こころの時代~写真家・小松由佳さん | 小林美千代 my dear, jazz sax life♪

小林美千代 my dear, jazz sax life♪

ジャズサックス奏者。ライブスケジュールや近況など。2019年11月、サードアルバム「Land Of Dreams」リリース。1999年、土岐英史のレッスンを歴代最速で卒業。2012年より4年名古屋芸術大学でジャズサックス講師。

HP→http://michiyo-jazzsax.music.coocan.jp/index.htm

ちょっと久しぶりに
Eテレ「こころの時代」の文字起こし✏️
 
この番組はここ2年ぐらい?
録画して観てます。
観てなかったら出合えてない言葉とかが
色々あって、観てて良かったな、と
思うことが結構あります。
 
もうすっかりいい大人になったので、
物事を浅く考えるよりは
視野を広く持って
物事を知る努力をしていった方がいいのでは、
自分から近づいて見てみようとすることが
大事かな、との思いで観始めました。
 
 
今回はこちら。
フォトグラファー小松由佳さん📷
 
 
 
 
 
経験した人にしか語れない、説得力のある
キラキラ❔した言葉が満載でした。
 
ゆっくりした口調、滑舌の良さ、声の良さ、
手振りを交えた話し方が、
まるで、戦場カメラマンの渡部陽一さんの
女性版みたいな方でした😲
 
いいお話を聞けましたので、
皆さんにシェアさせて頂きます✏️
9/3(土)に再放送がありますね📺
 
難民の現状についてが
一つの大きなテーマだったとは思いますが、
文字起こしは
私の琴線に触れたところを中心に。
 
 
 
文字お越しは、スマホの
音声入力を使ってほとんど起こして
修正しました。
長いですが、よろしければどうぞ😉
 
 
 
 
ナレーション
「2005年、小松さんは世界最高峰
エベレストへの遠征隊に参加します。 
目の当たりにしたのは、
山の頂に立つことを競う、
様々な登山者の姿でした」
 
 
小松さん
「エベレストの時は、正直初めての
8000m峰なので、
山頂に登れたらラッキーだと…
でもとにかく経験を積みたい、
より高い標高まで経験を積みたい、
と思ってました。
 
ところが、そこで見えてきたのは、
チームとしていかに登るかというよりも、
ものすごく個人主義の世界だったんですよ。
自分が上に登りたい、っていう。
 
やっぱりエベレストというのは、
世界最高峰ゆえに
いろんな登山家が登りに来るんですよね。
色んな目的を持った人たち。
で、中には、やはり名誉のために
登る人達もいたし、
いろんな目的のもとに人が集まっていて。
 
そこでやっぱり、人間の俗的な部分も
物凄く目にすることがあったんですよね。
 
登山ってやっぱり物凄く
人間のエゴが出るし、
でもエゴっていうのは裏返すと、
生存する力、そのものでもあるんですよ。
 
むしろ、やっぱりそういう
強い感情がなければ、
ああいうヒマラヤの世界は登れない
と思うんですけども。
 
やっぱりものすごくドロドロした世界も
あるわけですよね。
人間同士のエゴのむきだしの世界とか。
 
エベレストで見たのはやっぱり
その人間の欲望みたいなもので。 
私はちょっとそこに違和感を
正直感じてしまったんですよね」
 
 
 
どの世界もそういうものなのかも😲
 
 
 
「エベレストのアタック隊から
外された時に、一人で
ベースキャンプまで戻らなければ
いけなかったシーンがあって、
吹雪の中を一人降されたんですよ。
 
その時にあまりに吹雪が強くなってきて、
ベースキャンプに戻れず、
途中のキャンプで一泊しなければ
いけなかったんですね。
 
その時にチベットの村の方から来た、
ヤク飼いのおじいさんのテントで
一泊させてもらったんです。 
 
そのテントは 本当に小さいテントで
穴がいっぱい空いていて、
風や雪が吹き込んでくるんですが、
そこの中央でおじいさんが
焚き火を焚いてあっためてるわけですよね。
 
言葉も全然通じないんですけれども、
何時間も一緒に座って、
おじいさんはお茶を作って出してくれたり。
 
で、その時のそのおじいさんの
顔のシワがすごく美しかったことを
覚えているんですよね。
 
で、私はやっぱりそのエベレストの山頂、
こう華々しいああいう世界ではなくて、
やっぱり人間のこういう営みが、
私にとっては胸を打つものなんだな、
っていうことをその時気づいたんですよね」
 
