両親の背中。 | plus+*

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2013年5月に男の子を出産。2015年6月に女の子を出産♡育児のことその他、何となく思ったことを気ままにつづる日記、時々長文です♡

自分が子の親となって。


色々と見えてきたものがある。



赤ちゃん泣き




親はすごい。


私は、4歳上に姉、2歳上に兄がいます。

そして本来ならば平成元年生まれの私の妹か弟かがいたかもしれないことも聞いたことがあります


時代背景もあるけれど。


年の近い子ども3人育てたのがまずすごい。

ま、末っ子の私の、幼かった頃の記憶の母はとにかく怖くて泣き笑い鬼のようでした♡←今思えば2歳差の3人兄弟だもの、キレて当たり前。



なんとなくの自分自身の中の印象だけど。

しっかり者で真面目で面倒見のいい、おねーちゃん。

賢くて、面白くて、明るい、おにーちゃん。

なんにも考えてない、けど、すっごい周りをよく見てる、わたし。


そんな感じでした泣き笑い


私は、姉の助言や堅実さにも、兄の朗らかさユニークさ(?)にもどちらにも助けられた気がしています。勝手に。




両親ともに地方の山間の町出身で一時的に都会へ出ていた頃もあったけど、地元に戻ってお見合い結婚。


3人目の子どもとなる私は基本的に放置だったわけですが♡

自由を与えられて、「勉強しなさい」なんて一度も言われたことないまま自主的に勉強してました。けど、自力での限界もあってニコニコ もっと勉強しとけば違った未来があったかもとは思います←が、今も十分に幸せです



ちょいちょいブログ内でも出てくるけど、母がよく「お金がない」と言っていて。「お金がなくて本が買えないから図書館ばかり行ってた」とも。


お金はないけど、3人とも高校受験に向けて小5くらいから塾に通わせてもらって、3人とも私立高校へ。

姉は私立高校特待生から国立大、兄は私立高校から公立大、私は私立高校特待生から私立大へ。


私の時の大学の授業料は、すでに就職していた姉が払ってくれていた時期もあります赤ちゃん泣き 


経済的には高卒で就職でもおかしくなかった家だったのだと思うけど、姉と兄は勉強がよくできていたし私は中途半端でした泣き笑い


私は高校で進路を決める時に、服飾とか美容師とかの道を考えていたのだけど、「行くなら短大くらいでええ」と父に言われて。当時は、女子は短大へ行く人も少なくない時代でした。


「(服飾美容系の)専門学校へ行かずに短大に行くくらいなら大学行くわ」(私)と、大学へ。


大学入試も、センター試験はボロカスで。

公立大への推薦入試も落ちてしまい。←申し訳ない

私立大の一般入試に、「絶対受かる」つもりで滑り止めは無く、その一度に掛けて。

受験料は自身のお年玉からでした泣き笑い←末っ子魂

高校から親元を離れて寮生活を送っていたので、願書やその後の手続きなども寮の近くの郵便局から自分でやった記憶があります。

ちなみに3人とも高校から親元を離れて寮生活だったので、自立はまだとしてもここで自律心が育まれた気がして、勉強だけじゃない経験を積ませてくれて両親には感謝してます。




その昔、実家には算数、数学だったかな(?)の辞典のようなものがあって。


子の親となって、それが『自由自在』だったとわかりました。当時の私には難しくて泣き笑い 姉や兄はチャレンジするようによく使っていました。


わたし=あー、難しそう、やーめた

姉や兄=なにこの問題は!解いてみる!


そんな感じ。


これですよ。違いは。


しかも父が、リアルに「チラシの裏面」を使って一緒に解いてました。父も「難しいなー」と言いつつ挑戦し、一緒に解いては「こんなに難しい問題解けるなんて、頑張ってるね、すごいね」と子を褒める。


そんな父は地元の工業高校卒。機械をイジるのが好きで自動車整備士に。広島県という土地柄も影響したと思うし、貧しかった時代にいたのかもしれないし、手に職という選択。

(広島の自動車メーカーにいたので、時代によっては豊かな時もあったのかも)


