知らなかった。 | いばらのブログ

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つまらない日常です(^_^;)

模擬原爆なんて知らなかった。

まだまだ知らない事があるんだろうな。


太陽がかさをかぶり、薄い雲が伸びる茨城県日立市の上空に、1機のB29爆撃機が飛来した。

広島・長崎への原爆投下前の1945年7月26日午前9時ごろ。米軍機は訓練のための模擬原爆、通称「パンプキン」を日立製作所山手工場(同市白銀町)脇に投下した。

「懐をえぐるような、嫌な音だった」

当時小学5年生だった大越勲さん(89)=同市高鈴町=は、この日の衝撃を今も忘れられずにいる。着弾地点から約2キロ離れた日立駅近くにいたが、爆発音は腹の奥にまで響きわたった。

■焦土の街歩く

母親に買い物を頼まれ、当時住んでいた鉱山街から山を下りて茨城県東海村へ行く予定だった。だが、駅構内で汽車を待つ間に空襲警報が鳴り、混乱の中で一緒にいた近所の女性を見失った。

駅近くの防空壕(ごう)に逃げ込もうとしたが、空きがなかったのか「だめだ」と断られ、海岸に10本ほどあった松の木に身を隠した。迫る米軍機が視界に入ると「木の根元にしがみついたまま動けなかった」。そのうちに爆発音が聞こえてきた。

恐怖と心細さに襲われ「とにかく早く家に帰りたい、その一心だった」。警報がやむと、1週間前の爆撃で焦土と化した街を1人で歩き続けた。

パンプキンは長崎型原爆「ファットマン」と同形同大で、1機に1発しか積めない重量1万ポンドの強力な爆弾だった。

ずんぐりした形状からそう名付けられ、終戦間際に日立、同県北茨城市を含む国内各地に49発投下された。硫黄島から日立に飛来したB29は当初、新潟県の長岡を狙ったが、天候不良のため断念。折り返して太平洋沖に出る直前、高度約8400メートルから日立に投弾した。


「結果は良好」。米軍内では炸裂(さくれつ)した瞬間の空撮写真とともにそう報告された。この機は、広島への原爆投下の際、予備機として硫黄島で待機した。

■46年後の真実

鉱山電車の線路があった日立の着弾地点には巨大なクレーターができた。大越さんは帰り道、その現場に遭遇する。

道路脇の工場は無残に鉄骨をさらし、小山の上に立つ寺は屋根瓦が吹き飛ばされた。直径約10メートルの穴のそばには、八の字にひしゃげた自転車が転がり、白い塀には真っ赤な肉片のようなものがへばりついていた。

死傷者は10人前後。周囲では大人たちが話し込んでいたが「内容が頭に入ってこない。自分も気持ちがまとまらず、言葉が出なかった」。約10キロ歩いても疲れは感じなかった。

帰宅すると、母親は何も言わずに抱き締めてくれた。「1人で帰ってきて余計に心配したのだろう」。米軍資料の調査であの爆撃が模擬原爆と分かったのは終戦から46年後だった。

「長男は鉱山に」という父の教えを守り、戦後は日立鉱山(日本鉱業)に就職し、定年まで勤め上げた。現在は着弾地点に程近い自宅で静かな日々を送る。