 
このお話から、
永六輔さんを思い出します。
有名な人達だけが素晴らしいわけではなく
市井の人々の中にも
素晴らしい人々がいっぱいいる、
と仰ってました。
 
 
 
 
ナレーション
「翌年、小松さんは、世界一危険な山、
と呼ばれるカラコルム山脈 k2に挑戦。 
そこで人生を変える経験をしました。
相棒は大学山岳部の後輩、青木達哉さん。
 
小松さんは日本人女性として初めて、
青木さんは史上最年少での
登頂を果たします。
しかしその下山時、
二人は深刻な危機に見舞われます 。
 
すっかり日が暮れてしまった8200m地点。
酸素ボンベも尽き、
進退極まった二人はテントも張らず、
絶壁にロープで体を結び、
朝が来るのを待ちました」
 
小松さん
「これは今考えると、やっぱり
生と死の境の一つの大きな決断でしたよね。
どっちにしてもリスクは高いわけです。
下り続けたとしても
かなり判断力が限界に来ているので、
体力も限界なので、
もしかしたら滑り落ちて、
滑落するかもしれない。
 
一方でビバーク(露営)をしても
疲労凍死する可能性もあるわけです。
ビバーク地点を作って座った時に、
パートナーの青木が、
『もしかしてこれで死にませんよね?』
って言ったんです。
 
で、私もちらっと実は
不安に思ってたんですが、
その時私はリーダーだったので、
不安を絶対に後輩に
見せてはいけないなと思ったんです。
 
だから、『そんなことは絶対ない。
絶対に来て帰れるんだから大丈夫だ』
と、自分自身にもその言葉を向けて。
もうとにかく、信じることしか
できないんですよね 。
 
すぐにうつらうつらし、
二人とも寝てしまいました。
よく寒いところで寝たら死ぬぞって
ビンタするような映像ありますけど、
人は寝るんですね。
 
ただ、 標高が高くて、酸素が薄いし。
で、吸ってた酸素ボンベも
もう全部ないので息苦しいんです。
 
ビバークした8200mは、
酸素量が地上の1/3しかない場所で、
とにかく息苦しくて目が覚めるんですよね。
はあはあとなってるのに
気づいて目が覚めて。苦しくて。
 
で、隣の青木を見ると、
まあ青木が生きてるかっていうのを
確認するわけですよね、肩を叩いて。
 
どれだけ時間が経ったか、 
ものすごく顔が熱くなったんですよね、
ある段階で。
なんだろうと思って目を開けたら、
まだ辺りが真っ暗なのに、
紫色の雲海が下に広がっていて、
そこから正に、
太陽が昇ってくるところだったんです。
 
その太陽の光が、
自分達の方にこう差し込んでいて、
その光が顔に物凄く熱く感じたわけです。
 
それを感じた時に、『もしかして、
死んでしまったんじゃないか❔』
と一瞬思ったんです。
それぐらい荘厳な光の感覚だったんですよね。
 
正に、夜じゅう、暗い中で寒い中で、
生と死の境に立った夜があって。
そして、朝の太陽の光に
自分達の存在をまた感じ取った、
そうした瞬間でしたね。
 
で、段々と自分たちが生きてるんだ
ということを感じると、
涙がどんどん溢れてきて、
この世界に生きて帰りたい、
とそれを強く思いましたね。 
 
そうした中で
こう生きて帰ってきた時に、
実は『ただ生きてる』ということが
物凄く特別なことだと感じたんです。
 
人間は、何か特別な事をしたり
何か記録を残さなくても、
実は『ただここに存在してる』って言う事が、
それだけで物凄く特別なんだと」
 
 
さんまさんの
「生きてるだけで丸儲け」みたいですね。
 
 
 
 
「いろんな巡り合わせの中で
生かされてるということなんだ、
ということを、
ものすごく体で感じたんですよね。
k2から帰ってきた時に。 
 
で、それ以来、厳しい登山をすることで
生きる実感を感じたりしなくても、
すでに自分の周りに開けてる世界の中で、
なんか同じものを感じ取れるように
なっていった、ということがありました。
 
そして、自分が山を登ることで求めていた、
つまり『生きている実感や
生きることそのものは、
実は、その山の麓の人々の
暮らしの中にあったんだ』、
ということに気づかされるようになって、
段々と、視点が山の上ではなくて
麓に移っていったんですよね。
 