ロゴがバーンと描かれた作業着で朝家を出て、帰る頃には黒い油にまみれて。油臭くて。洗濯機では中々とれないんだよね泣き笑い

当時のわたしにはヒーローのように見えて目がハート 



父はアホうで、一家をよく爆笑させてました。なんつーか、しょーもないんです。


母のことを、子どもの前では「ばーやん」と呼んでいて、「ばーやんの出た学校は、エドモンド・ライオン学校ゆうんよ」と。※嘘の話です


エドモンド ライオン学校


という語感がもう子どもながらに強烈で。


すっごい、頭良さそう!で、ん⁈感のある学校名。


エドモンド ライオン学校を超える語彙力は、わたしには無いです。



父は新聞をじーっと読んでいたし、生活欄的なとこもよく読んでは子どもたちに周知。

難しい算数や数学の問題もよく解いていました。


もしかしたら父も大学へ行きたかったのかもしれないし、なんとなく、行ったら行ったで、学生の「運動」だとか思想に傾倒したんじゃないかなと。そんなタイプ。


40歳を超えた子どもたちが生まれる前から日記も残していて、もう何十冊にも及んでいます。万年筆なので、雰囲気もある。日記というか、手記感ある。




で、母はというと。


「金がないけえ」と、子に言うのと同じく、「勉強のことはようわからんよ」とも。



たしかに。


勉強面は放置だったけど、母から授かったことと言えば底抜けの明るさ。


例えば、不安なことがあると…


「ええ、ええ、せんでええ。大丈夫!大丈夫よ! 心配しんさんな!大丈夫じゃけえ」と、いつも。


子どもながらに、(なにも考えてないんだな)というのはわかるんだけど、最高に救われて、母のその姿勢にはほんとに感謝しかないです。



子どものことを心底信じてる、不安を取り除く、前向きな声掛け、みたいなのが実に完璧で。




決して裕福ではなかったけど(明るい貧乏)、算数や雑学、あとはしょーもないことで人を笑わせることが好きで子煩悩な父と、学問的ことはなーんも考えてないけど、底抜けに明るくて、いつも子どもを褒めてくれて、悪いことにはガツンとキレてくれて、達筆&筆マメ、ご飯美味しい、おおざっぱ母。


わたしは、人の笑顔が嬉しい精神(?)と、日記を残す気質(?)は、父に似たような気もするけど、母のような明るさには至ってなくて、いまだに子どもにカリカリ、イライラするし、こーした方がいい、あーした方がいいみたいな誰ファーストかわからない一言も多い。


自分が子どもを叱る時は、こんな子どもの親である自分が恥ずかしいんじゃないかとか、自分が恥ずかしいから叱るんじゃないかとか思うこともあって不安 母はそういのが全く感じられなく、ほんとに子ども目線に立ってくれていたなと。自分が親になった今、とくにそう感じます。



昭和の子育て。


不便もあったけど、豊かでもあった気がします。


今の子育ては、豊かな面もあるけど、子も親もしんどさもある泣き笑い


我が子を前にして、自分がもう40代なのがもう衝撃で…


いや、少し前まで野山駆け回ってましたけど⁈


私は地方の田舎の子でしたが。

「あぜ道」←マンガの世界(?)泣き笑い とか。 

「田んぼ」の用水路の水が冷たくてね。おたまじゃくしもいっぱいいて。

雨や雪は飲食。食べられる草花もまずは実際に食べてから知る。


メダカは川にいっぱいいて。子どもだけで川遊び。←けど、親からは「かっぱが出る」とも教わって。

「山」に子どもだけで探検に行って。季節の虫は近所ですぐ採れて。

地方の、今40代の人達はこんなものかな。


今なら、「アウト」一択泣き笑い


今は何が良いのか何が良くないのか、良くないのが悪いのか、とか考えだすと深みにはまる。


我が子達にも背中を見てもらえるように、一生懸命に母ちゃんしつつ…お酒飲んでダラダラしてる働く母親像も、ママに優しく家のこともしっかり手伝う稼ぐ父親像も身近に見せてニコニコ10年後20年後、子ども達がどんな風に感じてくれるか… 親として身が引き締まる思いです(ぜい肉だらけ♡)