前回紹介した映画『黄金のアデーレ』の冒頭に近いシーンで、主人公のマリアが印象的な台詞を言っていました。

先に亡くなったマリアの姉の葬儀での言葉ですが、

「姉は亡くなりました。
レースにたとえれば彼女は私より先にゴールしたのです。
しかしボクシングにたとえれば、姉は先に倒れ、私はリングにまだ立っています」

この台詞を聞いて、目が覚めるような思いでした。
ここは別段感動を誘うシーンではないのですが、このシンプルな台詞に込められたメッセージは、今の僕には強く響いたのです。



ここのところ、好きな俳優さんや歌手たちが続々と亡くなって、個人的には飼っていたペットも死んでしまったり、なんだか行き場のない虚無感に襲われることが続きました。


いま、二十代も後半になって、自分の知っている人や周りの人が亡くなっていくというタイミングにいよいよ立つことになったということなのでしょう。
自分に影響を与えたスターや好きだった人々が歳をとり、あるいはある日突然にいなくなっていくというのは、これまでに味わったことのない虚無感と悲しさ、胸が締め付けられる想いとともに、危機感にも近い焦燥感を僕に与えました。
これまでの世界を作ってきた人たちがこの世界からリタイア(フェードアウト)して、自分が「残される側」にいるという気持ちが芽生えてました。これは罪悪感ではなく、重責に似た感覚です。ある種の劣等感から来るものなのかも知れません。こんなものを勝手に抱いてナーバスになるなんて馬鹿みたいな話ですが、事実僕はこんな心境に陥っていました。


(▲ 新年が明けて直ぐのフランス・ギャル逝去のニュースは特に大きなショックでした)


人生の先輩方は皆「人はいつか必ず死ぬ」という至極当たり前のことを人生の中で何度も経験して、それでも「生きる」ということを繰り返してきたわけですが、これまた当たり前のようなことでいて、いざ自分の身(世代)にもそれが起こってくるとなんとも言えない恐さを覚えたのです。


馬鹿な話だ、と分かっているつもりでいて、自分でも驚くほどに、気分の落ち込みはとても大きなものでした。


そこにこの台詞です。


僕が落ち込んだり焦燥感を覚えたりしたのには、
「レースにたとえれば、先にゴールされた」感覚があったからで、
そうではなくて、いまここにある人生をより前向きに捉えるのであれば
「ボクシングにたとえれば、自分はまだリングに立っている」という気持ちが大事なのだ、と。

いま自分はとても幸運なことに奇跡的にいまを生きていて、つまりまだリングに立っていて、闘うことが出来るじゃないか、
その喜びを思い切り味わうことを失くしてしまって、なにが人生なのか。

大袈裟かも知れませんが、この台詞は僕をこんな気持ちへと向けてくれました。


暗雲の時代から今日に至るまで、幾多の辛い経験を越えて生きてきたマリアは、その辛い時代を共に生きた姉に先立たれて、言い様のない悲しみに包まれたことでしょう。
しかし「私はまだリングに立っているのだ」という捉え方で前を向き、信念を貫いて“かつて無慈悲に奪われた絵画”を取り戻そうとするのです。


どんな映画にも素敵な台詞や印象的なシーンがあるものですが、それを観たときの自分の心境(コンディションかな?)によって、ある時はビリビリと脳天が刺激されたり、またある時はなんとも思わなかったりと、受け取るものが違いますよね。

これは中々面白いことです。

今回は「よし! やるぞー!」という良い気持ちになれた素敵な台詞の紹介でした。