『人はなぜ便利ではない土地に
住み続けるのか』。言葉を変えると、
『人間は厳しさの中に、どんな豊かさを
見出して生きようとするのか』。
 
それをずっと知りたかったように
思うんです。 そしてそれは、
私の祖父母がきっとそういう暮らしを
してたんですよね。 
 
米農家ってやっぱり物凄く厳しい仕事で、
夏の暑さや冬の寒い時は
出稼ぎに出たりとかして、
そして雪どけで冷たい中で田植えをしたり 、
ずっと田んぼに立ち続けて、
そして得られる収入は
わずかじゃないですか。
 
そういう暮らしの中で私も生まれ育って、
そうした暮らしに生きる人の豊かさを
もっと私は知りたく思ったんですよね。
 
厳しい自然環境の中で
人間がどう生きてるかを知りたかったので、
私にとっての過酷な自然を
目指したんですね。
それが、私にとっては
草原と砂漠だったんです。
 
 
やっぱり、
『人間が生きている、そういう姿、
生きるということの本質』を、
私なりに理解したことを『伝えたい』。
 
で、やっぱり、
生きているということの、何かこう、
温かい側面を、 
沢山の人に共感してもらいたいような、 
そんな思いがありますね」
 
 
優しい眼差し、温かいですね💗
 
 
 
ナレーション
「小松さんが出会ったのは、
アブドュルラティーフという遊牧民。
3世代が一緒に暮らす
総勢60人ほどの大家族でした」
 
小松さん
「アブドュルラティーフ一家の生活は、
まずラクダの放牧が
彼らの暮らしの生業で、
朝早く起きて砂漠に行って、
ラクダの放牧を
ほぼ1日かけてするんですね。
 
シリアでは、一人が一つの仕事を
しているっていうケースは珍しくて、
家族で沢山の仕事を受け持ちながら、
それを季節ごとに回している、
というスタイルが一般的だったんです。
 
私は砂漠というのが
不毛な大地だと思っていたんです。
荒野だと思っていて、
そこにはほとんど命も存在しないし、
四季もない、と思ってたんです。
 
ただ、彼らと一緒に砂漠を歩いて、
ラクダの放牧を見せてもらったら
実は全く逆で、
物凄く命が実は溢れていて。
夜になると、色んな穴から
ハリネズミとかちっちゃいネズミとか虫が
いっぱい出てくるんですよ。
 
そして四季も豊かで、
冬になると一気に雨が降り、
1日2日で大地が緑色に
変わったりするんです。
 
草が一気に2、3 cm伸びたりして、
そうした変化があって 。
やっぱりその、砂漠という土地が、
知れば知るほど、
物凄く豊かな大地なんだ、
ということがわかったんですよね。
 
それ以上に実は感動したのは、
地図上には砂漠としか書かれてない
土地ですけど 、
アブドゥルラティーフ一家は、
砂漠に代々、名前を付けて
識別してきていた事なんです。
砂粒の色や大きさや形、
そこに生える草の種類などで
砂漠を見分けていて、
それを伝えてきていた。
 
本当に、砂漠という土地に
生きる知恵なんだな、と思いました。
そして彼らにとって砂漠というのが、
『閉ざされた世界ではなくて、
むしろ彼らを違う世界につなげてくれる、
違うオアシスに自分達を誘ってくれる、
開かれた道なんだ』と。
こうした話を聞きました。 
 
で、そうした暮らしをしてる
彼らの一番の豊かな時間、
とされているのが、
『ラーハ』という時間なんです。 
 
 
これは直訳すると、
『ゆとりとか休息と呼ばれる時間』
なんですけど。
 
友達と集っておしゃべりをしたり、
家族と団らんをしたり、
また昼寝をしたり、
こういう時間なんですよね。
 
要は、『のんびりする時間』。
この時間をどれだけ持てるかどうかが、
豊かな人生かどうかって言われるんです。
 
正にアブドゥルラティーフ一家の生活も、
ラーハの時間が物凄く大事にされていて、
とにかくこう、
ゆったりみんな生きてましたね。
 
 
 
 
 皆さん、いい顔されてますね✨



ある時、コーヒーに招かれたことが
あったんです。 
それで、『まあ1時間ぐらいあれば
飲んで帰ってこれるかな』と思い
向かったわけなんですけど。
 
 テントについて1時間ほど経っても
全然コーヒーが出てこないんですよ。
で、私は日本でやっぱり
分刻みの生活をしていたので、
痺れを切らしてしまって、
『あの…いつコーヒーは出てくるんですか』
と聞いてしまったんですね。
 
