日中オフィスの中に缶詰になってていいのか?

本気でそんなこと考えちゃったよ。





それくらい、このたびは素敵で、貴重で、


私にとって宝物のような日々でした。







でもね、それでも帰ってこれたのはやっぱり出会った人たちの応援があったと思います。



確かにこのたびはすっごく楽しくて、

宝物のようにいとおしい日々でした。



でもどんなに楽しくても、このたびは私の自己満足でしかなくて、周りに何の影響も与えていない。


自己満足も最高だったけど、もしかしたら他者を巻き込んで満足を追求できたら、もっともっと素敵な世界が待ってるのかもしれないよ?



この自己満の旅をいろんな人に応援してもらったからこそ、他者に貢献できる何かを求めていきたい、

そんな風に思いました。



どんな形でもいいから、「他己満足」の喜びを感じたい。

そのためにとりあえずシャカイとやらに出てみようじゃないか。





まぁきっと初めの数年は怒られてばっかで、なにがマンゾクじゃ!ってなるんだろうけど。




でもそれでつかれたらまた旅に出ればいい。



旅の途中は、

「この同じ道を何年か後に同じように自転車で通ったとしても、同じことは感じられない。
23歳の私だから感じられる何かがあって、出会える人がいる。
だからもっと旅を続けて、23歳の私しか見れるものもっとみておかないと!」

って気持ちばかり焦ってたけど、


でも逆にいえば、30歳過ぎた私しか見れないものもまたきっと素敵なんだと思う。




ライダースハウスで一緒になった、60歳にしてバイクで日本を一周してるおばさんが言ってた。


「もっと若くからバイク乗っておけばよかった、とは思わない。
今だからできることがいっぱいある。
それに、また昔に戻っても私は結局同じ道をたどると思うから。」


29歳という若さで息子さんをなくしたのにもかかわらず、満面の笑顔で

「私、人生最高にたのしいわよ!」

って言ってくれる彼女をみてたら、



歳を取るのも悪くない、と思う。












今まで運動が大の苦手で、逆上がりだってできなかったし、跳び箱だって飛べたことない、超運動音痴な私だったけど、

でも、だからこそ、自分の力でしか進めない自転車にこだわったんだとおもう。



旅の途中で気付いたけど、私、きっと強くなりたかったんだなーって思った。


強くなりたくてこの旅に出たんだと思う。



ずっと抱えていた自分の弱さに対するコンプレックス。


自分の弱い部分を自分はすごくよく知ってるから、就活頑張っていっぱい内定貰ったって、全然自分をほめることができなかったし、
社会に出ることに対する不安もまったく消えなかった。



でもね、今回は少しだけ強くなれた気がするよ。

初めて自分を自分で少しほめてあげようと思えたよ。









ゴールでは両親が、家族や近所の人からのメッセージの入った3メートルにもなる大きな旗を持って、私のゴールを待っていてくれた。


私のやりたいことをいつもなにもいわずに応援してくれる両親。

でも内心めちゃくちゃ心配してる両親。


運動の苦手な私が事故なくゴールできるか、毎日不安に思いながら、母がどんな思いでこの旗を作ってくれたのだろうと思うと、涙が出る。


美しき日々へ-未設定





最後は新聞の取材を受けて、わたくし、北海道の地方紙ですが3面のトップにでかでかと載せていただきました。
美しき日々へ
↑取材受けてるとこ


題は「孤独と辛さ3000キロ」。


写真キモすぎてこっぱずかしいですが、一生の思い出になりました。

美しき日々へ-未設定





あーーーーーーーーーー。。。。。。


学生生活、2年間も休学して、いろんな国行って、いろんなことさせてもらったけど、間違いなくTOP3に入る思い出になりました。




いっぱい泣いて、いっぱい感動して、いっぱい自分と向き合って、いっぱい素敵な出会いに恵まれた旅でした。

言葉には表わしきれない思いでいっぱいです。



感謝。感謝。



胸がいっぱいです。




旅が終わってしまったことがさみしくてさみしくてしかたがないし、旅で感じた感情を少しずつわすれて行くんだと思うと悲しいけど、



これからはまた新たな冒険を求めて、人生を突っ走っていきます。



応援してくれたすべての人に、ありがとう。