こんにちは、Michikoです。

 

《偶然とは思えない不思議な繋がりとご縁》-「最愛の父っつあんへ✨感謝と72年間お疲れ様の気持ちを込めて🍀」

先日6/27、父の吉森 雅昭が72歳で他界しました。

生前、父が入院していた頃より皆さまに気に掛けて頂いたり、心温まるお言葉などを頂きありがとうございました。

私が喪主を務め、7/1に無事に葬儀を終え、父を見送る事ができました。

葬儀をお願いしました原三松堂 はらホールさん、病院の方々、親戚メンバー、ユニットの相方のひろぼーさん、たくさんの方にお力添え頂き、お世話になりました。

関わってくださった皆さまに感謝申し上げます。

数々の不思議な出来事がありました。

大分長くなりますが、少々お付き合い頂けましたら嬉しいです。

父が生きた72年間の卒業アルバムのような感じで、来てくださった方々に父の人生を知って頂きたい、ほんの少しでも心に残して頂けるような葬儀にしたいと思いました。

父が好きだった音楽をBGMにして頂いたり、7枚に渡り、父のエピソードを纏めたものや、父へ宛てた手紙(この投稿の最後に貼り付けています)を、素晴らしい司会とナレーションで語って頂きました。

規制の作られたものではなく、葬儀を担当して頂いた はらホールさんには親身に相談に乗ってくださって、皆さんと一緒に唯一無二の葬儀で父を見送る事ができました。

ご参列頂いた皆さまからも「心に残る感動的な葬儀でした」「自分もこんな風に見送ってもらえたら嬉しいなと思いました」と感想を頂き、私も嬉しかったです。

◇不思議な共通点
住職さんから「私もお父様と同じくテレサテンのファンなんです」と言われて、父の取り計らいのご縁なのかも?と思いました。
素晴らしいお経と、心に沁みるお話に感銘を受けました。

◇不思議な共通点、その2
長い闘病生活、入院も長く、満足に湯船に浸かる事もできなかったので、父への感謝とお疲れ様の気持ちから、湯灌納棺の儀をお願いしました。

素敵なオプションだと思いました。

体のマッサージや髪の毛も洗って頂いたり、顔色や表情も明るくなりました。

私達も立ち合い、納棺師のお二人と和やかにお話しました。

父と同じく工場高校出身の方で、家電も大好き、もう一人の方は最近広島に行きましたと偶然にも共通点が多く、きっと父の取り計らいなのだろうと。

「繊細で綺麗な手をされていますね」と言われて、細かな作業も得意で、手先が器用な父でした。
指仏もありました。

◇棺に入れたもの
・家電量販店のチラシ
・御座候
・もみじ饅頭、栗入りどら焼き
・バナナ
・牛乳
・鯖の煮つけ(私が作ったもの)

ほぼ食べ物ばかり…(笑)
入院中は食事ができなかったから、食べ物メイン。

◇不思議な出来事
大雨の予報が、殆ど降らなく。
ご高齢の方もいらしたので、父の取り計らいだと思いました。

◇精進落としの御膳の時
母「レンコンの輪の中から、雅昭さんを見てみようか・・・」

と本当に輪から覗いて、遺影の写真を見ている母・・・(笑)

私「もぅ、恥ずかしいねぇ・・・(苦笑)」

母の天然ぶりに親戚メンバーに笑われてしまう・・・。

◇食後のコーヒー
母「皆をホッとさせられたからホット。アイスだけに愛してる」

従妹「吉森家はいつもそんな感じで、面白い事言いようったん?(笑)」

私「ダジャレが多くて、他の人に聞かれたら笑われると思う・・・」

ダシャレ好きの母(^_^;

◇相方への感謝
病院から連絡が入り、私が職場から病院への到着が20時、一旦自宅に寄って母と一緒に行くとなると21時過ぎ、それでは間に合わないかもと言われて、ひろぼーさんに連絡。

たまたま仕事が早く終わり、母を連れてきてくださる事になり、お願いしました。

母が父の最期に間に合ったのは、ひろぼーさんのおかげでした。
感謝してもしきれないほどお世話になりました。

悲しみと寂しさもありつつも、母が冗談を言ったり、穏やかな気持ちで見送る事ができたのは、ダジャレ好きだった父が温かく見守ってくれて、背中を押してくれたのだろうと感じます。

いつも自分の事より周りへの感謝と思いやりを忘れない、優しい人でした。

たくさんの方々に支えられて、喪主を務める事ができました。
ありがとうございます。

父から学んだ事を忘れないように、前を向いて生きていきたいと思います🌸

===
父・吉森 雅昭のエピソード

<工業高校卒業>
広島県の工業高校・電気科を卒業。

家電が好き。
家でも手作りのスイッチや日曜大工のようなものをよく作っていたり、漬物を漬けるのが得意だった。

お酒もタバコも吸わない。
まじめな性格。
若い時から変わらず七三で、ザ・昭和の髪型。

怒ったり声を荒げる事もなく、至って冷静。
記憶力が良くて頭の働きが速く賢い、優しい人だった。

<寡黙で照れ屋>
私が子供の頃に覚えてる父は、寡黙で物静か、怒られた事もないし、なよっちくて暗いなと思っていました。

ないものねだりで、頑固で雷オヤジみたいなお父さんや、よく喋ってくれるようなお父さんに憧れました(笑)