そしたらその時点で、
『あ、そうだった、じゃあ買ってくる』
と言って、砂漠のテントから、
バイクに乗って
街に豆を買いに行ったわけです。
 
で、帰ってきたと思って見たら、
今度その豆がまだ青いんですよ。
豆を煎るために、
焚き火を焚かなきゃいけないわけですよね。
 
その焚き火を炊くための薪を
今度はみんなで集めに行って、
集めて火を焚き、それから豆を煎って、
で、豆を砕いてて、
お湯を沸かして入れて、
最後にコーヒーが出てくるまで
結局3時間ぐらいかかったんですよね。
 
その経験から私は感じたことがあって、
つまりは、彼らは
『コーヒーを飲みに来なさい』
と言うけれど、
コーヒーを飲むそのことが
目的じゃないんですよね。
 
大事なのは過程なんですよね。
コーヒーを飲むまでの
その時間を共に共有すること、
ゆったりとした時間の流れに
身をおくということが大事なんです。
 
大事な家族や友人たちと共に
今を生きてるということを
共に味わうということ。
これが『ラーハ』の豊かな時間なんですね。
 
 
ディレクター
「今聞いてと思ったのはね、
いま僕、日本に生きてて、
『生きてる』って感じるのは、
『何かを成し遂げた時』とかね、 
『達成した時とかにだけ』
感じるわけですよ。
それと大違いだなと思って」
 
小松さん
「そうなんです。
人生の価値が違うんです。
日本だと何か目標を立てて
そこに向かっていく過程だったり、
何かを達成したりすることが、
人生の価値とされますよね。
努力をし続けなければいけない。
 
でもシリアの社会では、むしろ
すでにあるものを味わい尽くす、
と言うか、それが
生きている豊かさなんですよね」
 
ナレーション
「そんなシリアが、激動に見舞われます。
2010年から始まった
アラブ世界の民主化運動。
シリアでも反政府運動が起き、
やがて内戦に突入。
 
砂漠の暮らしを撮るために、
首都ダマスカスに滞在していた
小松さんの目の前でも、
爆弾テロが起きました。
アブドゥルラティーフ
一家も混乱に巻き込まれていきます。
 
(一家の)6男のサーベルが、ある日、
突然警察に逮捕されたのです。 
反政府デモに参加していた、
という容疑でした。
 
この写真は、兄の逮捕を聞いた瞬間の
ラドワンさん(夫)を、
小松さんが撮った一枚です」
 
 
 
小松さん
「これはちょうど
その友人と会っていたときに、
ある電話があって、
パルミラで兄のサーメルが
いま逮捕されたという知らせを
受けたんですね。
その瞬間を撮った一枚なんです。
 
その時あまりのショックで、
(夫は)もう寝転んで天井ずっと見て、
数時間言葉を発することが
出来なかったんです。
 
シリアでは一度逮捕されると、
もう戻ってこない可能性の方が
高いんですね。拷問を受けて
生死がもう分からなくなってしまう。
この時、2012年の5月に逮捕された
サーメルも、今10年が経ちますが、
全く行方が知れない状態なんです。
 
その時の苦悩、この瞬間を
私は写真に撮りました。
これを撮った時に、私の中に初めて、
内戦状態となっていくそのシリアが
迫ってきたんですね。
 
 
 
そしてこの写真を撮ったことで、
 私は、『人々がどのように、
かつての生活を失って難民となっていくのか』
これをテーマとして
撮っていこうと決めましたね。
私にとっても忘れられない一枚ですね。
 
少し撮るのを悩んだんですよね。
『こういう状態の時に撮るべきかな』
と思ったんです。
でも、撮らなければいけない瞬間
なんじゃないかと思ったんです。
 
こうやって人に出会って、
お話を聞かせてもらって、
激動の中にある時代を
やっぱり切り取りたいと思った時に、
これは自分にとっても
すごく大事な瞬間だと思ったんです」
 
ナレーション
「この時、兵役についていた
ラドワンさん(夫)は、
政府軍の兵士として
市民に銃を向けなければならない
立場にありました 。
 
 
小松さん
「シリアで民主化運動が始まるわけです。
で、その民主化運動を政府が弾圧をして、
多くの死者が生まれると、
市民が銃を持って対抗するようになり、
シリア全土で武力衝突が起きて行きます。
 
そして市民を弾圧したのが政府軍なんです。
つまりラドワンは、上官の命令次第で
市民を弾圧しなければいけない立場に
置かれていったんです。
 
彼としてはただ、
義務で行かなければいけなかった
兵役だったんですが、
内戦が始まっていく中で
彼は加害者になっていかざるを
得なかったですね。
 
それにラドワンは
物凄く思い悩むようになります。
シリアで何を経験したかというのを、
彼は今でも語らないんですよね。
 
語れない経験をしたんですよね。
彼は一生離さないんじゃないですかね。
ものすごく心に傷を負ったように感じます。
 
夜中に大声を出したり、 
もうパニック状態になっちゃったりした
時期があったんですよ。彼はやっぱり、
人に語れない経験をしたんだな、
っていうことだと思うんです。
それは、語れないということを
時間をかけて見つめていきたいなと
思うんですね」
 
ナレーション
「危機の中、絆を深めていった二人は、
2013年結婚します。しかし当初、
ラドワンさんの父ガーゼムさんは、
結婚に反対していたといいます」
 
 
 
 
小松さん
「夫のお父さんから言われたんですけど、
『シリアで結婚っていうのは
一対一の関係性じゃないんだ』と。
『結婚は私とあなたの関係じゃなくて、
背後に家族や社会がある』と。
『人間は歳を取れば必ず
自分の文化に立ち返ることがある。
その時に違うルーツの人同士が結婚すると、
お互いに難しいよ』って話を
してくれたことがあったんです。
 
『そもそも個人の幸福のために、
一人ひとりは生きてるんじゃなくて、
みんな、家族の幸福のために
存在して生きてるんだ』と。
 
『結婚というのも同じで、
私とあなたが幸せになるために
結婚があるんじゃなくて、
家族の絆を深めて、家族を
大きくしていくための結婚なんだ』と。
『だから、私と夫の結婚は難しいし
反対だよ』ってことを
すごく言われたんです」
 
ナレーション
「その後、シリアでは内戦が激化。
死者は40万人を超え、
国民の二人に一人が家を失い、
難民となりました。
『今世紀最悪の人道危機』と言われています。
 
小松さんは、難民として
異国で生きるシリアの人々の姿を
撮り始めました。
向かったのは、ヨルダン北部にある
ザータリ難民キャンプでした」
 
小松さん
「当時、10万人ぐらいのシリア難民が
逃れていたこのキャンプに行ったんですね。
そこで、逃れてきたばかりの
色んな難民の家族を取材したんですけれども。
 
ある家族が、テントに暮らす、
フセイン一家という家族ですね。
この家族との出会いが物凄く
『難民とは何なのか』ってことを
考えさせられる出会いでしたね。
 
この家族は、逃れてきて3ヶ月ほど
経っていたところだったでしょうかね。
 
結局、難民キャンプというのは、
難民が逃れて来て、避難できるように
色んな物資が整ってるわけですね。
電気やガス水道があって、
また食料が配布される、安全で
生きるための最低限のものがある。
 
ただ、そうした中でも、
この家族のお父さんが
『シリアに帰る』という決断をして
帰ったということがあったんです。
 
彼らだけではなくて、多くの難民たちが
『難民キャンプの生活を続けられない、
ここにはもういられない』っていうことで、
戦地のシリアに帰ってく決断してたんです。
 
彼らが語るのは、
『ここには生活が無いんだ』
と言うんですよね。私にとっては、
空爆の可能性もないし
銃弾も飛び交わない、
安全があって、食べ物も配布される、
そうした生活だと思ってたんですが。
 
彼らに出会って感じたのは、
やっぱり『人間の生活』というのは、 
『どんなに安全であっても、
生きるための自由がない、
それはやっぱり、生活とは呼べないんだ』
ということだったんですね。
 
具体的に聞いたのは、
『シリアにいた頃は
家の隣に小さな畑があって、
わずかな食べ物を育てて
自分が好きな時間に庭に出て
野菜を収穫したり、水をあげたり
日向ぼっこをしたり、昼寝をしたり。
そうした、自分の行動を
自分で判断する自由があった』と。 
 
でも、『難民キャンプのテントの生活では、
そうした生活の自由がないんだ』と。
ただテントに毎日座り続けて
おしゃべりをするだけの生活 。
 
結局こう、『何を食べるのか何をするのか、
どこに住むのかどこに移動するのか、
そうした日々の選択ができること』、
そうした選択の積み重ねで
自分の人生が成り立っている。
 