言い合いはあったけど、私の方が声も大きく、負けなかった(笑)

照れ屋で、人見知り。
私の事も「みっちゃん」と呼ぶのが恥ずかしかったらしく、「みっつぁん」と呼ばれていました。

私は「父っつあん」「母っつあん」と呼んでいた。

<母との結婚・お見合い>
母・浩子とはお見合い結婚。

母は当時好きな人がいたらしく、父のプロポーズは断ろうとしていたそう。

しかし、実家の母親に「娘さんを下さい」と急に押しかけて、「『はい』と言うてくれるまで帰りません」と言ったらしく、意外と言う時は言う性格だったのかと知る。

<仕事>
人見知りで人と話す事も苦手だった父だが、若い頃は家電量販店の店員をしていた。

お客さんから「親切丁寧な説明で分かりやすかった」と好評だったらしく、私にはいまだに想像ができない。

当直の日は、女の子が部屋に訪ねてくるほど男前でモテたらしいが、真面目で奥手、付き合ったのは母が初めてだったそう。

<遺影の写真>
家族旅行は殆どしてこなかったが、思い立って行った静岡・熱海・三島の旅行。
20年近く前の写真で、母が選んだ思い出の写真を遺影にしました。

<父との思い出・旅行>
20年近く前、父と金沢に旅行に行きました。
最初で最後の父との旅行。

私が旅館を予約。
方向音痴の私達がどうやって電車に乗って無事に辿り着いたのか不思議です。

食の細い父が全部料理を食べたほどで、よほど美味しかったらしい。

去年、父が金沢旅行の事を思い出し、料理も温泉も良かったと伝えてくれた事、覚えていてくれた事が嬉しかった。

<父の優しさ>
要介護でベッド上の不自由な生活になっても、家族に必要以上に負担をかけないように自分なりに工夫。

見えなくても、音を聴いて、何々が壊れかけているのではないか、古くなっているのではないか、電池を交換した方が良いのでは、買い換えた方がいいよと、よく物事を把握していて賢い人だった。

私が料理をしていると、包丁の切れが悪くなっているのを音から察して、どこどこに包丁の研ぎ器があるから持ってきてと言って、ベッド上で包丁を研いでくれて、

「切れ味が悪くなったらこれを使いんさい」

と、使い方の紙と一緒に渡してくれた事もあった。

<父のために始めた料理>
糖尿を患っていた父。
血液検査の結果が良くなく、私が父の健康管理をしようと、3年前から始めた料理。

糖尿なので薄味にして、和食中心。

魚料理、その中でも鯖が好きで煮つけを作る事が多く、いつも美味しかったと言って食べてくれていた。

料理が作れるようになったのは父のおかげ。

<長年の闘病生活>
2011年から糖尿や骨折を患い、要介護の状態で入退院を繰り返す。

今年の1月から誤嚥性肺炎や肺炎をくり返し、口からの食事ができなくなりました。

自宅にいた時も、入院中も、一度として弱音を吐く事なく、忍耐と根性、どんなに辛くても前向きな父でした。

本当はとても苦しく、辛かったはずなのに、看護師さんへの感謝の気持ちをいつも忘れず、「ありがとう」と伝えたり、

看護師さんからも「『こちらこそありがとう』と思いましたよ。私達への心遣いがいつもあって、優しいお父さんでした。面白い事を言ったり、冗談もあったり、明るく楽しませてくださってユーモアのある人でしたよ』と言われて、嬉しかったです。

父の芯の強さ、どんなに辛くても最期の最期までユーモアと、感謝の気持ちを持ち続けていた事を、この年になって知る。

自宅で介護の時も、家族へも「ありがとう、すまんのう」と感謝の気持ちを伝えてくれました。
感謝の気持ちを忘れない事、父から学んだ事でもありました。

<父の最期>
6月末に病状が悪化し、何度も病院に駆けつけました。
最期の日は仕事帰りに病院に寄り、母も間に合いました。

父が好きだったテレサテンや、ポールモーリアの音楽をかけたり、話しかけたり、手を握ったり、血圧も50から70に上がって、もう少し大丈夫かなと思って、お水などを買いにコンビニへ。