この実感が、『命の意義』、
『人間の命の尊厳なのではないかな』
と彼らの話を聞いて思いました」
 
ナレーション
「砂漠の豊かさを教えてくれた
夫の家族アブドゥルラティーフ一家も
トルコ南部の都市へ
難民として逃れることになりました」
 
小松さん
「アブドゥルラティーフ一家は、
シリアでは、砂漠で100頭のラクダを飼って
放牧をしてましたが、今、
トルコ南部のオスマニエという高原の街で
羊とヤギと牛を飼って生活してます。
 
やっぱりシリアのパルミラで
彼らがそうやって生きてきたように、
放牧業で根を生やしてきたい、
という風に考えてるんですね。
 
やっぱりガーゼム(義父)を取材して、
彼は私にあまり言葉として語ることが
なかったんですけれども、
ある時言ってくれたことがあったんです。
 
彼86歳だったんですけども、
『この歳になって、
60年以上かけて築いてきたものの全てを
失ってしまった。それは、今考えると
もう自分の手で短期間では
生み出せないものばかりだった。 
すごくそれが悲しい』と。
 
で、ガーゼムはやっぱり
多くを語ろうとしなかったんですけども、
語らなかったということが
彼の言葉だったんだな、
と思うんです。
 
ガーゼムは、トルコに来てからは
ずっと家の屋上で焚き火を焚いて、
焚き火の火を見ながら
『シリアの砂漠でラクダの放牧をしたり
焚き火をした』、そういう思い出を
ずっと懐かしんでたらしいんですよね。
 
やはり、身体は難民としてトルコに来ても、
心は故郷のパルミラを
離れることがなかったんです。
 
ただこうも言ってたんです。
『故郷に帰りたいですか』と聞いたら、
『もう故郷はなくなってしまったよ』
って言ってたんです。 
 
彼らの故郷パルミラが空爆を受けて
市街地のほとんどが破壊されて、
もう住民がほとんどいないんです。
そうなると
『そこは本当のふるさとじゃなくなった』
という感覚なんですよね。
 
結局、『彼らにとっての故郷は、
土地そのものじゃないんだ』
と感じたんです。 
彼らにとっての故郷っていうのは、
『人のコミュニティ』なんですよね。
『シリア人にとっての故郷は
土地じゃなくて人なんだ』
と感じるエピソードでしたね」
 
 
「夫は日本に来て2年ほどは
引きこもりになり、
ノイローゼ状態が続きましたね。 
やはりシリアと日本の人生の価値の違い。
それから孤独感ですね。
 
シリアでは大家族で暮らして、
毎日友人とも顔を合わせていた、
深いコミュニティの絆に生きていた、
そうしたものがもう全くない状態で、
やっぱり孤独感に
かなり苦しんだようですね。 
 
仕事は働けるようになってからは、 
日本の会社を転々としまして、
結局20社ぐらいやって、
ほとんどもう続かず、
すぐ辞めていった形でしたね。
 
ある時は、品川の方まで
毎朝始発に乗って通って、
内装工の仕事をやった時期も
あったんですけど、
結局、始発で行って
終電で帰ってくるような生活で。
 
それを続けている内に
すっかり元気がなくなってしまって。
『内戦下のシリアで政府軍にいた頃の方が
まだ良かった』と。
『この日本の生活は戦争そのものだ』と。
そうした話をしてました」
 
「結婚当初は喧嘩しまして、
『あなた、何もしてないじゃない』って
私も言ってたんですけど、
子供が生まれてからは
家事育児もノータッチだし、
収入をたくさん稼ぐわけでもないので、
かなり衝突もして、
夫にいろんなことを
私は求めようとしたんですけど。
 
でも気がつけば、それは
『日本人的な価値観なんだ』
ってことも思ったんですよね。
 
やっぱり彼は、シリアというルーツで
生まれて育って、
日本に来たとしても、
彼のルーツというのを書き換える事は
やっぱりできないと思うんですよね。
 
彼にとって大切なのは、やっぱりその、
経済的価値とかキャリアじゃなくて、
『いかに時間と心の余裕を
大切に生きるか』なんですよ。
『ラーハを実行してるんだな』
っていうことが分かってきたんですよね。
 
『それがやっぱり彼らしい在り方なんだ』
という事を段々、私も理解しましたね。
彼が大切にしてるものを
私もリスペクトした上で
一緒にいられたらいいなと思います。
 
ですので、彼には
家事育児を負担してもらうとか、
たくさん収入を得るとか
そういうことではなくて、
彼がシリア人として出来ることを
出来る範囲で一緒にできたらいいなと、
私もゆったり考えてます」