戻ってきたら心肺停止。
そばにいた母もいつの間に?と一瞬の事でびっくり。

私「もー、父っつあん、あっという間すぎて泣けなかったじゃん!」

母も、えー!えー!どういう事!?といった様子。

私達が号泣するより、気づかないくらい急にの方がいいと思ったのか、それが父の優しさだったのだろうと思います。

<父の心遣い>
父が亡くなった日は病院を出るのが深夜になり、タクシーも終わっていて捕まえるのが困難な状況。

たまたま休憩中の看護師さんと話し、タクシーのGoのアプリを入れてもらう。
先日の患者さんはタクシーが捕まらず、朝まで病院で待っていたらしい。

偶然1台タクシーが見つかり、母と私と一緒に帰宅。

きっと父の見えない力で、タクシーを呼んでくれたのだろうと思う。

<偶然であり必然でもあった>
寝台車を呼ぼうと、病院から幾つか情報を頂いて電話をかけてみるが、24時間対応のところに何度かけても繋がらない・・・。

ネットの口コミで検索して電話。

一番に繋がって、対応も良かったのでお願いしたのは、はらホールさん。

翌日、父のベッド上にあった書類を整理していて、出てきたのは、はらホールさんの広告。

偶然にも父が候補に上げていた葬儀屋さんと、私がネットで選んだ葬儀屋さんが同じだった。
ものすごい偶然に驚き!

父の思いが私に伝わったのだろうと思い、不思議なご縁に感謝。
それで何度かけても他のところには電話が繋がらなかったのか…(^_^;

父が望んでいた葬儀屋さんにお願いして良かったと思う。

父の気持ちが伝わってきて、この日初めて涙する。

<ダジャレ好き>
「噛んでもカマンベール」など、ダジャレも好きだった父。

===
【父への手紙】
とっつあんへ

私は随分長い間、とっつあんの事を誤解していました。

寡黙でおとなしくて暗くて・・・。
子供の頃は父親似の太い眉毛も嫌でした。

病状が悪化してきて、とっつあんと過ごせる時間が僅かしかないと分かってから、今までの事をいろいろ思い出したよ。

とっつあんと2人で行った、最初で最後の金沢旅行。
食が細いのに、美味しかったと全部食べてくれて、ありがとう。

3年前から始めた料理。
苦手だった料理が作れるようになれたのは、とっつあんのおかげ。

糖尿のとっつあんに元気になってもらいたくて工夫して作ったよ。

いつも「美味しかった」と言って食べてくれてありがとう。嬉しかったよ。

2011年から糖尿を患ったり骨折したり、闘病生活も長くてベッド上の生活も大変だったね。

心臓病と、足腰の弱い母っつあんの事を心配したり、いつも私達の負担にならないような気遣いもありがとう。

この数ヶ月、肺炎を患ってからは食事もできなくなって辛かったと思う。

長い闘病生活も、いつも前向きに弱音を吐く事も全然なくて、とっつあんの芯の強さを知り、私も学びました。

とっつあんの最期は本当に急でびっくりしたよ。
私がお水を買いに少し席を外した時に急に心肺停止。

「もー、あっという間すぎて泣けなかったじゃん!!」思わず叫んだよ。

でもきっと、母と私が号泣しないように・・・と、とっつあんの優しさじゃったんじゃね。

自分がどんなに辛くても弱音を吐かなかった事、前向きでいつも周りへの気遣いと感謝の気持ちを伝えてきた事、優しさと芯の強さ、忍耐と根性。

そして、ユーモアとダジャレ。

『噛んでもカマンベール』

最近の中では、一番面白いダジャレだったよ。

とっつあんから、たくさんの事を学んだような気がします。

ここ数ヶ月肺炎で食べられなかった分、好きなものを食べてね。

とっつあんが好きだった鯖の煮つけも入れたし、どら焼きや、もみじ饅頭も持ってきたよ。

男前でカッコいいお父さんと言われるたびに誇らしかったよ。

子供の時は誤解しとってごめんね。
自宅にいる時もなかなか優しい言葉で返せなくてごめんね。

若い頃は静かであまり喋らない人だったけど、入院が長くなったり人と接する事が増えてよく喋るようになって、根はダジャレ好きの面白くて優しいお父ちゃんだったね。

照れ屋さんで、手を振ってくれるような人じゃなかったのに、面会に行って帰り間際に

「また来週会いに来るよ」

と言ったら、手を振ってくれたね。

昔はそんな事、絶対しなかったのに、とっつあんも変わったんじゃね、と思ったよ。

長年の闘病生活、72年間の人生、お疲れ様でした。
ゆっくり休みんさいよ。

最期まで諦めずに病気と闘い、生き抜いた人生、素晴らしいと思います。

とっつあんの娘に生まれてきて良かったし、楽しかったけん。
ありがとう。

母と私の事を愛してくれて、いつも優しく、気遣ってくれてありがとう。

もし生まれ変われたら、また家族になってね。
絶対また会おうね。

近くにおる時は、「ここにおるで~」と教えてよ。

大好きなとっつあんへ、心を込めて🍀

 

美智子より

 

20年前に家族で静岡に旅行した時の写真。
母が選んだこの写真を遺影にしました。
ザ・昭和、七三の父

 

父っつあん、ありがとう✨ゆっくり休みんさいよ。

 

・家電量販店のチラシ
・御座候
・もみじ饅頭、栗入りどら焼き
・バナナ
・牛乳
・鯖の煮つけ(私が作ったもの)

父が好きだったものを入れました。
ほぼ食べ物ばかり(笑)